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菅沼大三殺人事件
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時刻は午前一時。菅沼邸の広いリビングに一同は集まっていた。
菅沼母娘、三人の客人たち、使用人の女性。
彼らを見回す一人の探偵。
そして、部屋の中心、ソファに座したままこと切れている、屋敷の主、菅沼大三。
時計の秒針がカチカチと音を立てる中、探偵は徐に口を開いた。
「菅沼氏が殺されました」
人里離れた山奥に建つ屋敷。外へと繋がる唯一の道である吊り橋は焼き落とされた。
そう、今夜、ここは閉ざされた場所となっている。
「犯人は――この中にいない」
いないのである。
もったいつけた探偵の言葉に、一同はそれぞれに頷く。
そう、この中に、犯人はいない。
犯人は先ほど逃げて行った。
菅沼氏の甥である菅沼幸春氏が、まさに包丁をぶっ刺した状況を全員から目撃されていた。深夜の犯行なら誰にも見つからないと思ったのだろうが、ところがどっこい、全員わりと夜ふかししていた。そういうこともある。
犯行をしっかりばっちり目撃された幸春氏は「俺は捕まらねぇからな!」と言い捨て、一目散に逃げだした。最初から時間稼ぎに使うつもりだったのだろう、灯油を染み込ませた吊り橋に火をつけて、誰も後を追えないようにして。
なので今この部屋に犯人はいないのである。
「探偵さん……」
夫を亡くしたばかりの菅沼夫人が彼の言葉に応じた。
「確かに……確かにこの中に犯人はいません。それを言ってどうなるって言うんです」
「分かりませんか?」
探偵は夫人に、もの言わぬ死体に、そして彼に注目する人々に、順に視線を移して。
「人里離れたお屋敷。殺された館の主。外界への通路は閉ざされ、そこに居合わせた探偵。これは、非常に特異な状況です」
「だけど、犯人はここにいねぇんだろ!」
客人の一人が苛立ったような声を上げた。
探偵は真面目な顔で頷く。そう、何人か客人がいるなら、そのうちの一人はやや短気であるべきだ。素晴らしい合いの手だと言える。
「犯人はいません。だからと言って、ただ大人しくしていることなど私にはできない」
「……チッ」
お手本のような舌打ちをして踵を返そうとした客人A(仮称)に探偵は鋭い声を投げかける。
「おっと、『俺は部屋に戻らせてもらうぜ』は禁止ですよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか……?」
気弱そうな客人B(男)と小柄な客人C(女)は不安そうに身を寄せ合っている。カップルなのかもしれない。こういう場合のカップル客は得てして裏があるものだが、果たしてこの二人はどうだろうか。
菅沼夫人は気丈な態度を崩さない。その娘は父が殺されたというのに無表情でむっつりと探偵を見ている。中年の使用人は一番目に見えてうろたえている。
いかにも、この中に犯人がいそうな取り合わせである。
いないのが勿体ないくらい。
「皆さん、ご存じのように、我々は今、ここから脱出することは叶いません。かといって閉じ込められたわけでもなく、普通に警察に連絡が済んでいるので普通にあと数時間で助けが来ることでしょう」
そう、普通に携帯の電波は届くのである。便利な時代になったものだ。
「朝を待てばこの事態は収束する。けれど正直なところ、朝まで寝~よう、という気分でもないでしょう?」
それは、まあ……。誰ともなく囁き合う。
「ならば我々が為すべきことはただひとつ」
探偵の眼差しを受け止め、今や女主人となった夫人はごくりと唾を呑んだ。
「つまり……それっぽく過ごす、と」
そう。
この場所は今、非常にそれっぽい要素で構成されている。
それっぽい場所。それっぽいメンバー。それっぽい探偵。それっぽい死体。
足りていないのは犯人だけ。それにさえ目を瞑れば、朝までそれっぽい推理合戦をして過ごすことができる。
「そんなの無理よ!」
客Cが悲痛な叫びをあげた。
「だって……だって、菅沼さんは確かに、幸春さんに殺されたんだもの! これ以上何をどう考えろっていうの?!」
もっともな指摘。
しかし探偵は動じない。
「いいですか、これを見てください」
そう言って探偵は、菅沼大三の傍へ寄ると、その右手に触れた。
ただぐったりと垂れていただけの右手の……指を……あれやこれやして……。
「――これが何に見えますか」
大三氏の右手は、人差し指と小指だけがぴんと立てられた、いわゆる狐の形をとっていた。
一同はハッと息を呑む。
「それは、まさか……」
「ダイイングメッセージ……!」
そう。
ちょっと手先をいじっただけで、何ということでしょう、何の変哲もなかった刺殺体が、瞬く間になんか意味ありげなメッセージを残した死体に早変わり。まさに匠の技と言えよう。
「待てよ、だったら……玄関とか窓とか全部鍵をかけておいた方がそれっぽいんじゃないか?」
「凶器の包丁も見つからない方がそれっぽいですよ」
「私、定期の中とかにこっそり菅沼さんの写真とか隠しておくとそれっぽくないですか?」
客ABCもここへきて自分の役割に気が付き始めたようだ。
使用人は相変わらずおろおろしながら主に指示を仰ぐ。
「お、奥様、私はどうしたら……」
「あなたは皆さんにお茶を出したりしてちょうだい。必要以上に怯えたりするとなおそれっぽいわ。ほら、里佳子、あなたも」
これまでずっと沈黙を保ってきた娘を促せば、彼女は無表情のままぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「お狐様が……怒ってるんだわ……」
ここへきて因習っぽさまで付与された。探偵はうんうんと頷く。非常にいい。もう一人二人ぐらい犠牲者が出そうな雰囲気だ。犯人がいないので有り得ないが。
「さあ、皆さん!」
探偵は高らかに声を上げる。緊張に満ちた視線が彼に集まる。
「菅沼氏が殺されました。しかしご安心ください。私が必ず犯人を見つけてみせましょう!」
リビングに集まった人々の間で視線が交差する。疑念、戸惑い、怒り――様々なものが混じり合う。
事件は起こり、眠れぬ夜は始まったばかり。
しかしこの中に犯人はいないのである。
菅沼母娘、三人の客人たち、使用人の女性。
彼らを見回す一人の探偵。
そして、部屋の中心、ソファに座したままこと切れている、屋敷の主、菅沼大三。
時計の秒針がカチカチと音を立てる中、探偵は徐に口を開いた。
「菅沼氏が殺されました」
人里離れた山奥に建つ屋敷。外へと繋がる唯一の道である吊り橋は焼き落とされた。
そう、今夜、ここは閉ざされた場所となっている。
「犯人は――この中にいない」
いないのである。
もったいつけた探偵の言葉に、一同はそれぞれに頷く。
そう、この中に、犯人はいない。
犯人は先ほど逃げて行った。
菅沼氏の甥である菅沼幸春氏が、まさに包丁をぶっ刺した状況を全員から目撃されていた。深夜の犯行なら誰にも見つからないと思ったのだろうが、ところがどっこい、全員わりと夜ふかししていた。そういうこともある。
犯行をしっかりばっちり目撃された幸春氏は「俺は捕まらねぇからな!」と言い捨て、一目散に逃げだした。最初から時間稼ぎに使うつもりだったのだろう、灯油を染み込ませた吊り橋に火をつけて、誰も後を追えないようにして。
なので今この部屋に犯人はいないのである。
「探偵さん……」
夫を亡くしたばかりの菅沼夫人が彼の言葉に応じた。
「確かに……確かにこの中に犯人はいません。それを言ってどうなるって言うんです」
「分かりませんか?」
探偵は夫人に、もの言わぬ死体に、そして彼に注目する人々に、順に視線を移して。
「人里離れたお屋敷。殺された館の主。外界への通路は閉ざされ、そこに居合わせた探偵。これは、非常に特異な状況です」
「だけど、犯人はここにいねぇんだろ!」
客人の一人が苛立ったような声を上げた。
探偵は真面目な顔で頷く。そう、何人か客人がいるなら、そのうちの一人はやや短気であるべきだ。素晴らしい合いの手だと言える。
「犯人はいません。だからと言って、ただ大人しくしていることなど私にはできない」
「……チッ」
お手本のような舌打ちをして踵を返そうとした客人A(仮称)に探偵は鋭い声を投げかける。
「おっと、『俺は部屋に戻らせてもらうぜ』は禁止ですよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか……?」
気弱そうな客人B(男)と小柄な客人C(女)は不安そうに身を寄せ合っている。カップルなのかもしれない。こういう場合のカップル客は得てして裏があるものだが、果たしてこの二人はどうだろうか。
菅沼夫人は気丈な態度を崩さない。その娘は父が殺されたというのに無表情でむっつりと探偵を見ている。中年の使用人は一番目に見えてうろたえている。
いかにも、この中に犯人がいそうな取り合わせである。
いないのが勿体ないくらい。
「皆さん、ご存じのように、我々は今、ここから脱出することは叶いません。かといって閉じ込められたわけでもなく、普通に警察に連絡が済んでいるので普通にあと数時間で助けが来ることでしょう」
そう、普通に携帯の電波は届くのである。便利な時代になったものだ。
「朝を待てばこの事態は収束する。けれど正直なところ、朝まで寝~よう、という気分でもないでしょう?」
それは、まあ……。誰ともなく囁き合う。
「ならば我々が為すべきことはただひとつ」
探偵の眼差しを受け止め、今や女主人となった夫人はごくりと唾を呑んだ。
「つまり……それっぽく過ごす、と」
そう。
この場所は今、非常にそれっぽい要素で構成されている。
それっぽい場所。それっぽいメンバー。それっぽい探偵。それっぽい死体。
足りていないのは犯人だけ。それにさえ目を瞑れば、朝までそれっぽい推理合戦をして過ごすことができる。
「そんなの無理よ!」
客Cが悲痛な叫びをあげた。
「だって……だって、菅沼さんは確かに、幸春さんに殺されたんだもの! これ以上何をどう考えろっていうの?!」
もっともな指摘。
しかし探偵は動じない。
「いいですか、これを見てください」
そう言って探偵は、菅沼大三の傍へ寄ると、その右手に触れた。
ただぐったりと垂れていただけの右手の……指を……あれやこれやして……。
「――これが何に見えますか」
大三氏の右手は、人差し指と小指だけがぴんと立てられた、いわゆる狐の形をとっていた。
一同はハッと息を呑む。
「それは、まさか……」
「ダイイングメッセージ……!」
そう。
ちょっと手先をいじっただけで、何ということでしょう、何の変哲もなかった刺殺体が、瞬く間になんか意味ありげなメッセージを残した死体に早変わり。まさに匠の技と言えよう。
「待てよ、だったら……玄関とか窓とか全部鍵をかけておいた方がそれっぽいんじゃないか?」
「凶器の包丁も見つからない方がそれっぽいですよ」
「私、定期の中とかにこっそり菅沼さんの写真とか隠しておくとそれっぽくないですか?」
客ABCもここへきて自分の役割に気が付き始めたようだ。
使用人は相変わらずおろおろしながら主に指示を仰ぐ。
「お、奥様、私はどうしたら……」
「あなたは皆さんにお茶を出したりしてちょうだい。必要以上に怯えたりするとなおそれっぽいわ。ほら、里佳子、あなたも」
これまでずっと沈黙を保ってきた娘を促せば、彼女は無表情のままぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「お狐様が……怒ってるんだわ……」
ここへきて因習っぽさまで付与された。探偵はうんうんと頷く。非常にいい。もう一人二人ぐらい犠牲者が出そうな雰囲気だ。犯人がいないので有り得ないが。
「さあ、皆さん!」
探偵は高らかに声を上げる。緊張に満ちた視線が彼に集まる。
「菅沼氏が殺されました。しかしご安心ください。私が必ず犯人を見つけてみせましょう!」
リビングに集まった人々の間で視線が交差する。疑念、戸惑い、怒り――様々なものが混じり合う。
事件は起こり、眠れぬ夜は始まったばかり。
しかしこの中に犯人はいないのである。
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