98 / 156
社会病理の対流圏(ヘヴンズドア・インサフェイス・オンフットルース)⑧ ロマノフの亡霊
しおりを挟む
■ イルクーツク 中央市場(承前)
「こちらです」
オチルバト家の長女はポニーテールを揺らして小走りに裏路地を駆け抜けていく。右へ左へ、人ひとりがやっと通れる狭い道をいくつも通り、袋小路の螺旋階段をのぼった。渡り廊下を進んで、段ボールの詰まった倉庫からボクダナ通りに出る。どうやらウシャコフカ川方面に向かっているようだ。それほど遠くない場所で断続的に破裂音が聞こえた。
「迷わないように、ついてきてください」
息を弾ませるゲレルトヤー。短いスカートからアンダースコートが見え隠れする。肩を並べていた女性が火達磨になった。平穏な街の日常が一瞬で地獄絵図に変わる。大砲のような音がして車が全焼している。突然の爆発に騒然となった。吹雪がダイマー能力を起動して被害者の頭上に水分を凝縮しようとした。
「立ち止まらないでください」
ゲレルトヤーが吹雪の手を引く。モーリアはスカートの内ポケットから翡翠タブレットを取り出した。最寄りの無人乗合自家用乗用車を停めて、そそくさと乗り込んだ。悲鳴や啜り泣きが遠ざかっていく。透明人間は華麗なハンドルさばきで対向車を避ける。
落ち着くと、どっと汗が噴き出てきた。吹雪はセーラー服をポロシャツごと脱いで上半身体操着姿になった。ゲレルトヤーは眉間にしわを寄せてじっと遠くを見ている。それにしても、いったん逃走した筈の人間がどの面をさげて舞い戻るというのだ。厚顔無恥にもほどがある。荒井吹雪はほとほと呆れつつも、事情を聞いた。
「ねぇ。ゲレルトヤー。貴女、どうしてこんなところにいるの? お母さんは?」
「永劫回帰線のフットルース駅です。バイカル湖の対岸にあるウランウデの町からシワノ行きのウンエントリヒ・アハトアハトが発車します。その前に手伝って貰いたいことがあります」
あまりに不条理で身勝手な申し出だ。さすがに吹雪も忍袋の緒が切れた。ダイマー能力起動。車内の水分を氷結。ゲレルトヤーの喉笛にツララが突き付ける。
「あなたをここで殺すこともできるのよ?」
残念ながら脅迫に関して相手のほうが一枚上手だった。ゲレルトヤーは素早くダッシュボードを外して、車載AIをむき出しにした。「今すぐ全員死ぬこともできます。通行人を巻き添えにして。シワノ政府はドイッチェラントの無差別殺人を三千世界に喧伝するでしょう」
あどけない顔をして物騒なことを言う。何が生まれて間もない少女を荒廃させたのか。
「……――!?」
吹雪が黙りこくってしまうと、ゲレルトヤーは畳み掛けた。モーリアとリュプヴィーは事情が呑み込めないながらも、命の恩人に感謝すべきだと述べた。逆らえない状況で吹雪は、どうにでもなれ、と開き直った。ハーベルトは「閣下」と特別な称号で呼ばれるだけあって有能だ。きっと今回も収拾してくれるだろう。その反面、教師としての良心が疼いた。
「ちっぽけな中傷で揺らぐ枢軸じゃないわ。仮に死なばもろともと言ったら?」
「シワノは親切心を挫かれたと遺憾の意を表明するでしょう。つまらない反乱分子がドイッチェラントの権益を犯したと」
「どういうことなの?」
「バイカル湖にロマノフ王朝の遺産が沈んでいるんです。コード1917の冬。帝政ロシアに突如として革命が起き、ロマノフ王朝は崩壊しました。革命軍は早々にドイッチェラントと休戦協定を結び、帝政復古をめざす王党派の討伐を始めました。その落人が軍資金を運んできたんです。それはすでにシワノが抑えました」
ロマノフ家の金塊の話なら吹雪も月刊ゴンドワナで読んだことがある。125万人が五分の一に減るほどの強行軍だったという。氷点下30度の酷寒で大勢の人が死に絶えた。
そうだというのなら、この騒動は陽動作戦の一環だろうか。吹雪はいろいろ腑に落ちない点を指摘した。
「異世界蒸気掘削機があって、運搬列車もあるのなら、異世界逗留者の出番はないじゃない」
ゲレルトヤーはAIに細工しながら答えた。
「いいえ。荒井吹雪。あなたは日本人でしょう。枢軸と与した連合国に何をされたか思い起こすべきです」
「太平洋戦争のことを言っているの? それとも原爆投下? どっちにしても侵略戦争を起こした日本が悪いんでしょ」
「昭和の戦後生まれはみんなそう言います。大分裂に取り残された時間軸の住人は。それはある時点まで正しかったかもしれません。エーデルヴァイス海賊団が創った世界線上には伏魔殿が存在することを認識してください」
「フランチェスカ・エフゲニー・ローズバードは大総統に比肩する偉人よ。悪口はいい加減にしなさい。つきあいきれないわ」
吹雪が能力づくで車を止めた。方法はいたって単純。路面を氷結させてスリップを起こす。ウーバーはスピンしてガードレールに衝突する。空気圧を生じさせて三人を護ったあと、ひびわれたフロントガラスを破って虚空へはばたいた。すぐさま、吹雪の進路をフォッケウルフFw61が塞いだ。
「教員資格を持っている癖に知能指数が足りないのね。もしかしてモグリ?」
操縦席に顔見知りの宇宙人が座っていた。
「エリス?……って、はぐぅ!!」
カロリーメーターが黒猫褌姿の教師を生け捕りにした。
■ TWX1369
「ウンエントリヒ・アハトアハトがシベリア鉄道を東進、バイカル湖底線を経由してウランウデに停車する模様」
機関車の運行情報表示板が敵列車のダイヤ変更を告げた。
「こちらも確認。鈴が鳴っています」
望萌がダイマー共有感覚に荒井吹雪の居場所を表示した。永劫回帰線の路線図と重なっている。
ハーベルトは矛盾する行動を迫られている。トワイライトエクリプスを出せば、祥子と吹雪は二度と本初始祖世界に帰れない。しかし、吹雪を救出せねば戻ることもかなわない。
「前進しましょう。残念ですが、列車を降りた異世界逗留者二人は運航阻害要因でしかありません。こと、アハトアハトは敵です。規律に従って排除します」
ハウゼル列車長が冷徹な判断を下した。
「……そうね。そもそも祥子がゲレルトヤーを引き渡したからいけないのよ」
ハーベルトは世界首都ゲルマニアの潜水艦隊司令部に援軍を要請した。
「……ええ。沈埋函を……わたしの艦はしっかりとモスボールしてくだされば……。ええ、もちろん空母も一緒です。もう一隻もお忘れなく」
これから泣いて馬謖を斬りに行こうというのに、ずいぶんとはしゃいでいる。彼女は潜水艦が航行できないバイカル湖にとんでもない方法でオモチャを持ち込もうとしていた。
「こちらです」
オチルバト家の長女はポニーテールを揺らして小走りに裏路地を駆け抜けていく。右へ左へ、人ひとりがやっと通れる狭い道をいくつも通り、袋小路の螺旋階段をのぼった。渡り廊下を進んで、段ボールの詰まった倉庫からボクダナ通りに出る。どうやらウシャコフカ川方面に向かっているようだ。それほど遠くない場所で断続的に破裂音が聞こえた。
「迷わないように、ついてきてください」
息を弾ませるゲレルトヤー。短いスカートからアンダースコートが見え隠れする。肩を並べていた女性が火達磨になった。平穏な街の日常が一瞬で地獄絵図に変わる。大砲のような音がして車が全焼している。突然の爆発に騒然となった。吹雪がダイマー能力を起動して被害者の頭上に水分を凝縮しようとした。
「立ち止まらないでください」
ゲレルトヤーが吹雪の手を引く。モーリアはスカートの内ポケットから翡翠タブレットを取り出した。最寄りの無人乗合自家用乗用車を停めて、そそくさと乗り込んだ。悲鳴や啜り泣きが遠ざかっていく。透明人間は華麗なハンドルさばきで対向車を避ける。
落ち着くと、どっと汗が噴き出てきた。吹雪はセーラー服をポロシャツごと脱いで上半身体操着姿になった。ゲレルトヤーは眉間にしわを寄せてじっと遠くを見ている。それにしても、いったん逃走した筈の人間がどの面をさげて舞い戻るというのだ。厚顔無恥にもほどがある。荒井吹雪はほとほと呆れつつも、事情を聞いた。
「ねぇ。ゲレルトヤー。貴女、どうしてこんなところにいるの? お母さんは?」
「永劫回帰線のフットルース駅です。バイカル湖の対岸にあるウランウデの町からシワノ行きのウンエントリヒ・アハトアハトが発車します。その前に手伝って貰いたいことがあります」
あまりに不条理で身勝手な申し出だ。さすがに吹雪も忍袋の緒が切れた。ダイマー能力起動。車内の水分を氷結。ゲレルトヤーの喉笛にツララが突き付ける。
「あなたをここで殺すこともできるのよ?」
残念ながら脅迫に関して相手のほうが一枚上手だった。ゲレルトヤーは素早くダッシュボードを外して、車載AIをむき出しにした。「今すぐ全員死ぬこともできます。通行人を巻き添えにして。シワノ政府はドイッチェラントの無差別殺人を三千世界に喧伝するでしょう」
あどけない顔をして物騒なことを言う。何が生まれて間もない少女を荒廃させたのか。
「……――!?」
吹雪が黙りこくってしまうと、ゲレルトヤーは畳み掛けた。モーリアとリュプヴィーは事情が呑み込めないながらも、命の恩人に感謝すべきだと述べた。逆らえない状況で吹雪は、どうにでもなれ、と開き直った。ハーベルトは「閣下」と特別な称号で呼ばれるだけあって有能だ。きっと今回も収拾してくれるだろう。その反面、教師としての良心が疼いた。
「ちっぽけな中傷で揺らぐ枢軸じゃないわ。仮に死なばもろともと言ったら?」
「シワノは親切心を挫かれたと遺憾の意を表明するでしょう。つまらない反乱分子がドイッチェラントの権益を犯したと」
「どういうことなの?」
「バイカル湖にロマノフ王朝の遺産が沈んでいるんです。コード1917の冬。帝政ロシアに突如として革命が起き、ロマノフ王朝は崩壊しました。革命軍は早々にドイッチェラントと休戦協定を結び、帝政復古をめざす王党派の討伐を始めました。その落人が軍資金を運んできたんです。それはすでにシワノが抑えました」
ロマノフ家の金塊の話なら吹雪も月刊ゴンドワナで読んだことがある。125万人が五分の一に減るほどの強行軍だったという。氷点下30度の酷寒で大勢の人が死に絶えた。
そうだというのなら、この騒動は陽動作戦の一環だろうか。吹雪はいろいろ腑に落ちない点を指摘した。
「異世界蒸気掘削機があって、運搬列車もあるのなら、異世界逗留者の出番はないじゃない」
ゲレルトヤーはAIに細工しながら答えた。
「いいえ。荒井吹雪。あなたは日本人でしょう。枢軸と与した連合国に何をされたか思い起こすべきです」
「太平洋戦争のことを言っているの? それとも原爆投下? どっちにしても侵略戦争を起こした日本が悪いんでしょ」
「昭和の戦後生まれはみんなそう言います。大分裂に取り残された時間軸の住人は。それはある時点まで正しかったかもしれません。エーデルヴァイス海賊団が創った世界線上には伏魔殿が存在することを認識してください」
「フランチェスカ・エフゲニー・ローズバードは大総統に比肩する偉人よ。悪口はいい加減にしなさい。つきあいきれないわ」
吹雪が能力づくで車を止めた。方法はいたって単純。路面を氷結させてスリップを起こす。ウーバーはスピンしてガードレールに衝突する。空気圧を生じさせて三人を護ったあと、ひびわれたフロントガラスを破って虚空へはばたいた。すぐさま、吹雪の進路をフォッケウルフFw61が塞いだ。
「教員資格を持っている癖に知能指数が足りないのね。もしかしてモグリ?」
操縦席に顔見知りの宇宙人が座っていた。
「エリス?……って、はぐぅ!!」
カロリーメーターが黒猫褌姿の教師を生け捕りにした。
■ TWX1369
「ウンエントリヒ・アハトアハトがシベリア鉄道を東進、バイカル湖底線を経由してウランウデに停車する模様」
機関車の運行情報表示板が敵列車のダイヤ変更を告げた。
「こちらも確認。鈴が鳴っています」
望萌がダイマー共有感覚に荒井吹雪の居場所を表示した。永劫回帰線の路線図と重なっている。
ハーベルトは矛盾する行動を迫られている。トワイライトエクリプスを出せば、祥子と吹雪は二度と本初始祖世界に帰れない。しかし、吹雪を救出せねば戻ることもかなわない。
「前進しましょう。残念ですが、列車を降りた異世界逗留者二人は運航阻害要因でしかありません。こと、アハトアハトは敵です。規律に従って排除します」
ハウゼル列車長が冷徹な判断を下した。
「……そうね。そもそも祥子がゲレルトヤーを引き渡したからいけないのよ」
ハーベルトは世界首都ゲルマニアの潜水艦隊司令部に援軍を要請した。
「……ええ。沈埋函を……わたしの艦はしっかりとモスボールしてくだされば……。ええ、もちろん空母も一緒です。もう一隻もお忘れなく」
これから泣いて馬謖を斬りに行こうというのに、ずいぶんとはしゃいでいる。彼女は潜水艦が航行できないバイカル湖にとんでもない方法でオモチャを持ち込もうとしていた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
【本当にあった怖い話】
ねこぽて
ホラー
※実話怪談や本当にあった怖い話など、
取材や実体験を元に構成されております。
【ご朗読について】
申請などは特に必要ありませんが、
引用元への記載をお願い致します。
刻の番人 ~あなたはもうすぐ死にます、準備はよろしいですか?~
みつばちブン太
ホラー
みなさんこんばんは、私の名前はトキノと申します、以後お見知り置きを。
私の仕事を簡単に説明させていただきます。
私の仕事は、この世の中に未練を残し過去の清算を行えないまま寿命を終えようとしている人
そんな可哀想な人の時間を本来死ぬ時間から必要な分だけ巻き戻して差し上げる、ただそれだけです。
選ばれた人は過去に戻ったとしても決して死から逃れることは出来ません
刻の運命に逆らうことは決して出来ないのです。
選ばれた人にできるのは過去の清算をするだけ、ただそれだけです。
そして、あちらの世界へお送りするまでが私の仕事となります。
あら、あちらに見えるのは………、私お仕事に行って参ります、少々お待ちくださいね。
【意味怖】意味が解ると怖い話【いみこわ】
灰色猫
ホラー
意味が解ると怖い話の短編集です!
1話完結、解説付きになります☆
ちょっとしたスリル・3分間の頭の体操
気分のリラックスにいかがでしょうか。
皆様からの応援・コメント
皆様からのフォロー
皆様のおかげでモチベーションが保てております。
いつも本当にありがとうございます!
※小説家になろう様
※アルファポリス様
※カクヨム様
※ノベルアッププラス様
にて更新しておりますが、内容は変わりません。
【死に文字】42文字の怖い話 【ゆる怖】
も連載始めました。ゆるーくささっと読めて意外と面白い、ゆる怖作品です。
ニコ動、YouTubeで試験的に動画を作ってみました。見てやってもいいよ、と言う方は
「灰色猫 意味怖」
を動画サイト内でご検索頂ければ出てきます。
GATEKEEPERS 四神奇譚
碧
ホラー
時に牙を向く天災の存在でもあり、時には生物を助け生かし守る恵みの天候のような、そんな理を超えたモノが世界の中に、直ぐ触れられる程近くに確かに存在している。もしも、天候に意志があるとしたら、天災も恵みも意思の元に与えられるのだとしたら、この世界はどうなるのだろう。ある限られた人にはそれは運命として与えられ、時に残酷なまでに冷淡な仕打ちであり時に恩恵となり語り継がれる事となる。
ゲートキーパーって知ってる?
少女が問いかける言葉に耳を傾けると、その先には非日常への扉が音もなく口を開けて待っている。
【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし
響ぴあの
ホラー
【1分読書】
意味が分かるとこわいおとぎ話。
意外な事実や知らなかった裏話。
浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。
どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。
魔の巣食う校舎で私は笑う
弥生菊美
ホラー
東京の都心にある大正時代創立の帝東京医師大学、その大学には実しやかにささやかれている噂があった。20年に一度、人が死ぬ。そして、校舎の地下には遺体が埋まっていると言う噂があった。ポルターガイストの噂が絶えない大学で、刃物の刺さった血まみれの医師が発見された。他殺か自殺か、その事件に連なるように過去に失踪した女医の白骨化遺体が発見される。大学所属研究員の桜井はストレッチャーで運ばれていく血まみれの医師を目撃してしまう……。大学の噂に色めき立つオカルト研の学生に桜井は振り回されながらも事件の真相を知ることになる。今再び、錆びついていた歯車が動き出す。
※ライトなミステリーホラーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる