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風の到達不能極(インレット)~ラーセン・マグナコア)⑫ 終極のマスチフ 前半

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 ■ ドンファン池(承前)

 年の取り方には二通りある。知識と理性を蓄積する加齢と、言い訳と偏見を増幅する老化だ。ヨーゼフ・ダッチマンには両者が平等に訪れる。彼は、たった今、魔王にふさしい進化を続けている。目が落ちくぼみ、鷲鼻が隆起し、頬肉が削げ落ちる。青臭い相貌がみるみる萎れ、艶やかな皮膚が爛れ、白髪が垂れ下がる。筋肉は瘦せ衰え、脊柱が湾曲する。おどろおどろしい容姿は見る者に無言の圧力をかける。
 ぴったりの代名詞がある。
 魔王だ。
 それは文字通りサンスクリット語で殺す者の王――奪命者ともいう。すなわち、人の生命を奪い,善事を妨げる悪い鬼神を意味している。
 命を支配するものは死を克服せねばならない、だから、彼は熱力学に逆らう不死性を身に着け、幾戦幾万の勇者を指先一本で葬り去る魔法力と知性を備えた。
 それを南極石が可能にしている。ジオマクロ分子の主成分はもともと惑星間を漂うソリンという物質で出来ている。それはメタンガスや炭素に恒星の強力な紫外線が作用して生成されたフリーラジカルだ。つまり、宇宙空間で長い歳月をかけて確率変動をため込んだ。そこに南極石を化学反応させることで莫大な可能性が開放されるのだ。
 ヨーゼフの魔王としての任期は有限である。だが、彼はドンファン池の南極石を使い果たす前に全「異世界」を平定する基礎をお築く自信があった。
「運命量子色力学者、宇宙人、どちらでもいい。己の科学が間違っていないというのなら、俺の魔法を正してみる。どうあがいても実現可能性はこちらの方が高い」
 魔王の掌でガラスケースが沸騰と冷却を無限ループしている。周囲の空間に亀裂が走り、ひび割れて、剥離する。ガシャンガシャンと鱗が落ちるように多角形の虫食い穴が増えていく。そして砕け散った現実は暗黒の輝きとなって純色のベッドを煙らせている。
「どうせ、最終的には、お前ただ一人が君臨するのでしょ? 自分以外は敵。いつ寝首を搔くかわからない。さっさと私たちを殺して、【マランツ】を独占すれば?」
「だから、さっきも訊いただろう。その前に倒さなくちゃいけない敵が大勢いる。お前たち運命量子色力学者やメタンハイドレート生命体もそうだ。そこの宇宙人もな」
 ヨーゼフは明らかに時間稼ぎをしている。その理由は何かと純色は知識を総動員した。前に各異世界のホウ素12Λ埋蔵量を計算したことがある。ドンファン池を臨むバンダ基地はロス氷床をぐるりと回り込んだ場所にある。
 その足元にはメタンハイドレート鉱床がある。それらは極低温かつ高圧の場所にしか存在できない。地球上でいえば一気圧だと、摂氏マイナス80℃以下で二年以上も高圧が持続する場所。万年氷は理想郷だ。
「お歴々」の出方を探っているのか。
 いや、ヨーゼフはひとかどの魔王だ。やるなら先手必勝。南極石で一気に解決するはず。では、消去法で怯んでいる。
 エリスも同じことを考えていた。
 メタンハイドレートに魔王が二の足を踏む根拠。それを必死に探った。その時、エリスの視野を眩い光がかすめた。
 氷山だ。
 強力な照り返しが不純な塊を神々しく輝かせている。
 紫外線よ。南極の照射する紫外線は高エネルギーの電磁波なので、物質内部の結合を断ち切ってしまう。結晶内のメタン分子から水素原子が破壊されてメチルラジカルとなり、電子の振る舞いが非常に不安定になる。
 つまり、超強力な確率変動がロス氷床に潜在しているのだ。魔王の豪語は威嚇ブラフだ。ハッタリだ。現時点でメタンハイドレートに負けている。
 彼は必死に確率変動を積み上げて、メタンハイドレートを力で打ち明かそうとしている。
 これだわ。
 ヨーゼフの腹積もりはわかった。この弱点を今のうちに突けば勝てる見込みはある。しかし、判明した事実を誰にどうやって伝えるべきか。
 彼女は、一縷の望みにかけた。気丈に魔王を睨みつけ、声をかける。
「ねぇ。集団に連絡を取りたいんだけど。降伏勧告よ。助かりたいのなら魔王と共闘しろと」
 出来る限り弱弱しく、しおらしく話しかける。弱り目に祟り目の女がよりを戻そうと訴えかける。そんな気持ちを込めた。
「そうか。最初からそう言ってくれりゃ、手間は省けるんだ」
 魔王は自己陶酔していて、他人を顧みる余裕などないらしい。あっさりと芝居に引っかかった。
「ヤンガードライアスも馬鹿ではないわ。宇宙の結論を急ぐ勢力が他にもいることを分からしめれば考えを変えるわ」
 エリスはそう言ってダイマー能力を振り絞った。ラーセンマグナ・コアが平面世界であれば、友軍に届くはずである。メッセージ内容は魔王に気づかれないように極力省いた。
 CH3。
 平文にたった三文字の暗号が紛れている。
 メチルラジカルをあらわす化学式。

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