グリーン・リバー・アイズ

深山瀬怜

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呪いの本、あるいは若気の至り

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「書架の本はバーコードリーダーでスキャンしてからその箱に入れてくださいね」

 司書のなぎささんに言われて私は頷いた。風張かざはり女子高校は現在、旧校舎の隣に新校舎を建設している。新校舎の図書館棟が完成し、使えるようになったので、旧校舎の図書館にある本を移動しなければならない。私たち図書委員会の学生もその手伝いに駆り出されていた。私は肩までの髪を結び直して、気合いを入れる。

「でも、自分たちで移動しなきゃいけないなんて大変ですね」
「業者にやって欲しかったんだけど、予算が出なくて……」

 この図書館には約二万冊の本があるというのに、その全てを司書の渚さんと図書委員会の学生で移動しなければならないのだ。大人たちがどう話し合って決めたかはわからないが、こんなところにも業者を入れられないというのは何とも世知辛い話だ。

「あ、結城ゆうきさん。結城さんはこっちの書庫をお願いしてもいい?」

 渚さんが背中まで伸ばした栗色の髪を揺らしながら首を傾げる。ここが共学校なら、渚さんはきっと男子生徒に人気があっただろう。女の私から見ても、実は四十代というのが信じられないほど可愛らしい人だ。その上で司書らしく聡明なので、私は密かに彼女に憧れていた。
 渚さんが指した書庫は、基本的に除籍になった古い本と、まだバーコードを貼り付けていない新しい本がしまわれているところだ。新しい本にバーコードを貼る作業をするため、書庫の中には古びた大きい机と脚がぐらついている椅子も置いてある。

「結城さんが一番ここに詳しいと思って。でもここのものはバーコードがないものだから、除籍図書とそうでないものが混ざらないように箱に入れてくれればいいから」
「わかりました」

 一番詳しい、という渚さんの言葉におそらく間違いはない。そして他意もないだろう。一年生のとき、人見知りがたたって一人も友達がいなかった私は、昼休みのほとんどの時間をこの書庫で過ごしていた。埃っぽくて薄暗い書庫には誰も寄りつかなかったからだ。ここにいれば一人であることを見られることもないし、除籍になったとはいえ、まだ読むことが出来る状態の古い本をいくらでも読むことが出来た。

「じゃあまず、新しい方から詰めようかな……」

 そちらの方が数が少ないからすぐ終わるだろう。そちらは新着図書リストと付き合わせながら、間違いがないように箱に詰めていく。本を詰めた箱を一旦机の上に置いて、私は奥の古い書棚の前に立つ。除籍図書の方は数が多いから苦労しそうだ。

「渚さんは箱に詰めればいいって言ってたけど……」

 せっかくだから、書名と作者名くらいはリストにしておいてもいいかもしれない。除籍図書は文化祭のときに一冊五十円で販売することになっている。意外に掘り出し物があったりもするので、そのときのためにもチェックしておきたい。私は鞄の中から授業に使うタブレットを取り出した。


 黙々と箱に詰めながら書名と作者名をリストアップしていくうちに、二時間ほどが経過していた。書庫の扉が開いて渚さんが顔を覗かせる。

「あら、すごい……想像以上に進んでるわね。この分なら今日中に詰められるかも……でも、休憩もちゃんとしないとね」
「実はたまに休憩してますよ。詰めてるときに読んじゃうんですよね」
「ふふ。わりとみんなそんな感じね」

 本好きのさがなのか、本がそこにあるとどうしても開いて中を見てしまう。ここにいる人のほとんどは、自ら図書委員会に志願して、しかも書籍引っ越しボランティアにも真面目に来るようなタイプなのだ。本を読んでしまって作業が遅れるというのは織り込み済みだろう。

「カウンターのところに飲み物とかあるから、疲れたらいつでも来ていいからね」
「ありがとうございます」

 渚さんはそう言って、書庫を出て行った。ボランティアは明日もあるが、閲覧室側の本を詰める作業にももっと人が必要だろう。書庫は今日中に終わらせなければ。私は拳を強く握って気合いを入れ直した。


 しばらく淡々と作業をしていた私は、古い本と本の間に挟まっている小さな本を見つけた。それはまるで本の中に隠すように置かれていて、表紙のどこにも書名が書かれていなかった。表紙の美しい枠はそこに書名があることを示しているように見えるのに、その場所はがらんどうになっている。消えてしまったにしても、普通は何かしらがそこに書いてあった痕跡が残っているだろう。けれどそんなものは全くなかった。

「何だろ、これ……」

 私はそっと本を開いてみた。古い本は独特の匂いがする。渚さんは除籍図書もしっかりと管理していたが、それでも年月による風化は免れなかったのか、触れると指先に何か粉のようなものが付着した。
 最初のページにも書名らしきものはなかった。表紙にもあった美しい枠がそこにあるだけだ。線の太さがわずかに変化している四角い枠に絡みつくような植物が描かれている。その蔓をじっと見つめていると、それがずずず、と蠢いているような気がして、私は慌てて瞬きをした。
 更にページを繰ると、今度は紙面を埋め尽くすほどの夥しい量の文字が見えた。今の組版は文字が大きくなり、行間が広くなるなど、可読性を高める方向に進んでいるが、古い本はそのような気遣いは一切見せない。それが格調高さを感じさせて、古い本を敬遠する人は多い。しかし私にとってはどんなものも本は本だった。

「るばしをて、るばしをは、るばしをねほ、るばしをたし、るばしをちく……何だこれ?」

 しかし、書いてある内容はほとんど意味を成していないようだった。時折意味のある文章が登場するが、それはあまりに唐突で、その文同士を並べてみても繋がりは見えない。蛇や縄がやたらと出てくることしかわからなかった。
 誰かが悪戯で置いた本だろうか。それにしてはあまりに手が込んでいる。見た目は普通の本と変わりないのだ。製本はもちろんしっかりしている。天アンカットで栞紐スピンまでついている。こんなものを悪戯で作るのはあまりにも費用対効果が見合わないだろう。
 一旦本を閉じ、奥付のページにあるはずの蔵書印を探す。除籍図書はそこに線が引かれているが、一度押した蔵書印は消えずに残っているはずだ。これがこの図書館の本であったなら、だが。

「蔵書印はあるし、間違いなくうちのものだけど……逆に消されてないっていうのは問題かも」

 蔵書印は確かにそこにあったが、除籍図書ならそれを取り消すための線が引かれているはずだ。それがないということは、本来はここにあるべき本ではない。私はこの本については渚さんに聞くことにして、机の上にそれを置いた。
 読んでも意味がわからないその本だが、渚さんに聞けば何かがわかるだろう。私はそう結論付けて、本を箱に詰める作業を続けることにした。


 全ての本を箱に詰め終わった私は、棚の掃除をすることにした。この棚はもう処分してしまうらしいが、処分するにしたって多少は綺麗な方がいいだろう。拭き掃除をしていると書庫の扉がノックされ、渚さんが入ってきた。渚さんはすっかり空になった書庫の棚と机の横に積み上げられた箱を見て驚いていた。

「すごい、本当に今日で終わっちゃうなんて」

 落ちてきそうだな、と私は渚さんの目を見て思う。実際には驚いたところで目が飛び出して落ちるなんてことはないが、それほど渚さんの目は大きく、可愛らしいのだった。

「今日の作業はそろそろ終わりにしてね。明日、また続きをやるから」
「はい。あ、渚さん」

 私は先程の本のことを尋ねようと、渚さんを呼び止めた。しかし机の上に置いたはずの本が跡形もなく消えていた。確かにそこにあったはずなのに。慌てて机の下を覗き込んで探す私を見て、渚さんが首を傾げる。

「どうかしたの?」
「除籍の方に、蔵書印が消されていない変な本があって、念のためによけておいたんですけど……どっか行っちゃって」
「変ねぇ……除籍図書の方も毎年確認しているはずなんだけど。どんな本だったの?」
「タイトルがなくて……中身も意味がわからない言葉の羅列の中に、時々蛇とか縄とか出てくる……みたいな」
「そんな本あったかしら……」

 渚さんが腕組みをして虚空を見上げる。おそらく自分の記憶を探っているのだろう。渚さんは本のことならなんでも知っているのではないかと思えるほど、本に関する様々なことを記憶していた。しかしその渚さんの頭の中にも、あの本の手がかりはないらしかった。

「それにしても不気味ね、その本。高校生のときに流行った怪談みたい」
「怪談?」
「そう。私この学校の卒業生なんだけどね、その頃に噂があったのよ」

 図書館の本の中に、題名のない本が混じっている。それは呪いの本であり、それを読んでしまった人は呪われて死んでしまう――そんな、よくある学校の怪談の類だった。高校生も怪談で盛り上がることはある。しかも渚さんが学生の頃の風張女子高校なんて、学校の中にはそのくらいしか娯楽がなかっただろう。

「呪いの本……」
「実際その年に本好きだった女の子が学校からいなくなってしまったりもして、それで噂が大きくなっちゃったのよ。偶然だと思うけどね」

 普通に考えれば、呪いなんて非現実的なものは存在しない。けれど頭の中にあの表紙の美しい模様が蠢いていた。もしあれが呪いの本だったら、私はそれを読んでしまった。全部読んだわけではないけれど、もし一文字でも視界に入れた時点で呪いが発動するのだとしたら。
 そんなことはあり得ないと思いながらも、芽生えた恐怖を払拭することは出来なかった。それから渚さんとはどんな話をしたか覚えていない。私はどこかに行ってしまったあの本の所在と、あれが本当に呪いの本だったらという妄想に取り憑かれながら家に帰り、食事や入浴もそこそこに、布団に入って眠ってしまった。

***

 異変が起きたのは深夜のことだった。私はまず、自分の体が動かせなくなっていることに気が付いた。指の一本すら自由に動かせない。どうにか体を動かそうと藻掻いていると、どこからか低い声が聞こえる。いや、眠っている最中にこうやって体が動かなくなるのにはきちんとした原因があると聞いたことがある。レム睡眠中に脳だけが目覚めてしまうと、頭は起きているのに体中の力は抜けていて、体が動かせない状態になるのだという。だからこれは決して霊的な現象ではない。そう言い聞かせるのに、聞こえてくる低い声はどんどん私に近付いてくる。

『る……をて……るば……をは……、るばしをねほ……』

 聞こえてくるそれが、あの本に書かれていた言葉だということに気付いた私は目を見開いた。そこに何かの気配がある。そんなものは幻覚だ。実際には何もないのだと言い聞かせても、その気配はこちらに向かってきてしまう。
 それはまるで蛇のように私の体を這い、私の体を締め上げた。その間も低い声は続いている。ずるずる、ずるずると何かが蠢き、骨が折れそうな程の力を私に加える。私は声を上げようとした。その瞬間にそれが笑って言う。

『はを……ばる、ほねをしばる、舌を縛る、口を縛る』

 見えない何かが私の体に絡みついていく。脚の骨、指の骨、腕の骨、背骨、肋骨――そして口の中で縮こまる舌。

『蛇の皮で縛る』

 そのとき、何かが私の首に巻き付いた。ぎちぎちと締め上げられて、呼吸が出来なくなる。引き剥がさなければならないのに、体が自由にならない。このままだと殺されてしまう。酸欠になりながらも必死で体のあらゆるところに指令を送る。どこでもいい。手でも足でもいいから動いてくれれば。


 祈りが届いたのか急に体が解放された。私は喉を押さえながら部屋の電気を点けようとる。けれど手が震えて、上手くスイッチの紐が掴めなかった。もどかしくなりながらも手首にそれを巻き付け、どうにか明かりを点ける。
 明るくなった部屋を見回してみても、何かの気配は感じられなかった。悪い夢でも見たのだろう。渚さんにあんな話を聞いてしまったから。そう思って自分を落ち着かせようとした私は、自分の体に起きている異変に気付いてしまった。

「何、これ……」

 私の体には、何かに縛られたような赤い痕が至るところについていた。確かにそれはいたのだ。そして私を殺そうとしていた。あの本は本当に呪いの本だったのだ。
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