【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第8話 ノートブック・1

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「二十八日に帰ってくるって」
 電話を終えた母が言った。私は携帯電話から視線を外さずに尋ねる。
「お兄ちゃん?」
「そう。年始はおせちとお寿司予約したからいいけど、年末はどうしようかしらね」
 母は兄が帰ってくるのが待ち遠しいようだが、私は正直会いたくなかった。ぼんやりと見ていたインスタグラムの画面の上に、LINEの通知が上がってくる。絵美からだ。
 あれから兄とはほとんど連絡を取っていなかったが、絵美とはときどきメッセージのやりとりをしている。絵美づてに兄の様子を聞くこともあった。と言っても絵美もあまり会えてはいないと言っていたけれど。
 そもそも、会うべきではないと思う。絵美も他に選択肢があるのなら兄の部屋に通うのはやめた方がいい。絵美には何度も忠告しているけれど聞く耳を持ってはくれなかった。その目的もわかっているというのに。
 あの日の兄の言葉に嘘はなかったことはわかっている。むしろ嘘ではなかったから始末が悪い。同時に、人を殺したい人間が存在するなら、殺されたい人間が存在することは何もおかしいことではないとも思う。だからといって兄のために兄を殺したいとも思えなかった。
 もし私が人を殺すなら、兄を殺したいと思っていたはずなのに。
 あのとき、兄のあの顔を見なかったら、私はきっと兄を殺していただろう。かといって、どうして止めてしまったのかは自分でもまだわからない。その表情の意味がわかった今でも、何度もあの顔を思い出してしまう。
 気付かなかった。ずっと、同じ家で暮らしていたはずなのに。体だけは誰よりも近かったはずなのに。私とは違って、後ろ暗いことなど考えていない人だと思っていた。それなのに戯れに私に手を出す意味がわからないと思っていた。でも、全部が一つの目的のためにあったことだったのだ。
 私は絵美のように態度を決めることが出来なかった。絵美は、私が本当のことを教えても、兄から離れることは選ばなかった。その上で、兄を殺すことも選ばなかった。彼女と会ったあの日の段階で、絵美はもう兄のことを好きになってしまっていたのだろう。中学生の世界は家と学校がほとんどを占めてしまう。そのどちらにも居場所がなかった絵美に、目的はなんであれ、安らげる場所を与えたのだ。好きになるなという方が無理だろう。
(……でも、このまま停滞した状況が続くとも思えない)
 絵美の状況が動くのが先か、兄が仕掛けるのが先か。どちらかはわからないけれど、このままの関係が続くと楽観視することは難しい。兄はともかく、絵美の方は――そこまで考えて、私は息を吐く。私は絵美を止めたいのか。それとも、本心では最悪の結末に至ることを望んでいるのか。これまで遠くにあったものが、急に自分の手が届くところに来てしまった今、何よりもわからないのは自分の本心だ。
 ――殺したいと思っていたはずなのに。
 あの日以来、その気持ちは萎んでしまっている。いや、それは正確な言葉ではない。殺したいという気持ちはある。でも、あの日の兄の顔を思い出すと迷いが生じてしまうのだ。
 変な話だ。私たちの望みは噛み合っているはずなのに。
「詩乃、遼が帰ってくるまでに遼の部屋ちょっと掃除しておいてね」
「……私がやるの?」
「だって詩乃の方が時間があるじゃない」
「それはそうだけど……そもそも掃除する必要ある? 自分でやらせればいいじゃん」
 荷物はほとんどないから、掃除自体はそれほど大変ではないだろう。でも兄の部屋に入れば、嫌でも兄のことを考えてしまうから嫌だった。母も母だ。掃除が必要だと思うなら自分でやればいいのに、どうして私にやらせようとするのか。
「二十八日は仕事終わってから来るから、遅くなるんだって。帰ってきたらすぐ寝られるようにしておいた方がいいでしょ?」
「だったら次の日から来ればいいと思うんだけど」
「遼もそう言ってたんだけどね。でもどうせなら二十八日の夕飯からここで食べればいいと思って」
 母は兄がちゃんと食べているのか、どうしても心配なようだ。一度兄に母の料理を届けて以来私はあの部屋には行っていないが、母からは何度も用事はないのかと言われた。ノートも回収してしまった以上、本当に用事はなかった。母が不満そうにしていたのは見なかったことにした。そもそもそんなに心配なら自分で行けばいい。どうして私にやらせようとするのか理解が出来なかった。



 母が仕事に出かけ、家には私しかいなかった。一人でいる間は気兼ねなくノートを見ることが出来る。私は引き出しを開け、適当な一冊を手に取る。微かに糊の匂いがする。私は数年前の自分が貼った新聞記事に目を通し始めた。
 凶行に至る経緯は人それぞれだ。親からの過度の期待で心を磨り減らしていたり、原因ははっきりしないけれど、元から問題行動が多かったり。生まれつきのものと、環境と。どちらが影響しているのかという議論はよく聞くけれど、今のところ言えるのは、どちらも影響していると思われるということだけだ。
 殺意を抱くようになった人間が必ず人を殺すわけではない。実際に人を殺した人間とそうでない人を分けるものは何なのだろう。自分が立っている場所はずっとわからないままだ。一歩でも踏み外せば、私はこの記事の中の彼らと同じになる。けれどその一歩を踏み外す瞬間がいつ来るのか、何がきっかけでそうなるのかさえわからない。
 絵美は私よりももっと危うい場所にいるだろう。彼女は実際に猫を殺している。兄が介入しなければ、既にニュースになるような事件を起こしていてもおかしくはなかったと思う。けれど兄がやったことは決して正しいことではないのだ。他の誰かに向いていたであろう彼女の殺意を自分に向けようとしているだけ。誤算があったとすれば、絵美が兄のことを好きになってしまったことだろうか。
 正しくないと言うことは出来る。でも、正しいと言われることをしても、それで絵美を止めることが出来たかと言われれば疑問が残ってしまう。そもそも人殺しになるのは悪いことという前提で考えているけれど、それが本当かどうかも私にはわからない。人殺しは一般的には悪だ。けれどここが戦場で、殺す相手が敵の兵士だったら話は変わってくるかもしれない。絶対的なものなど、おそらく何もないのだ。
 でも、少なくとも絵美は人を殺すことを望んではいない。殺されたいと願っている兄のことも、「好きだから死んでほしくない」と言っていた。それなら私は彼女の望みに責任を持つべきなのだろうと思う。
 何が絵美のためになるのか。絵美の望みを叶えるために私ができるのは何なのか。これまで積み重ねてきた情報を探っても、これだという答えは見つけられない。そもそも自分自身の感情すら未だに処理ができていないのに、他人の問題を解決することができるはずもない。
 日常の中に、視界の片隅を蠢く虫のようなものがある。それは人を殺したいという衝動だと言ってしまえば簡単だ。けれど本当にそうなのだろうか。これまで見てきた事件の裏には現状への不満や怒り、悲しみがあったように思う。言葉にできるものかできないものかは別として、そして本人が自覚していたかも別として、誰が爆発しそうな何かを抑えていて、抑えきれなくなった瞬間に人を殺したのではないだろうか。
 現状への不満というのは悪いものばかりではない。それがあるからこそよりよいものを作り出せるという側面はある。竪穴式住居に不便さを感じる人が誰もいなかったら、人間が鉄筋コンクリートの堅牢な建物に住むという未来はあり得なかっただろう。
 だから、この感情そのものはおそらく人間に元から備わっているものなのだと思う。それが人によって違う形で表出するから、世間に受け入れられるものかそうでないものかが変わってきてしまう。
 おそらく絵美は、自由にやりたいことをやることさえできれば、自分の中の感情をうまく昇華できるだろう。実際、兄と出会って彼女が一応の安定を見せ始めているのは、それまで禁止されていたアクセサリー作りなどを自由にできるようになったからだと考えられる。
「だからといって、私が親から引き離すとかは……無理だしな」
 身体的な虐待をされているような状況であれば、さっさと通告すればいいだけだ。でも、精神的なものは目に見えないから難しい。絵美が自分の意思で逃げようと思うなら手を貸すことはできるが、彼女は兄の家に行っているときでも、時間が来ればちゃんと家に帰ってしまうのだ。
「やっぱり、お兄ちゃんに言ってもらうのが一番なんだよな、どう考えても……」
 兄は兄の目的があるから、私に協力してくれることはないだろう。でも、絵美が兄を好きになったしまった以上、私が何かを言うよりも、兄が言った方が確実に効果的だ。
 正直、会いたくはない。でも帰ってきたらきちんと話をするべきだろう。
 考え事をしながらめくっていたノートが終わったので、別のノートを取り出そうとする。そのとき、私は微かな違和感を覚えて首を傾げた。ここは私しか触らない場所のはずだ。厳密に言えば、兄がここから一冊ノートを拝借していったことはあるが、それも取り戻したあとだ。
 兄がそれ以降に実家に戻ってきたということも考えられるが、直感でそれはないと思った。兄は少なくとも私に対しては、逆に気付かれるように動くだろう。そもそも一度はノートを黙って持って行ったような人間なのだ。
 だとしたら、この違和感は――気のせいか、あるいは。
 もう何年も同じ場所に隠している。念のために隠し場所を変えてもいいかもしれない。大掃除のときにやれば変には思われないだろう。
「あ、そういえば掃除……」
 兄が帰ってくるまでに掃除をしておけと母に言われていたのだった。他人の部屋を掃除するなんて面倒以外のなにものでもない。そもそも母が言い出しなら、言い出した本人がやるのが一番角が立たないだろう。でも突っぱねて揉めるのも面倒だ。どうせ引っ越しして以来ほとんど触っていないのだから、掃除機をかけるくらいでどうにかなるだろう。
 私はノートをしまい、部屋の様子だけでも見ておこうと思って兄の部屋に向かった。
 ドアを開けると、暖房をつけていない部屋から冷気が漂ってくる。けれど思ったより寒くはなかった。必要な荷物が運び出されて、がらんどうになった部屋。でも、一人暮らしに必要のないものなどはそのままクローゼットの中にしまってある。掃除をするならそこも開けて風通しをする必要があるだろう。
 クローゼットの奥には兄の歴史が詰まっていた。つまるところ、アルバムの類だ。私の部屋にも似たようなものが置いてある。小学生の頃にもらった賞状などが、必要はないけれど何となく捨てられずにそこにあるのだ。きっちりと揃えて置かれたアルバムや箱。そこにも少し違和感がある。しばらくその正体について考えていた私は、時計の針が動く音で我に返った。
 どれだけ綺麗にしていても、何故か埃というものは溜まっていくものだ。特にこんな、クローゼットの奥の、本来の持ち主が必要ないからと置いていったものがある場所なんて。それなのにあまりにも綺麗すぎる。思えば、私のノートの置き場所も、私が記憶しているより綺麗になっていたのだ。
 そんなことをする人は、一人しか思いつかない。私は唇を噛んだ。
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