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21・不可逆の変化
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「もう、元には戻らないってことですか?」
診察室にいる人間の中で、一番落ち着いているのが当事者であるはずの和紗だった。和紗の目の前には一週間の療養を経て復帰した新垣医師。そして和紗の後ろには兄の稔と両親が立っていた。
和紗の体には大きな変化が起きていた。それは憂花も言っていたことで、新垣が行った検査はそれを確定させるためのものだった。生殖能力の復活。それに伴い、救出されて二週間が過ぎた和紗の体は現在、人知れず血を流している。旧時代では生理と呼ばれていたものが和紗の体にも訪れたのだ。
「和紗さんが感染させてしまった人たちに関しては、四回ほどの治療薬の投与で元の状態に戻るでしょう。しかし、和紗さんに関しては進行しすぎていて、もうその薬が効かない状態になっていると言えます」
稔は一週間前に打たれた注射を思い出していた。それは性欲の異常亢進と生殖能力の回復を止めるための薬だった。子供のときに予防接種と同時に打たれるものを改良した薬だという。確かにこの一週間、稔は前のような生活を取り戻していた。このままあと三回注射を打てば完全に元通りになるという。
「性欲の異常亢進の治療と、ホルモンバランスを整える薬に関しては一定の効果はあるようですが……今のところ、生殖能力に関しては元に戻す方法はありません」
母は泣いていた。娘の体が取り返しのつかない状態になってしまったということを突き付けられたのだから、当然の反応だ。父親もその母を支えているようでいて、ショックを隠しきれていない。その中で、和紗だけが落ち着いて新垣の話を聞いているように見えた。
「元に戻らないなら戻らないで、対処する方法はあるんですよね? だって昔の人はこういう体だったわけだから」
「そうですね。今ホルモンバランスを整えるために処方している薬は、前時代では避妊薬としても使われていたものなので、飲み続ける限りは妊娠の可能性は低く保たれると考えられます。薬を飲んで気分が悪くなったりとかはないですよね?」
「最初は少し吐き気があったけれど、今は大丈夫です」
「薬は継続していきましょう。ほかに何か気になるところはありますか?」
診察は淡々と進んでいく。和紗は現状を受け入れるのがとても早かった。そのおかげもあって、和紗以外の感染者の治療は順調に進んでいるという。しかし気がかりなこともあった。
「あの……私以外の人も、このまま治療しないで放っておいたら、同じようになってしまうんですか?」
「おそらくは」
「……そうですか」
和紗が気にしているのは、行方知れずとなっている二人の女子生徒のことだろう。新垣があの地下室で最後に会った少女は雛と優香だったらしい。二人は憂花の側についたのだ。当然治療を始めているはずもない。けれどきっかけはどうあれ、和紗が気に病むことではないと稔は思っていた。二人は自分の意志で憂花につくことを選んだのだ。そのために体が変化してしまうことも当然理解しているだろう。けれど和紗は誰にでも優しいその性質を変えられないようだった。
***
「あ……っ、んぅ、んん……っ、ひなぁ……ッ!」
「優香……ッ、あああ、わたし……っ、ああ……んんっ」
少女が二人、白い部屋の中で睦み合っていた。互いの性器を擦り合わせて快楽を貪る二人の体には妖しく発光する模様が浮かび上がっている。雛と優香。親友同士であり、和紗のファンでもあった二人は、すっかり悦楽の虜になっていた。
「ふふ、二人とも気持ちよさそうね」
少女たちの痴態を眺めながら憂花は微笑んだ。憂花の声に反応して、二人は体を絡ませ合いながら憂花を見る。
「ああ……憂花様、もっと……っ、もっと気持ちいいのが……っ」
「そう。じゃあこれを貸してあげる」
憂花が取り出したのは、両側に挿入できる部分がある性具だった。雛はそれを憂花から受け取り、片側を自分の膣内に挿れていく。すっかりほぐれているその部分は、シリコンのいびつな形の棒を難なく飲み込んでいった。
「優香、いくよ……ッ!」
「うん……っ、あああ……ッ!」
雛は逆側を優香の中に突き入れ、二人の間にあるスイッチを入れた。振動が二人に同時に伝わっていく。二人はそれぞれに快楽を貪りながら腰を動かし始めていた。
「ああ……っ、憂花さまぁ……!」
「んんぅ、んふ、あああ……ッ、ああ……んっ!」
二人は憂花に見せつけるように嬌声を上げる。これは二人の感謝の印なのだ。二人がこうなるきっかけを作ったのは和紗だが、和紗が雛を襲うきっかけを作ったのは憂花だ。二人の崇拝の対象は和紗から憂花に移りつつあった。悦楽を与えてくれる存在に傅く二人。憂花にとっては御しやすい駒だった。
和紗の周辺を調査し、和紗が感染させた者の中から見込みがありそうな人に声をかけた。二人がより感染を広げるきっかけになっていたこともわかっていた。だからこの展開も憂花には完全に予想できていた。憂花は絶頂してもなお行為をやめることのない二人を眺めながらシャンパンをあおる。そろそろ計画は次の段階に進まなければならない。
「もう先輩が手を打ってるだろうから、早めに動かないとね……」
新垣には憂花の計画にある程度対抗するだけの知識がある。少なくとも性衝動を抑えることはできるだろうし、和紗や雛たち以外は元に戻すこともできるだろう。完全に元に戻ってしまう前に進めなければいけない。男性での成功例はまだ少ないのだ。
「二人とも、そろそろ動くわよ」
雛と優香はそのための駒だ。快楽に溺れ、それを得られるためには何でもする。和紗以上に憂花の計画を進めてくれた功労者でもあるのだ。和紗は自分が関わった人間はすべて記憶しているようだが、雛や優香が広げたものについては把握しきれていない。現段階で治療を始めなければ、そのうち生殖能力が戻ることになる。種は蒔いた。少しくらい芽を摘み取られても憂花の計画に大きな影響はないのだ。
「私のお願いをちゃんと聞いてくれたら、いっぱい気持ちいいことをしていいわよ」
「ありがとうございます、憂花様」
二人が声を揃えて言う。悦楽に染まりきった少女たちはまるで獣のようだ。いや、獣だってここまでにはならない。その穢れた姿を憂花は何よりも美しいと思った。憂花の母や、この世界の人たちが嫌悪した、悪徳の美だ。
この世界で許されている美しさの形はとても狭いものだ。健全で、罪がないものしか美しいとは見なされない。眼前の光景は、他の人にとっては目を背けたくなるものだろう。けれど憂花は、世界が美しいと認めるものに美しさを認めることはできなかった。そこは無菌室よりも息苦しい場所だったのだ。
***
体調が安定しているときは部活動に参加してもいいと新垣に言われていた。和紗はその言葉を守り、自分の状態と相談しながらも馬術部の活動に復帰していた。ただ休んでいるだけでは余計なことを無限に考えてしまう。馬に乗っているときの方が無心になれてよかった。
少し間があいてしまったので、徐々に体を慣らしていくメニューにしている。競技で使うような障害を跳ぶのはもう少し先のことになるだろう。けれどクリスティーヌに乗って風を切る瞬間は気持ちがよかった。クリスティーヌは和紗のことを忘れてはおらず、和紗に気を遣って動きを合わせてくれていた。
「ありがとう、クリスティーヌ。今日も楽しかったよ」
クリスティーヌと顔を合わせたときは礼を欠かさない。一緒にいて楽しかったと、乗せてもらえて嬉しかったと繰り返し伝えれば、クリスティーヌも本気を出してくれる。王子様などと呼ばれている和紗だが、実際のところ和紗が一番優しい言葉をかけている相手はクリスティーヌかもしれなかった。
和紗はなれた手つきでクリスティーヌから馬具を外していく。クリスティーヌが少し汗をかいていたので、和紗はホースを持ってきてその体を洗い始めた。洗いながらも、クリスティーヌの体に異変がないかなどを注意深く観察する。今日は障害を跳んではいないが、そのような練習をしたときは脚を冷やしてやるのも忘れない。
「これでいいね。綺麗になったよ」
他の部員が用意してくれていたリンゴを持ってきてクリスティーヌに食べさせる。今日の活動はこれで終わりだ。日が傾いてきている。和紗は馬房に入ったままで、赤く染まった空を眺めていた。
「こんなこと、クリスティーヌに言ってもどうしようもないのはわかってるんだけど」
和紗は呟く。人間の事情が馬にわかるはずはない。ましてや人間ですら混乱しているようなことならなおさらだ。けれど打ち明けられる相手は、誰よりも信頼している彼女しかいなかった。
「元に戻らないんだってさ、私の体――」
新垣がそう言ったとき、母は泣いていたし、父や兄もショックを受けているようだった。けれど和紗は前向きに捉えているように振る舞った。それは彼らを安心させるためではなく、そうしなければ心が暗闇に飲み込まれてしまいそうだったからだ。
「別に病気ってわけでもないし、薬を飲めば体調は安定するし、ドーピング検査で問題になる成分でもないから、これまで通りの生活はできなくはないみたいだけど」
本当にそう言い切れるかどうかはまだわからない、とは言われている。けれどひとまず薬は問題なく効いていた。体が疼いてどうしようもなくなるようなことはない。体に現れた模様も服で隠れる部分だけだったから、あえて言わなければ、和紗の体が他人とは大きく違ってしまっていることは誰にもわからないだろう。
「それでも、自分だけが……っていうのはどうしてもあるんだ」
自分以外の人間は、治療を受ければ元に戻るらしい。稔も璃子もその中に含まれていることに和紗は安堵していた。自分が巻き込んでしまった人たちが同じように苦しむ姿は見たくない。元に戻るならそれでいい。けれど、自分だけはもう元には戻れない。不可逆の変化は和紗に大きな孤独感を与えていた。
「これからどうなるかもわからないし、このまま一生薬を飲み続けなきゃいけないのかもまだわからない。それさえあればみんなとほとんど変わらない状態だって言われても、私がみんなと違うものになってしまったって事実は変えられない」
和紗は自分の腹部に手を当てた。ここに、前時代の人間のように赤子を宿すこともできるという。他にも憂花の被害に遭っている人はいるようだが、今のところは和紗だけがその段階に達しているらしい。知識はあっても、そこに赤子がいる状態というのはうまく想像ができなかった。想像できないものは誰だって恐ろしい。そしてその恐怖を味わっているのはこの世界でたった一人、和紗だけなのだ。
「だからどうするって話でもないんだけどね。もしかしたらいい方法が見つかるかもしれないし」
悲観していても何にもならないとわかっている。それなら目の前にある現実をどう生きていくかを考えた方がいい。そう言い聞かせて冷静に振る舞っていた。けれど弱音を吐きたくなるときもある。
「それでも――……」
零れた涙に気がついていても、クリスティーヌは和紗を慰めたりはしない。そういう馬なのだ。でも和紗を追い出すようなことはしない。和紗は目尻に滲んだ涙を拭って、悠然と体を動かすクリスティーヌに微笑んだ。
「安心するよ。君はいつだって君だね」
何もかもが変わってしまったように見える世界の中で、クリスティーヌだけは我が道を行っているようだった。たったひとつの揺るがないものが希望になるのなら、今の和紗にとってはクリスティーヌがそれだった。
「明日も体調がよければまた来るよ。おやすみ、クリスティーヌ」
診察室にいる人間の中で、一番落ち着いているのが当事者であるはずの和紗だった。和紗の目の前には一週間の療養を経て復帰した新垣医師。そして和紗の後ろには兄の稔と両親が立っていた。
和紗の体には大きな変化が起きていた。それは憂花も言っていたことで、新垣が行った検査はそれを確定させるためのものだった。生殖能力の復活。それに伴い、救出されて二週間が過ぎた和紗の体は現在、人知れず血を流している。旧時代では生理と呼ばれていたものが和紗の体にも訪れたのだ。
「和紗さんが感染させてしまった人たちに関しては、四回ほどの治療薬の投与で元の状態に戻るでしょう。しかし、和紗さんに関しては進行しすぎていて、もうその薬が効かない状態になっていると言えます」
稔は一週間前に打たれた注射を思い出していた。それは性欲の異常亢進と生殖能力の回復を止めるための薬だった。子供のときに予防接種と同時に打たれるものを改良した薬だという。確かにこの一週間、稔は前のような生活を取り戻していた。このままあと三回注射を打てば完全に元通りになるという。
「性欲の異常亢進の治療と、ホルモンバランスを整える薬に関しては一定の効果はあるようですが……今のところ、生殖能力に関しては元に戻す方法はありません」
母は泣いていた。娘の体が取り返しのつかない状態になってしまったということを突き付けられたのだから、当然の反応だ。父親もその母を支えているようでいて、ショックを隠しきれていない。その中で、和紗だけが落ち着いて新垣の話を聞いているように見えた。
「元に戻らないなら戻らないで、対処する方法はあるんですよね? だって昔の人はこういう体だったわけだから」
「そうですね。今ホルモンバランスを整えるために処方している薬は、前時代では避妊薬としても使われていたものなので、飲み続ける限りは妊娠の可能性は低く保たれると考えられます。薬を飲んで気分が悪くなったりとかはないですよね?」
「最初は少し吐き気があったけれど、今は大丈夫です」
「薬は継続していきましょう。ほかに何か気になるところはありますか?」
診察は淡々と進んでいく。和紗は現状を受け入れるのがとても早かった。そのおかげもあって、和紗以外の感染者の治療は順調に進んでいるという。しかし気がかりなこともあった。
「あの……私以外の人も、このまま治療しないで放っておいたら、同じようになってしまうんですか?」
「おそらくは」
「……そうですか」
和紗が気にしているのは、行方知れずとなっている二人の女子生徒のことだろう。新垣があの地下室で最後に会った少女は雛と優香だったらしい。二人は憂花の側についたのだ。当然治療を始めているはずもない。けれどきっかけはどうあれ、和紗が気に病むことではないと稔は思っていた。二人は自分の意志で憂花につくことを選んだのだ。そのために体が変化してしまうことも当然理解しているだろう。けれど和紗は誰にでも優しいその性質を変えられないようだった。
***
「あ……っ、んぅ、んん……っ、ひなぁ……ッ!」
「優香……ッ、あああ、わたし……っ、ああ……んんっ」
少女が二人、白い部屋の中で睦み合っていた。互いの性器を擦り合わせて快楽を貪る二人の体には妖しく発光する模様が浮かび上がっている。雛と優香。親友同士であり、和紗のファンでもあった二人は、すっかり悦楽の虜になっていた。
「ふふ、二人とも気持ちよさそうね」
少女たちの痴態を眺めながら憂花は微笑んだ。憂花の声に反応して、二人は体を絡ませ合いながら憂花を見る。
「ああ……憂花様、もっと……っ、もっと気持ちいいのが……っ」
「そう。じゃあこれを貸してあげる」
憂花が取り出したのは、両側に挿入できる部分がある性具だった。雛はそれを憂花から受け取り、片側を自分の膣内に挿れていく。すっかりほぐれているその部分は、シリコンのいびつな形の棒を難なく飲み込んでいった。
「優香、いくよ……ッ!」
「うん……っ、あああ……ッ!」
雛は逆側を優香の中に突き入れ、二人の間にあるスイッチを入れた。振動が二人に同時に伝わっていく。二人はそれぞれに快楽を貪りながら腰を動かし始めていた。
「ああ……っ、憂花さまぁ……!」
「んんぅ、んふ、あああ……ッ、ああ……んっ!」
二人は憂花に見せつけるように嬌声を上げる。これは二人の感謝の印なのだ。二人がこうなるきっかけを作ったのは和紗だが、和紗が雛を襲うきっかけを作ったのは憂花だ。二人の崇拝の対象は和紗から憂花に移りつつあった。悦楽を与えてくれる存在に傅く二人。憂花にとっては御しやすい駒だった。
和紗の周辺を調査し、和紗が感染させた者の中から見込みがありそうな人に声をかけた。二人がより感染を広げるきっかけになっていたこともわかっていた。だからこの展開も憂花には完全に予想できていた。憂花は絶頂してもなお行為をやめることのない二人を眺めながらシャンパンをあおる。そろそろ計画は次の段階に進まなければならない。
「もう先輩が手を打ってるだろうから、早めに動かないとね……」
新垣には憂花の計画にある程度対抗するだけの知識がある。少なくとも性衝動を抑えることはできるだろうし、和紗や雛たち以外は元に戻すこともできるだろう。完全に元に戻ってしまう前に進めなければいけない。男性での成功例はまだ少ないのだ。
「二人とも、そろそろ動くわよ」
雛と優香はそのための駒だ。快楽に溺れ、それを得られるためには何でもする。和紗以上に憂花の計画を進めてくれた功労者でもあるのだ。和紗は自分が関わった人間はすべて記憶しているようだが、雛や優香が広げたものについては把握しきれていない。現段階で治療を始めなければ、そのうち生殖能力が戻ることになる。種は蒔いた。少しくらい芽を摘み取られても憂花の計画に大きな影響はないのだ。
「私のお願いをちゃんと聞いてくれたら、いっぱい気持ちいいことをしていいわよ」
「ありがとうございます、憂花様」
二人が声を揃えて言う。悦楽に染まりきった少女たちはまるで獣のようだ。いや、獣だってここまでにはならない。その穢れた姿を憂花は何よりも美しいと思った。憂花の母や、この世界の人たちが嫌悪した、悪徳の美だ。
この世界で許されている美しさの形はとても狭いものだ。健全で、罪がないものしか美しいとは見なされない。眼前の光景は、他の人にとっては目を背けたくなるものだろう。けれど憂花は、世界が美しいと認めるものに美しさを認めることはできなかった。そこは無菌室よりも息苦しい場所だったのだ。
***
体調が安定しているときは部活動に参加してもいいと新垣に言われていた。和紗はその言葉を守り、自分の状態と相談しながらも馬術部の活動に復帰していた。ただ休んでいるだけでは余計なことを無限に考えてしまう。馬に乗っているときの方が無心になれてよかった。
少し間があいてしまったので、徐々に体を慣らしていくメニューにしている。競技で使うような障害を跳ぶのはもう少し先のことになるだろう。けれどクリスティーヌに乗って風を切る瞬間は気持ちがよかった。クリスティーヌは和紗のことを忘れてはおらず、和紗に気を遣って動きを合わせてくれていた。
「ありがとう、クリスティーヌ。今日も楽しかったよ」
クリスティーヌと顔を合わせたときは礼を欠かさない。一緒にいて楽しかったと、乗せてもらえて嬉しかったと繰り返し伝えれば、クリスティーヌも本気を出してくれる。王子様などと呼ばれている和紗だが、実際のところ和紗が一番優しい言葉をかけている相手はクリスティーヌかもしれなかった。
和紗はなれた手つきでクリスティーヌから馬具を外していく。クリスティーヌが少し汗をかいていたので、和紗はホースを持ってきてその体を洗い始めた。洗いながらも、クリスティーヌの体に異変がないかなどを注意深く観察する。今日は障害を跳んではいないが、そのような練習をしたときは脚を冷やしてやるのも忘れない。
「これでいいね。綺麗になったよ」
他の部員が用意してくれていたリンゴを持ってきてクリスティーヌに食べさせる。今日の活動はこれで終わりだ。日が傾いてきている。和紗は馬房に入ったままで、赤く染まった空を眺めていた。
「こんなこと、クリスティーヌに言ってもどうしようもないのはわかってるんだけど」
和紗は呟く。人間の事情が馬にわかるはずはない。ましてや人間ですら混乱しているようなことならなおさらだ。けれど打ち明けられる相手は、誰よりも信頼している彼女しかいなかった。
「元に戻らないんだってさ、私の体――」
新垣がそう言ったとき、母は泣いていたし、父や兄もショックを受けているようだった。けれど和紗は前向きに捉えているように振る舞った。それは彼らを安心させるためではなく、そうしなければ心が暗闇に飲み込まれてしまいそうだったからだ。
「別に病気ってわけでもないし、薬を飲めば体調は安定するし、ドーピング検査で問題になる成分でもないから、これまで通りの生活はできなくはないみたいだけど」
本当にそう言い切れるかどうかはまだわからない、とは言われている。けれどひとまず薬は問題なく効いていた。体が疼いてどうしようもなくなるようなことはない。体に現れた模様も服で隠れる部分だけだったから、あえて言わなければ、和紗の体が他人とは大きく違ってしまっていることは誰にもわからないだろう。
「それでも、自分だけが……っていうのはどうしてもあるんだ」
自分以外の人間は、治療を受ければ元に戻るらしい。稔も璃子もその中に含まれていることに和紗は安堵していた。自分が巻き込んでしまった人たちが同じように苦しむ姿は見たくない。元に戻るならそれでいい。けれど、自分だけはもう元には戻れない。不可逆の変化は和紗に大きな孤独感を与えていた。
「これからどうなるかもわからないし、このまま一生薬を飲み続けなきゃいけないのかもまだわからない。それさえあればみんなとほとんど変わらない状態だって言われても、私がみんなと違うものになってしまったって事実は変えられない」
和紗は自分の腹部に手を当てた。ここに、前時代の人間のように赤子を宿すこともできるという。他にも憂花の被害に遭っている人はいるようだが、今のところは和紗だけがその段階に達しているらしい。知識はあっても、そこに赤子がいる状態というのはうまく想像ができなかった。想像できないものは誰だって恐ろしい。そしてその恐怖を味わっているのはこの世界でたった一人、和紗だけなのだ。
「だからどうするって話でもないんだけどね。もしかしたらいい方法が見つかるかもしれないし」
悲観していても何にもならないとわかっている。それなら目の前にある現実をどう生きていくかを考えた方がいい。そう言い聞かせて冷静に振る舞っていた。けれど弱音を吐きたくなるときもある。
「それでも――……」
零れた涙に気がついていても、クリスティーヌは和紗を慰めたりはしない。そういう馬なのだ。でも和紗を追い出すようなことはしない。和紗は目尻に滲んだ涙を拭って、悠然と体を動かすクリスティーヌに微笑んだ。
「安心するよ。君はいつだって君だね」
何もかもが変わってしまったように見える世界の中で、クリスティーヌだけは我が道を行っているようだった。たったひとつの揺るがないものが希望になるのなら、今の和紗にとってはクリスティーヌがそれだった。
「明日も体調がよければまた来るよ。おやすみ、クリスティーヌ」
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