【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第8話 ノートブック・3

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「……これでいいかな」
 次の日は、ほぼ一日を掃除に費やした。毎年担当は決まっている。私はだいたい細かいところに溜まった汚れを落とす係だ。兄は家中の窓ガラスを磨き、母はキッチン周りを主に担当する。日頃きちんとやっていれば、大掃除の負担はそこまで大きくない、というのはよく聞く話だが、母もそれはわかっているらしく、掃除はかなりまめにやっている。だから私の仕事は午前中でだいたい終わり、午後からは自分の部屋の掃除に取り掛かった。
「私の部屋の窓、私がやるからいいよ」
「二枚減ったな……」
「毎年思うけど、窓ガラス大変だよね」
「身長を考えると俺が一番適任なのはわかってるから。男手は俺だけだし」
 台を使えば私でも届くのではないか、とは言わなかった。そういって仕事を増やされるのも嫌だ。
「私の部屋、模様替えしようと思ってるんだよね」
「家具の移動手伝ってとか言うなよ?」
「いや、そこまではやらないけど……カーテンとか新しくしようかなって」
「水色にするのか? 前に水色が好きって言ってたけど」
 そんなことをよく覚えているな、と正直に思った。私は兄の好きな色を知らないし、教えてもらったかどうかも定かではない。
「でも他の家具とのバランスを見ると、もう少し濃い色でもいいかな。明日あたりちょっと見てこようと思って」
「じゃあ俺も一緒に行こうかな。向こうの部屋に必要な家具とかもあるし」
 一緒に行きたいと思っていたわけではないけれど、いて邪魔になるわけではないからと私は頷く。けれど同時に、兄の態度に矛盾を感じていた。
「……殺されたいって言ってた割に、家具は揃えたいんだ」
 窓を拭いていた兄の手が止まる。これが推理小説なら、家具を買いに行った人間が殺されたいと考えるのは奇妙だと指摘されているところだろう。でも人間の心はそこまで理路整然としているわけではない。
「死ぬ日までは生きていないといけないからな。……ここで詩乃が殺してくれるなら別だけど」
「私じゃなきゃいけないってわけでもないでしょ。明日家具屋に強盗が押し入るかもしれないし」
 殺すのは誰でもいいのか。それとも、人は選んでいるのか。それを実行するかどうかは置いたままで、確かめたかった。
 誰でもよかったと言って人を殺す人も、実際のところはその対象を選んでいる。殺しやすそうな人間、恨みを持っている対象に近い属性の人間、話題になりそうな人間、その人の基準で殺してもいいと思える人間。でも、誰でもいいというその言葉自体は嘘だとは思えない。殺しやすそうな人なら、ある特徴を持っている人なら、子供なら、女なら、人に迷惑をかけている悪人なら――誰でもいい。自分自身のことを語るのが下手な人の場合、誰でもいいの前につく条件は省略されてしまったりする。そして口に出されたそのセンセーショナルな言葉だけが独り歩きしてしまうのだ。
「通り魔ならいいけど、強盗はちょっと不満が残るかもな。金銭目的っていうのはあんまり好きな理由じゃない」
「私だったらいいわけ?」
「詩乃が一番、俺のことを綺麗に殺してくれる気がする」
 何を根拠にそう思っているのだろう。聞いたら答えてくれるのだろうか。目的が発覚してしまったあとの兄は、開き直ってあけすけになっているようにも見えるから、もしかしたらあっさり答えが返ってくる可能性もある。
 試しに、聞くだけ聞いてみよう――そう思って口を開いたその瞬間に、台所にいた母が大きな声で私達に尋ねた。
「今からちょっと足りない洗剤とか買ってくるけど、何か欲しいものある?」
「特にないよ」
 兄が再び手を動かしながら、大きな声で答える。私はそのまま立ち上がって、自分の部屋に戻ることにした。これ以上大掃除の邪魔をするのも良くない。兄にさっきの質問を投げかけるのは、別に後でもできることだと思ったのだ。



 大掃除の疲れで、その日は比較的早く眠りについた。しかし沈んでいた意識が僅かな違和感に呼び起こされる。
「詩乃」
「……今何時だと思ってんの?」
 音を立てずに部屋に入ってきたのは兄だった。状況だけ見れば完全に夜這いだ。今まで、こんな夜遅くに私の部屋に来ることなんてなかったのに。私は枕元のスマホを軽くタップして時間を見た。二時十五分。こんな時間に起こされて文句を言わない人がいるなら見てみたい。
「眠れなくて」
「明日出かけるんだから、寝れなくても横になってればいいじゃん」
「落ち着かないんだよな。この前まであの部屋は自分の部屋だったはずなのに、もう自分の部屋じゃないみたいで」
 それは私物のほとんどを運び出してしまっていて、寝るだけの部屋になってしまっているからだろう。それがホテルの部屋なら、まだそういうものだとして受け入れられるが、そこが元々自分の部屋だと思うと違うのかもしれない。気持ちはわからなくもないが、こんな深夜に部屋に来られるのは迷惑だ。
「ここに来たって眠れるわけじゃないでしょ」
「そうでもないけど」
「……一発抜きたいだけなら一人でやってくれると嬉しいんだけど。安眠妨害しないでくれる?」
「ストレートに言うなぁ」
 兄が小さな声で笑う。気を遣う関係でもないから、私にとってはこれが普通だ。けれど兄はどこか普通ではないように見えた。昨日――いや、もう日付が変わっているから一昨日か――もそうだ。
「……何かあったの?」
「ううん、特には。でも……久しぶりに会えて、歯止めが効かなくなってる、かも」
「お兄ちゃん……」
 兄は私の手を取って、唇で指に軽く触れる。そのまま私の親指を口の中に入れて、ゆっくりと歯を立てた。
「っ……!」
「……アニメとかで見るみたいには、血って出ないもんだな」
「当たり前でしょ……何言ってんの? ていうか普通に痛いんだけど」
「何となくやってみたくなって。痛くしてごめん」
「何となくでやることじゃないと思うんだけど」
 傷にはなっていない。実際、噛んで血を出すためにはかなりの力が必要になるのだろう。傷のないはずの指をいたわるように舌が這い、体の芯が痺れるような感覚に襲われる。
「お兄ちゃん……」
「俺の部屋の布団、詩乃が敷いたんだなと思って」
「いきなりどうしたの?」
「……そう考えたら、眠れなくなった。昨日のことを思い出して」
 どうして私は、あんなことをしたのだろう。いや、理由は自分でもわかっている。私は兄を殺したいと思っていた。その欲望が抑えきれなくなって外に出てしまっただけなのだ。けれどもしかしてそのことが、兄の箍を外してしまったのかもしれない。
「今殺すのが無理なら、首を絞めるだけでもいい」
 それは懇願と呼べるものだった。人を殺す人だってそうだ。じっと殺意の波に耐えている間はまだいい。けれど、動物を殺してしまったり、人間を殺さないにしろ傷つけることに成功してしまったら、そこから津波のような巨大な力に押し流されてしまう。そこで止まることのできる人はそれほど多くはないのだ。その人を引き戻すような、逆方向の大きな力が働かない限り。
 きっと殺してしまった方が、彼は楽になるのだろう。中途半端な状態が一番つらいのだ。けれど、彼の苦しみが想像できることと、私が彼を殺すかどうかは別の問題だ。
「……気が向いたらね」
 それでいい、と兄は指輪を外しながら優しい目をして笑った。

 どうして体は反応してしまうのだろう。触れるのに必要な最低限だけ服を脱がされて、いつもよりも性急な手付きで体をいいようにされているのに、漏れる吐息には隠しきれない悦楽が滲んでいる。
「……ん、お兄ちゃん……っ」
 そもそも兄の方だって、ただ殺してほしいだけなら、もうこんなことをする必要はないはずなのに。ただついでに性欲を発散させたいだけなのか、殺されたいという願望が性と結びついてしまっているのか、私にはわからない。
 体の中に入り込んだ指が動いている。この水音が外に響いてしまわないか不安になってしまうけれど、この家の壁はそれほど薄くはない。私達の音はこの中に閉じ込められている。
「っ……!」
 声をこらえると同時に、きつく目を閉じる。体の熱に引っ張られて、頭は徐々にぼやけていった。
「詩乃」
「……っ、何」
「綺麗だな、と思って」
「変なこと……言わないでよ……っ」
 少なくとも妹に言う台詞ではないし、恋人に対してだってなかなか言えないだろう。そんな歯の浮くような言葉をよく口にできるものだ。
「本当だよ。だから……殺されるなら詩乃がいいんだ」
「絵美だって、結構可愛いと思うけど……」
「見た目の話じゃないよ。詩乃は俺が知る中で一番――」
 その続きの言葉は、発されることはなかった。曖昧に笑った兄は私の中から指を抜いていく。ポケットの中に入れていたらしい避妊具をつけて準備をしている姿は、どこか間抜けに見えた。準備を終えた兄が、私の上にのしかかる。
「……その綺麗なものを、汚しているのは俺なんだけど」
 その言葉とともに、深くまで打ち付けられた。腰のあたりに鈍い痛みが走る。
「っ……!」
 暗い部屋の中では、その表情はよくわからない。でもカーテン越しの淡い光が、その輪郭を際立たせる。均整の取れた体。一般的には整っていると言われる顔立ち。でも、本当にどうしようもない私の兄。
 深く貫かれ、私はきつく目を閉じた。首筋に手を伸ばすと、微かに笑う気配がする。でも私はその先には進めない。その首を絞めてしまいたいとは思う。殺してしまいたいという欲望が頭をもたげる。でも、考えてしまう。殺した後はどうなるのだろうかと。
 冷たくなった体を、私はどうするのだろうか。綺麗に飾るのも悪くはないかもしれない。けれど飾ってしまえばそれでおしまいだ。心に穴が空いて、冷たい風が通り抜ける。その光景が鮮明に想像できてしまう。殺したいと思っているこの瞬間こそが、一番心が熱いのだと私はとうとう気付いてしまった。
 だから私は、兄の望みを叶えることはできない。殺意を抱いていても、人を殺せない。
「お兄ちゃん……」
 そのことを伝えるために、兄の首に触れていた手を背中に回し、目を開ける。
 開いた目に、ありえない量の光が飛び込んできて、私は目を見開いた。時間が止まる。兄はまだ事態に気がついていない。心臓が早鐘を打って、息が出来なくなる。
「お兄ちゃん、駄目……」
 気付かせるために言葉を発した瞬間に、光の向こうにいたものと目が合ってしまう。それは私の知っている人のはずだったけれど、逆光で顔は見えなかった。でもその目の暗闇だけはよく見えた。そして、その手に握られた銀の光も。
 体が動かない。喉も凍りついてしまった。それがこちらに近づいてくるのに、兄には何も見えていない。
「――やめて!」
 ようやく絞り出した悲鳴混じりの声に、兄が動きを止めて後ろを振り返る。銀色の光が兄の体に飲み込まれていく光景を、私はただ見ていることしかできなかった。
「どう、して」
 私の声は震えていた。兄の体から力が抜ける。私達を見下ろす暗闇は、母親の姿をしていた。
「あなたのためよ、詩乃」
 意味がわからなかった。どうして兄を刺すことが私のためになるのだろうか。次に何を言えばいいのか、何をすればいいのか、枕元のスマホに手を伸ばそうとするけれど、手が震えてうまく動かない。
「遼はずっといい子だと思っていたのに……こんなことをするなんて。今まで気付いてあげられなくてごめんなさいね、詩乃」
 母は、兄が私を襲っていると思ったのか。実際のところそれは間違った認識ではないけれど、でも――それだけで、本人に何も問い詰めることもなく、自分の子供に刃を向けたというのだろうか。
 震える手がようやくスマホを掴む。けれど、その手を母に優しく掴まれた。
「私が掛けるから、大丈夫よ。詩乃は服を直しておきなさい」
「お母さん……」
「それから、このことは誰にも言わないから。詩乃が遼にこんなことをされてたなんて知られたら、世間の人にどう見られるかわからないでしょう?」
 そういう問題ではない。
 兄と関係を持っていたことを知られたいわけではない。知られたら、一生そういう目で見られ続けてしまうこともわかる。けれど言葉にできない気持ち悪さが私の全身を包み込んだ。
 目の前に入るのが自分の母親だとは到底信じられなかった。それに鬱陶しさを感じることはあったけれど、昨日までは確かに私が知っている母というものだった。今、警察と救急に電話を掛けているその人に感じているのは、覗き込んでも底が見えない深い谷に対する恐怖とよく似ていた。
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