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永遠の刹那、逢魔時。
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相変わらずカラスみたいだと思った。その人は全身真っ黒だったからだ。その人の向こう側に沈みかけたまま止まっている赤い太陽が見える。
「また来ちゃったんだね」
柔らかな声は女性にしては少し低く、男性にしては少し高い。カラスみたいなその人が笑っているのか怒っているのかはわからない。逆光でその顔はよく見えなかった。
「こんなところに来ちゃダメだって、何回も言ってるのに」
「来たくて来たわけじゃない」
「いや、君はここに来ることを望んだんだよ。望まない人の前に、この道は開かれない」
カラスみたいだから、俺はその人を密かにカラスと呼んでいた。目深にかぶった黒い帽子の下に、その瞳が少しだけ見えた。身に纏う黒よりは薄い茶色の瞳。それが真っ直ぐに俺の姿を映している。
「俺は、望んでなんていない」
「だとしたら無意識なのかな。危ないな」
風のざわめきが大きくなる。カラスが言葉を発するたびにこの世界の色が濃くなっていくように感じた。音はよりはっきりと、色はより鮮やかに。赤く色づいた空は、空気までも染めているような気がした。そして風が草木を揺らすたびにどこからか漂う潮の匂い。ここには海などないのに、どうしてそんな匂いがするのだろうか。
「本当はこんな風に話すのも良くないらしいんだけど」
「良くないって?」
「帰れなくなるよって話」
カラスはそれだけ答えると、俺に背を向けてしまった。いつもそうだ。カラスは俺と話をしたと思えば、すぐにこうやって背を向ける。どうしてなのだろう。そんなに俺を元の世界に戻したいのだろうか。
別に戻れなくたって構わない。俺はそう思っているのに。
そもそも俺はここがどこなのかもわかっていない。普通の場所でないのはわかっている。ここは朝に来ても、夜に来ても、ずっと日が傾いたままで止まっている。夕暮れ時が永遠に続いているのだ。けれど風は流れていて、時折鳥が鳴く声も聞こえる。時間の流れは確かに感じるのに、空だけはいつも同じ。
そしてこの場所に全身に黒を纏ったカラスがいるというのも同じなのだ。
***
友達は一人もいなかった。俺の目には見えてはならないものが見えたから。俺は普通ではなくて、普通ではないものは遠巻きにされる。いじめがあったわけではない。無視されていたともいえない。けれど俺に用事がなければ誰も俺のことなど気にかけなかった。いてもいなくても変わらない。俺はそんな存在に成り果てていた。
放課後は苦痛だった。遊びに行く人、部活に熱中する人。それぞれの時間がある。俺はそのどれにもなれなくて、かといって家に帰れば親を心配させるとわかっていたから、同級生と遊んでいると嘘をついて、誰も来ない場所に隠れていた。
それはもう誰も管理する人がいなくなった神社だった。鳥居は土台だけが残り、祠は半分崩れている。不気味な上にスズメバチが巣を作って、遊びに来た誰かが刺されたという噂が広がって、誰も近付かなくなった。それは俺にとっては好都合だった。
スズメバチは市が依頼した業者が駆除してくれたらしい。俺はその神社に毎日足を運んでいた。ここなら誰も来ない。しかも何もいないことはわかっていた。
俺の目は、見てはいけないものを見てしまう。それは俗に言えば幽霊だとかそういう類のものだった。打ち捨てられた神社など、いかにも何かがいそうなものなのに、そこには何もいなかった。それどころか神様がいたような気配もなかった。普通の神社なら、鳥居をくぐった瞬間に何か違う空気を感じるのに、そこにはそれすらなかった。
かつて神様がいたとしても、もうここには何もいない。だからこそ俺の安全地帯だったのだ。
けれどそこはどう足掻いても俺の土地などではなかったのだ。
きっかけがなんだったのかは思い出せない。けれど俺は神社跡で眠ってしまって、気がついたら別の場所に来ていたのだ。夕焼けがずっと続く奇妙な場所。そしてカラスがいる世界。
カラスはいつも俺を追い返そうとする。決して強く言うことはないが、俺に背を向けた後は一言も喋ろうとしない。俺はいつもカラスと話そうとして、けれどその頑なさに諦めてカラスから離れていく。そうするとあの神社跡に戻れる。そして戻ってから時計を見ると、わずか数分しか経過していないことに気がつくのだ。
この世界と俺の世界とでは時間の進み方が違うのだろう。竜宮城と陸の上での時間が違うようなものだ。けれどこの夕焼けの世界で過ごした時間はどうやっても忘れられない。現実の世界に居場所がない俺は、時折迷い込んでしまうその世界のことを日頃から考えるようになっていたのだ。
「……帰れなくなってもいい」
俺はカラスの背中に向かって言う。帰ったところで俺の居場所はないのだ。決して虐げられているわけではない。けれど誰も俺のことを気にかけていないと感じる。二人組を作れと言われて一人残ってしまうことはないけれど、かといって組んだその人は妥協で俺を選んでいるとわかる。そんな、誰に言っても大したことないと笑われてしまうくらいの疎外感。でも俺にとっては、帰りたくないと思うには十分過ぎる痛みだった。
「ここは、君にとってはそれほどいい場所ではないと思う」
カラスが言う。淡々とした口調。けれどどこか舌足らずにも感じて、その甘さが耳から離れなくなる。
「じゃあ、カラスにとっては?」
「カラス……って、僕のこと?」
そうだ、それは俺だけの呼び名だったのに、思わず呼びかけてしまった。カラスは戸惑っているようだったが、沈みかけたまま止まっている太陽を見たままで笑ったような気がした。
「勝手に名前をつけるのは感心しないけど……でも、その方がいい。私の本当の名前を知ったら……君は本当に戻れなくなるだろうから」
どういうこと、と尋ねようとしたその瞬間、カラスの輪郭が歪んだように感じた。ゆらりと、陽炎のように境界線が滲んで、そこから得体の知れない何かの気配がした。カラスは歪んだ場所をそっと手で押さえる。全身を黒で包んでいるのに、その手は雪のように白かった。
「少し喋りすぎたみたい。……帰りなよ、君だけでも」
カラスの声に、雑音が混じる。その瞬間にどこからか大音量で調子の外れた音楽が鳴り響いた。カラスが鳴いたら帰りましょう、と歌う童謡。けれどこの世界にそれを流すためのスピーカーなど今まで存在していなかったのに。
「帰りたくないんだ。ずっと、ここにいたい」
「君にとって迢ュ髢はそれほどいい場所ではないんだよ」
カラスの言葉の一部に、調子外れの音が交じって聞き取れなくなる。同時にその輪郭が再び炎のように揺らめいた。
「霑キ鬲になる前に、僕と蜷後§になる前に、帰繧峨↑縺→」
その言葉はいよいよほとんど聞き取れなくなっていく。そしてカラスの白い手の下で、何かが揺らめいていた。それが良くないものであることは、何よりもこの目が知っている。
「螟懊′譚・繧句燕縺ォ、」
その言葉は聞き取れないのに、カラスが何を言ったかは理解できた。この世界にも夜はやってくるのだ。この世界の時間は止まっているようで進んでいる。気が付けば赤く染まっていたはずの空に藍色が多く混ざり始めていた。
そして俺の目は、カラスの向こう側に現れた透明な何かの姿を見た。空気を歪ませてそこにたたずむもの。それに近付いてはならない。見つかってはならない。本能が警鐘を鳴らす。俺の足が勝手に後退りを始めた。いや、逃げるのは正しい選択だ。けれど、逃げるべきは俺一人ではない。
「カラスも一緒に……!」
「駄目だよ。私は霑キ鬲だから」
カラスの輪郭が曖昧になり、黒が広がっていく。それが俺の視界を埋め尽くす直前、真っ白な手が俺の体を思いっきり突き飛ばした。
「ごめんね。蜉ゥ縺代※縺ゅ£繧峨l縺ェ縺上※――」
***
「……朝か」
久しぶりに夢を見た。小学生のときに時折迷い込んでいた、ここではない世界の夢だ。あの世界のことはいまだに良くわかっていない。ただそれがある都市伝説に良く似ているという話を一年前に聞かされた。打ち捨てられた場所から繋がる異界。そこでは時間が止まっているように見えて、実は動いている。夜になるまでそこにいた人間は戻れなくなる。確かに何から何まで一致していた。
久しぶりに夢を見たせいか体が重い。気持ちを切り替えるために寝転がったままスマホを触っていると電話がかかってきた。表示された名前を見て慌てて通話ボタンを押す。
「どうしました、緑川さん?」
『例の都市伝説がらみの話が編集長から下りてきたんだけど……』
電話の相手、緑川律樹はオカルト雑誌のライターで、俺は一年前から彼女の助手をしている。あの世界に良く似た都市伝説のことを教えてくれたのも緑川さんだ。仕事柄、都市伝説の類には造詣が深い。
「今すぐ準備して行きます。一人で勝手に行かないでくださいね、緑川さん」
『行かないって。私向きの話じゃなさそうだし』
「緑川さん向きの話でも一人で行くのはやめてほしいんですけど」
ライターの性なのか、身軽すぎてあらゆるところに首を突っ込んでしまうせいで何度危ない目に遭ったかわからない。緑川さんとは一年の付き合いなのに、すでに両手では足りないほどに色々なものに巻き込まれてしまっている姿を見ている。心配性だと緑川さんは言うが、心配されても仕方ないようなことをしているのは緑川さんの方だ。
『とりあえず、支度できたらこっちに来て。景の目も必要になるかもしれないし』
オカルト雑誌の取材には便利な目だ。出版社に雇われているわけではないが、自分の目に使い道を見出してくれた緑川さんには感謝もしていた。
俺は電話を切って、支度を始める。今回の都市伝説が俺が何度も訪れたあの世界に繋がるかはわからない。けれどいつか再び繋がる日を俺は待っている。
カラスはあの世界にまだ囚われているのだろうか。あの世界とこちらとでは時間の流れが違う。けれどどちらも完全に止まってはいない。カラスがどれだけの時間あの世界にいて、どれだけの時間こちらの世界を不在にしているのかはわからない。そもそも俺は、カラスの本当の名前すら知らないままなのだ。
あれから一度も行けていないあの世界に、もう一度行く方法を見つけたい。久しぶりに夢を見た日に緑川さんからもたらされた情報にどこか運命的なものを感じながら、俺は最低限の荷物を持って家を出た。
***
これは私が中学生の頃に体験した話です。私は昔、廃墟に入り込んで遊んでいたのですが、いつの間にかそこで眠ってしまっていました。
ふと目を覚ますと、私は見知らぬ場所にいました。そこは公園のような場所で、いくつかの遊具があって、そして空は夕日で真っ赤に染まっていました。
その日はどうやって家に帰ったかわかりません。でも私が変な場所に行ったということに誰も気づいていないようでした。
それからというもの、私は何度もその世界に迷い込むようになりました。こちらの世界が何時であっても、その世界はずっと夕暮れ時のままでした。まるで時間が止まっているようだと感じていました。けれどある日、少しずつ時間が進んでいることに気が付いたんです。
それに気がついたとき、私の目の前に真っ黒な人が現れました。その人は私にここから帰るようにと言いました。けれど私は帰りたくありませんでした。穏やかな時間が流れるその世界を、私は好きになってしまっていたからです。
私は何度もその場所に行きました。その度に夜は近付いてきました。そしてある日、いつも私を追い返そうとする真っ黒な人の向こうに、透明な何かの姿を見たのです。
私は恐ろしくなって必死で逃げました。その透明なものに捕まってしまってはいけないと思ったのです。
とにかく走って、気が付いたら私は元の世界に戻ってきていました。それから同じことをしてもあの世界にはいけなくなってしまいました。けれど今でもたまに思い出してしまうのです。あの世界はなんだったのか。あの黒い人は何だったのか。そしてあの透明なものは何だったのかと。
「また来ちゃったんだね」
柔らかな声は女性にしては少し低く、男性にしては少し高い。カラスみたいなその人が笑っているのか怒っているのかはわからない。逆光でその顔はよく見えなかった。
「こんなところに来ちゃダメだって、何回も言ってるのに」
「来たくて来たわけじゃない」
「いや、君はここに来ることを望んだんだよ。望まない人の前に、この道は開かれない」
カラスみたいだから、俺はその人を密かにカラスと呼んでいた。目深にかぶった黒い帽子の下に、その瞳が少しだけ見えた。身に纏う黒よりは薄い茶色の瞳。それが真っ直ぐに俺の姿を映している。
「俺は、望んでなんていない」
「だとしたら無意識なのかな。危ないな」
風のざわめきが大きくなる。カラスが言葉を発するたびにこの世界の色が濃くなっていくように感じた。音はよりはっきりと、色はより鮮やかに。赤く色づいた空は、空気までも染めているような気がした。そして風が草木を揺らすたびにどこからか漂う潮の匂い。ここには海などないのに、どうしてそんな匂いがするのだろうか。
「本当はこんな風に話すのも良くないらしいんだけど」
「良くないって?」
「帰れなくなるよって話」
カラスはそれだけ答えると、俺に背を向けてしまった。いつもそうだ。カラスは俺と話をしたと思えば、すぐにこうやって背を向ける。どうしてなのだろう。そんなに俺を元の世界に戻したいのだろうか。
別に戻れなくたって構わない。俺はそう思っているのに。
そもそも俺はここがどこなのかもわかっていない。普通の場所でないのはわかっている。ここは朝に来ても、夜に来ても、ずっと日が傾いたままで止まっている。夕暮れ時が永遠に続いているのだ。けれど風は流れていて、時折鳥が鳴く声も聞こえる。時間の流れは確かに感じるのに、空だけはいつも同じ。
そしてこの場所に全身に黒を纏ったカラスがいるというのも同じなのだ。
***
友達は一人もいなかった。俺の目には見えてはならないものが見えたから。俺は普通ではなくて、普通ではないものは遠巻きにされる。いじめがあったわけではない。無視されていたともいえない。けれど俺に用事がなければ誰も俺のことなど気にかけなかった。いてもいなくても変わらない。俺はそんな存在に成り果てていた。
放課後は苦痛だった。遊びに行く人、部活に熱中する人。それぞれの時間がある。俺はそのどれにもなれなくて、かといって家に帰れば親を心配させるとわかっていたから、同級生と遊んでいると嘘をついて、誰も来ない場所に隠れていた。
それはもう誰も管理する人がいなくなった神社だった。鳥居は土台だけが残り、祠は半分崩れている。不気味な上にスズメバチが巣を作って、遊びに来た誰かが刺されたという噂が広がって、誰も近付かなくなった。それは俺にとっては好都合だった。
スズメバチは市が依頼した業者が駆除してくれたらしい。俺はその神社に毎日足を運んでいた。ここなら誰も来ない。しかも何もいないことはわかっていた。
俺の目は、見てはいけないものを見てしまう。それは俗に言えば幽霊だとかそういう類のものだった。打ち捨てられた神社など、いかにも何かがいそうなものなのに、そこには何もいなかった。それどころか神様がいたような気配もなかった。普通の神社なら、鳥居をくぐった瞬間に何か違う空気を感じるのに、そこにはそれすらなかった。
かつて神様がいたとしても、もうここには何もいない。だからこそ俺の安全地帯だったのだ。
けれどそこはどう足掻いても俺の土地などではなかったのだ。
きっかけがなんだったのかは思い出せない。けれど俺は神社跡で眠ってしまって、気がついたら別の場所に来ていたのだ。夕焼けがずっと続く奇妙な場所。そしてカラスがいる世界。
カラスはいつも俺を追い返そうとする。決して強く言うことはないが、俺に背を向けた後は一言も喋ろうとしない。俺はいつもカラスと話そうとして、けれどその頑なさに諦めてカラスから離れていく。そうするとあの神社跡に戻れる。そして戻ってから時計を見ると、わずか数分しか経過していないことに気がつくのだ。
この世界と俺の世界とでは時間の進み方が違うのだろう。竜宮城と陸の上での時間が違うようなものだ。けれどこの夕焼けの世界で過ごした時間はどうやっても忘れられない。現実の世界に居場所がない俺は、時折迷い込んでしまうその世界のことを日頃から考えるようになっていたのだ。
「……帰れなくなってもいい」
俺はカラスの背中に向かって言う。帰ったところで俺の居場所はないのだ。決して虐げられているわけではない。けれど誰も俺のことを気にかけていないと感じる。二人組を作れと言われて一人残ってしまうことはないけれど、かといって組んだその人は妥協で俺を選んでいるとわかる。そんな、誰に言っても大したことないと笑われてしまうくらいの疎外感。でも俺にとっては、帰りたくないと思うには十分過ぎる痛みだった。
「ここは、君にとってはそれほどいい場所ではないと思う」
カラスが言う。淡々とした口調。けれどどこか舌足らずにも感じて、その甘さが耳から離れなくなる。
「じゃあ、カラスにとっては?」
「カラス……って、僕のこと?」
そうだ、それは俺だけの呼び名だったのに、思わず呼びかけてしまった。カラスは戸惑っているようだったが、沈みかけたまま止まっている太陽を見たままで笑ったような気がした。
「勝手に名前をつけるのは感心しないけど……でも、その方がいい。私の本当の名前を知ったら……君は本当に戻れなくなるだろうから」
どういうこと、と尋ねようとしたその瞬間、カラスの輪郭が歪んだように感じた。ゆらりと、陽炎のように境界線が滲んで、そこから得体の知れない何かの気配がした。カラスは歪んだ場所をそっと手で押さえる。全身を黒で包んでいるのに、その手は雪のように白かった。
「少し喋りすぎたみたい。……帰りなよ、君だけでも」
カラスの声に、雑音が混じる。その瞬間にどこからか大音量で調子の外れた音楽が鳴り響いた。カラスが鳴いたら帰りましょう、と歌う童謡。けれどこの世界にそれを流すためのスピーカーなど今まで存在していなかったのに。
「帰りたくないんだ。ずっと、ここにいたい」
「君にとって迢ュ髢はそれほどいい場所ではないんだよ」
カラスの言葉の一部に、調子外れの音が交じって聞き取れなくなる。同時にその輪郭が再び炎のように揺らめいた。
「霑キ鬲になる前に、僕と蜷後§になる前に、帰繧峨↑縺→」
その言葉はいよいよほとんど聞き取れなくなっていく。そしてカラスの白い手の下で、何かが揺らめいていた。それが良くないものであることは、何よりもこの目が知っている。
「螟懊′譚・繧句燕縺ォ、」
その言葉は聞き取れないのに、カラスが何を言ったかは理解できた。この世界にも夜はやってくるのだ。この世界の時間は止まっているようで進んでいる。気が付けば赤く染まっていたはずの空に藍色が多く混ざり始めていた。
そして俺の目は、カラスの向こう側に現れた透明な何かの姿を見た。空気を歪ませてそこにたたずむもの。それに近付いてはならない。見つかってはならない。本能が警鐘を鳴らす。俺の足が勝手に後退りを始めた。いや、逃げるのは正しい選択だ。けれど、逃げるべきは俺一人ではない。
「カラスも一緒に……!」
「駄目だよ。私は霑キ鬲だから」
カラスの輪郭が曖昧になり、黒が広がっていく。それが俺の視界を埋め尽くす直前、真っ白な手が俺の体を思いっきり突き飛ばした。
「ごめんね。蜉ゥ縺代※縺ゅ£繧峨l縺ェ縺上※――」
***
「……朝か」
久しぶりに夢を見た。小学生のときに時折迷い込んでいた、ここではない世界の夢だ。あの世界のことはいまだに良くわかっていない。ただそれがある都市伝説に良く似ているという話を一年前に聞かされた。打ち捨てられた場所から繋がる異界。そこでは時間が止まっているように見えて、実は動いている。夜になるまでそこにいた人間は戻れなくなる。確かに何から何まで一致していた。
久しぶりに夢を見たせいか体が重い。気持ちを切り替えるために寝転がったままスマホを触っていると電話がかかってきた。表示された名前を見て慌てて通話ボタンを押す。
「どうしました、緑川さん?」
『例の都市伝説がらみの話が編集長から下りてきたんだけど……』
電話の相手、緑川律樹はオカルト雑誌のライターで、俺は一年前から彼女の助手をしている。あの世界に良く似た都市伝説のことを教えてくれたのも緑川さんだ。仕事柄、都市伝説の類には造詣が深い。
「今すぐ準備して行きます。一人で勝手に行かないでくださいね、緑川さん」
『行かないって。私向きの話じゃなさそうだし』
「緑川さん向きの話でも一人で行くのはやめてほしいんですけど」
ライターの性なのか、身軽すぎてあらゆるところに首を突っ込んでしまうせいで何度危ない目に遭ったかわからない。緑川さんとは一年の付き合いなのに、すでに両手では足りないほどに色々なものに巻き込まれてしまっている姿を見ている。心配性だと緑川さんは言うが、心配されても仕方ないようなことをしているのは緑川さんの方だ。
『とりあえず、支度できたらこっちに来て。景の目も必要になるかもしれないし』
オカルト雑誌の取材には便利な目だ。出版社に雇われているわけではないが、自分の目に使い道を見出してくれた緑川さんには感謝もしていた。
俺は電話を切って、支度を始める。今回の都市伝説が俺が何度も訪れたあの世界に繋がるかはわからない。けれどいつか再び繋がる日を俺は待っている。
カラスはあの世界にまだ囚われているのだろうか。あの世界とこちらとでは時間の流れが違う。けれどどちらも完全に止まってはいない。カラスがどれだけの時間あの世界にいて、どれだけの時間こちらの世界を不在にしているのかはわからない。そもそも俺は、カラスの本当の名前すら知らないままなのだ。
あれから一度も行けていないあの世界に、もう一度行く方法を見つけたい。久しぶりに夢を見た日に緑川さんからもたらされた情報にどこか運命的なものを感じながら、俺は最低限の荷物を持って家を出た。
***
これは私が中学生の頃に体験した話です。私は昔、廃墟に入り込んで遊んでいたのですが、いつの間にかそこで眠ってしまっていました。
ふと目を覚ますと、私は見知らぬ場所にいました。そこは公園のような場所で、いくつかの遊具があって、そして空は夕日で真っ赤に染まっていました。
その日はどうやって家に帰ったかわかりません。でも私が変な場所に行ったということに誰も気づいていないようでした。
それからというもの、私は何度もその世界に迷い込むようになりました。こちらの世界が何時であっても、その世界はずっと夕暮れ時のままでした。まるで時間が止まっているようだと感じていました。けれどある日、少しずつ時間が進んでいることに気が付いたんです。
それに気がついたとき、私の目の前に真っ黒な人が現れました。その人は私にここから帰るようにと言いました。けれど私は帰りたくありませんでした。穏やかな時間が流れるその世界を、私は好きになってしまっていたからです。
私は何度もその場所に行きました。その度に夜は近付いてきました。そしてある日、いつも私を追い返そうとする真っ黒な人の向こうに、透明な何かの姿を見たのです。
私は恐ろしくなって必死で逃げました。その透明なものに捕まってしまってはいけないと思ったのです。
とにかく走って、気が付いたら私は元の世界に戻ってきていました。それから同じことをしてもあの世界にはいけなくなってしまいました。けれど今でもたまに思い出してしまうのです。あの世界はなんだったのか。あの黒い人は何だったのか。そしてあの透明なものは何だったのかと。
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