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28・椿の道標

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 どんな混乱があって、人間が性欲を捨てたのかはわからない。様々な痛ましい事件が重なり、技術が開発され、当時はそれを望む人が多かったから導入されたのだということは知っている。
 けれどそのあとも、本当の意味での分断はなくならなかった。性を伴わない暴力はいくらでもある。男が存在している限り安心はできないと考える女性も数多くいた。その一人が憂花の母親だったのだ。
 幼い頃から繰り返し、男とは獣なのだと教えられてきた。暴力を振るうのはいつも男で、女は被害者だと。だから犯罪者を産まないように憂花を女として育てるのだと言っていた。そして憂花も幼い頃は母の言葉を何の疑いもなく信じていたのだ。学校や社会では違うことを教えてくることもあったが、それを母に言う度に「彼らの方が間違っている」と言われ、そういうものなのだと納得していた。
 男は悪しき存在だと信じたまま、憂花は高校生になった。
 そして高校一年生の夏、母が事故で帰らぬ人となった。母を殺した車の運転手は男だった。けれどその運転手に怒りをぶつけることは出来なかった。その人もまた同じ事故で亡くなったからだ。一人になった憂花は、親戚の援助などを受けながらも一人暮らしを始めた。几帳面だった母の教えは憂花の生活の隅々まで浸透しており、表面上はそれまでとほぼ変わりのない生活を送っていた。

 そもそもこの世界の普通の人間は生殖能力を失っており、女性であっても月経の類はない。だからこそ憂花は女として、他の女性とほぼ変わりなく生きることが出来ていた。けれど母がいなくなり、自分の身体について知るようになると、自分は本当は女ではなかったのだという事実に打ちのめされた。男である部分を切除したところで女になれるわけでもない。悩みながらも周囲にはそれを見せることなく、憂花は大学の医学部へ入学した。
 そこで〈ナトゥア〉という団体に出会ったのだった。
 人間が本来持っている能力を停止させるようなやり方に疑問を呈する団体。医者を目指す者の中には「健康な人間の身体に手を加えるべきではない」と考えるのもいて、それなりに信者の数を増やしていた。憂花が〈ナトゥア〉に近付いたのは、たまたま学内で勧誘を受けたからだった。そして彼らの思想と母から吹き込まれていた真実とが真っ向からぶつかるものだとわかっていながら、彼らの仲間になることにした。
 母が正しいのか、それとも正しいことは他にあるのか。道標を失いかけていた憂花は、それを見つけようと躍起になっていたのだ。

 〈ナトゥア〉の日本支部のトップである網島は言った。
 かつて人間たちは男と女で分断され、争い、自分たちが持つ能力を捨てることを選んだ。けれどその失敗を知っている今なら、本来の肉体でも争うことなく生きることが出来るのではないか。
 けれど憂花はそれは現実的ではない、あまりにも楽観的な考えだと思った。
 失敗を知っていても、かつての人間は何度も戦争を繰り返してきた。それと同じように、過去の失敗から人が学べることなどごくわずかだ。人間が本来の能力を取り戻したとき、再び争いが起きるだろう。母が言っていたように、男が女を虐げる世界が再びやってくる。女は男がいる限り安心できなくなる。
 
 ――画面の向こうでは、それを証明するような事態が起きていた。

 男は所詮性欲には逆らえない存在だ。地位があろうと、心に誓った人間がいようと、欲に呑まれれば女を襲う。強い催淫剤を使われ、雛と優香に散々責め立てられ、自ら優香に腰を打ち付け始めた稔を見て、憂花は誰が正しかったのかを確信していた。

「結局、お母様が一番正しかったのね」

 母という道標を失い、〈ナトゥア〉に協力しながら独自に研究を重ね、〈ナトゥア〉のメンバーが使っているものよりも劇的に人が本来の能力を取り戻す方法を見つけた。それがかつての明らかに人間たちよりも強い、異常なほどの性的な欲求を喚起するものだということもわかっていた。けれどそれで問題なかった。人の世界が混乱に陥っても構わない。このまま広がり続けていって、耐えきれなくなった男が女を襲うようになってもいい。そんなことは織り込み済みだ。それで男は結局悪しき存在なのだということが証明できるのだ。
 そして男として生まれた自分自身のことも。
 同意なく他人の身体に手を加えることは悪いことに決まっている。それに手を出した時点で、自分も紛れもなく悪なのだ。
 全て母が正しかったとわかればそれでいい。人間が生殖能力を取り戻すという〈ナトゥア〉の目的は、憂花にとっては手段でしかなかったのだ。手段にそれほど長い時間をかけられはしない。稔の疑問は憂花と〈ナトゥア〉の最大の違いを突くものになっていたのだ。

「あなたは聡い子だったのね。でももうおしまい。あなたはただ目の前の女を食らうだけの獣になる」

 画面の向こうでは、今度は雛が稔の身体に手を伸ばしていた。新垣も何だかんだと言いながら、快楽に負けて和紗に手を出した。稔もきっと同じだ。結果の予想は出来ている。憂花はその唇にゆっくりと笑みを浮かべた。

 しかし予想通りの出来事は起きなかった。稔が頭を押さえて一瞬動きを止める。そして再び顔を上げたとき、稔の目には強い光が戻っていた。

「どうして……?」

 こんなことは起こるはずがなかったのに。画面に触れるその手が微かに震えていた。

***

「……君たちは、どれだけ人の思いを踏み躙れば気が済むんだ」

 静かだけれど怒気を孕んだ言葉。雛はこれまでとは違う空気を感じたのか、稔と向き合う姿勢に戻った。

「人の思いなんて、快楽の前では無意味ですよ」
「そんなことはない。璃子や和紗と、君たちは違う。君たちとそういうことをしたって、心は永久に満たされない」
「これでもそういうことが言えるんですか?」

 雛は棚から小さな機械を取り、それを自分の膣の中に挿入した。羽音のような機械音と、微かな雛の嬌声で、それがどんな機械なのかは稔にも理解できた。しかしその次の彼女の行動は、稔にとっては全く予想外だった。
 雛は稔の上に強引に跨がり、そのままそそり立つ肉棒の上に腰を下ろしていく。稔の者は雛の中にあっという間に呑み込まれていく。肉がうねって締め付けられる感覚。同時に雛の中に挿入された機械の振動が、稔の身体に直接伝わってきた。強烈な刺激に稔は背中を反らして声を上げる。

「あッ、ああ……っ、う、は……っ!」
「このまま心なんて忘れちゃえばいいんですよ。そうしたら、気持ちいいことだけが待ってるんです」

 機械の振動音と、肉と肉がぶつかり、体液が混ざり合う音が響く。稔は目の前が白く明滅しているのを感じていた。強烈な快楽で頭が支配されていく。それでもまるで希望に縋るように、愛しい二つの顔を思い浮かべていた。
 今すぐにでも抱きしめたいと思う相手だ。そして繋がりたいとも思う。でもそれだけではなく、ただ傍にいたい人だ。綺麗だと思うからずっと眺めていたい。その美しい一瞬をキャンバスに縫い止めたい。
 先程までとは違い、その光は雛にどれだけ責め立てられようとも消えることはなかった。けれど身体は別だ。絶頂に向かって勝手に追い立てられていく。稔は首を横に振るが、雛の腰の動きは速く激しくなっていく一方だった。

「っ、それでも……俺は……っ!」
「もう出ちゃいそうじゃないですか。説得力ないですよ」

 雛が言う。その言葉の通り限界は近かった。けれど心にはブレーキがかかっている。自分が本当に欲しいものはこれではないのだと気付いてしまったからだ。けれど気付いてしまったところでこの状況から逃れる術は見つからない。男の力があれば雛一人簡単に撥ね除けられそうなものなのに、身体に力が入らない。
 目を閉じれば、浮かぶのは璃子と和紗の顔だけだった。助けを求めたところで届かないとわかっていても願ってしまう。いや、助けられたいのとは違う。今すぐに二人に会いたい。その存在を感じていたい。それだけなのだ。

「んっ……あんっ、ああぁんッ♡ ほら、先輩ももう射精ちゃいそうでしょう? 私の膣内ナカを先輩のエッチなお汁で、いっぱいにしてぇ……!」

 もう限界だ。いくら心がブレーキをかけていても、身体は逆らえない。目の前に閃光が弾け飛ぶ。腰のあたりから熱が上がってきているのを感じたその瞬間に、轟音と馬のいななきが響き、驚いた雛が動きを止めた。

「どうして……」

 雛が呟く。大きな音に反応したのか、気を失っていた優香も身体を起こした。破壊されたドアのところには釘抜きを持った璃子と、クリスティーヌに跨がる和紗が立っていた。

「稔は返してもらうわよ!」

 ドア自体は堅牢だったが、古くなっていたのか蝶番の付け根が脆くなっていたようだ。璃子はそこを狙って攻撃して、見事ドアを破壊できたのだろう。今自分が置かれている状況も忘れてそんなことを分析してしまう程度には、稔も急に現れた二人に驚いていた。

「ずいぶん好き勝手にやってくれたみたいだね。雛ちゃん、優香ちゃん」

 和紗はあくまで冷静に言葉を発していたが、長年和紗のことを見てきた人間なら、彼女がとても怒っていることが見て取れるだろう。雛と優香もその気迫に呑まれたのか、わずかに後退った。

「稔、大丈夫?」

 その隙に璃子が稔を抱き起こした。いま璃子に触れられるのは辛い。身体の至るところが敏感になってしまっていて、言葉を発することも難しかった。

「多分、大丈夫じゃない」
「ごめんね、しばらく我慢して。拓海くんたちや応援の人たちがすぐに到着するから」

 和紗は璃子に目で合図をする。璃子は稔を連れたままで部屋を出ようとした。しかしその直前で、部屋の前に現れた憂花に道を阻まれる。璃子は手に持った釘抜きを構えて憂花と対峙した。

「そう簡単には行かせないわよ」
「これであなたの頭をかち割ってでも進みます」

 璃子の物騒な発言にも憂花は動揺していないようだった。璃子は釘抜きを憂花に向けたままで宣言する。

「もうあなたの好きなようにはさせません。稔も、和紗ちゃんも」
「あくまで彼のことを大切に思うのね。でも、欲を取り戻した男なんて碌なものではないわ。稔くんだって紳士ぶっているけれど、本心では――」

 稔は憂花の言葉を完全に否定しきることは出来なかった。璃子に対して良からぬ想像をしていたことも、その欲を発散するために和紗を利用したこともある。ついさっきまで雛と優香の責めに理性を失いかけていたのも事実だ。しかし璃子はまるで憂花を挑発するように言った。

「まるで『男はそういうものであってほしい』みたいな言い方ね。人間がそんな単純に分けられるわけがないのに」
「璃子……」

 稔にとっての璃子は、ヒーローのようなものだった。正義感が強くて、心優しい。それでいて機転の良さや大胆さも兼ね備えている。ここ最近の出来事で璃子は変わった。けれど本質はそのままだ。強く輝く星は道標だ。朦朧とした意識の中でもはっきりと見える。

「本質を知らない人はいつもそう言うのよ。過去に男がしてきたことを見れば、彼らが危険なものだということはよくわかるはずよ。だからこの世界は変わったのよ」
「それで安寧を得たはずなのに、どうしてそれを壊そうとするんですか? あなたはこの世界が破綻するのを見たいの?」
「そうね。――そうかもしれないわ」

 あっさりと認めた憂花に稔は驚きを隠せなかった。憂花は真っ赤に塗られた唇に笑みを浮かべながら言う。

「この計画で社会が混乱に陥り、性犯罪が蔓延すれば、私たちは間違っていなかったのだと証明される。結局欲を封じられていただけで、本質は何も変わっていないことが露見する」
「皮肉ね。あなたのしでかしたことで、私は正しいとされることが絶対ではないと知ることが出来たのに。正しさの証明なんて出来るはずないわ。正しさなんて移り変わるものだもの」

 憂花はそう言いながら、白衣のポケットから小さな箱を取り出した。中には細い注射器が入っている。

「あまり人を攻撃するのは好きではないのだけれど――あなたが稔くんを離してくれないならこちらにも考えがあるのよ」

 璃子が息を呑む。これまで憂花は命を奪うようなことはしてこなかったが、相手は医者だ。何をされるかわからない恐怖で璃子の体が硬直したそのとき、背後から何かが勢い良く走ってきた。

「クリスティーヌ⁉︎」

 璃子は驚きながらも稔を引き寄せるようにしてクリスティーヌの進路から退く。しかし憂花はクリスティーヌの速さに対処しきれなかった。体当たりはされなかったものの、仰け反った瞬間に注射器を取り落とす。

「和紗……」

 クリスティーヌをけしかけられるのは和紗だけだ。稔が振り返ると、雛と優香を従えた和紗が微笑んだ。

「っ……こんなことで」
「あなたは人間の力を見くびり過ぎたんですよ」

 どこかの神父のような服を着て、白く長い髭を生やした男が憂花の退路を塞ぐように立っていた。男の後ろには男と同じような服を着た十人ほどの集団と、拓海と拓海の父親の姿が見える。

「観念するのです。さすがにこの人数を相手にするのは難しいでしょう?」
「こんなに人を連れて来られるなら……もっと早く出来たんじゃない、網島さん?」
「あなたの心が変わるのを待っていたんですよ。けれどそれは間違いだったようです」

 璃子が小声で男の正体を稔に教えた。かつて憂花が所属していた組織の人間だという。その組織といえば人間を自然の状態に戻すことを目的としていたはずだ。味方と考えて大丈夫なのだろうか。不安になる稔に璃子が囁く。

「大丈夫よ。とりあえず今は味方だから」

 網島たちと憂花は暫くにらみ合いを続けていたが、やがて憂花が観念したように息を吐き出した。

「――まあいいわ。種は蒔いたもの」
「だが、君の望むような混乱は起こさせない。我々が目指しているのは、愛と歩み寄りのある世界なのだ」
「そんな世界なんてあり得ませんよ、網島さん。――けれど、そうね。肉欲に打ち克とうと無駄な努力をする人もいるということはわかったわ」

 思いのほかあっさりと、憂花は網島たちに連れられていった。このあと網島たちが何をするかはわからない。そもそも何が起こったのかもわからずに稔は戸惑っていた。

「――ま、稔も命に別状があるとかではなさそうだし、ひとまず一件落着ってことでいいんじゃないか?」

 拓海が場の空気を変えるためか、わざと明るい声で言う。璃子と拓海がその場をまとめるために何かを話し合い始めた。

(とりあえず……終わったってことでいいのか)

 安堵した瞬間に身体の力が抜ける。バランスを崩した身体を細い腕で軽々と受け止められ、稔は少し驚いた。けれどよく知っている感覚だ。

「お帰り、お兄」
「まだ家じゃないけど……」
「そういう意味では、暫く家に帰れるかどうかはわからないんだよなぁ」

 和紗の体温と表情に、安心感を覚える。最後の最後で自分自身を失わずにいられたのは、和紗と璃子がいたからだ。稔は聞こえるか聞こえないかの声で言った。

「――ありがとう、助けてくれて」
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