上 下
67 / 156

興凱湖(はんかこ)

しおりを挟む
 
 ――若くて健康なうちに信仰をはじめなさい。年老いて病気になったり、「人生に悔いがある」と毎日、嘆く前に。
 旧約聖書 伝道者の書 第12章1節より

 ■ 興凱湖はんかこ
 ハンカ湖は中国の黒竜江省とロシア沿海州にまたがる淡水湖である。湖の北寄りに直線状の国境線が引かれており、広大な水面の南半分はロシアの自然保護区に属している。
 ハバロフスクを発ったTWX1369はシベリア鉄道のスパッスク=ダリニー駅を通過し、ウラジオストクめざしてひた走る。車窓の外にはなだらかな丘が連なっている。地形の起伏に反して乗務員たちの胸中は穏やかでない。
 当然ながら新造なった枢軸特急にも食堂車ダイナープレアデスが接続されている。そこに乗員乗客の人いきれが息づいているが、華やいだ雰囲気はなく、黒い色どりだけがあった。車両の中央には白い棺が置かれており、喪服姿の異世界逗留者達が囲んでいる。留萌は同僚の最期をどうしても受け入れることができず、衛生兵に連れられて一足先に帰国した。
「ブレース機関士を故郷に葬ってあげられなくてかわいそう」
 荒井吹雪が残念そうに白木の箱をみやる。そっと触れようとしたところ、ハウゼルの手に振り払われた。
「グリーバスの自然治癒力は他の異世界ほど高くありません。異世界逗留者の亡骸が世界雑音ワールドノイズを引き起こすのです。それに彼女を熱力学第二法則の向こうから取り戻す手段がないとも限りません」
 ハウゼルはコンソール画面を操作して棺桶の周囲に強化テクタイトの壁を張り巡らせた。たちまち内側に霜がついて不透明になる。極限冷却装置がブレーズだった肉塊を絶対零度近くで保温する。
 車外に広がる丘は緑ふかく、蛇行した川は昨夜の激戦が巻き起こした気象変動のため泥の色に染まっている。吹雪は無言でテーブルに戻り、コーヒーに視線を落とした。通夜の食事は簡素で物寂しい。ガクンとカップが揺れた。
 物思いに耽る間もなく列車はチホヴォノドエの駅からドミドリエフカ川沿いの臨時引込線にはいった。針葉樹林を抜けると線路は湿地帯を横断する。湾曲した湖岸の向こうに原生林が見える以外は見渡す限り水たまりと緑のモザイクだ。ところどこりにポツンとヤナギの樹がはえている。鉄道連隊の仕事ぶりはすばらしく、ぐんぐん加速して、十分ほどでハンカ湖畔のプロトカ湖駅に着いた。列車を降りた異世界逗留者が悲嘆にくれる余裕はない。沼田コヨリがハンカ湖に落とした残留思念に対する処置が残っている。めいめいが機器を携えて砂浜を歩く。打ち寄せる波は重たくてとても内陸の湖とは思えない迫力がある。砂丘が何かをひきずったようにえぐれており、遠くにポツンと鈍色のシルエットが見える。
 ジルバーフォーゲルだ。
 ハッチが開いて望萌が降りてきた。かなりやつれた様子だ。遠目にもハッキリとわかる。合流する人々の間に言葉はない。
 荒井の喪服がフワッと湿った風にあおられる。三枚重ねのスカートからアンダースコートごしに網タイツが透けている。
 沈鬱した空気を払拭しようとハウゼルが口をひらいた。
「ちゃんと、シベリア拘留者を弔ってあげなきゃ」
「そうね。ロシア兵と比べて、わが祖国は……」
 望萌がシベリア拘留を遠回しに批判した。
「ロンメル将軍の話は知っています。ジュネーブ条約をちゃんと守ったんでしょう。それでもアドルフ・ヒトラーの行為は正当化できませんよ」
 荒井吹雪はコード1986の日本人だ。ドイッチェラント人どもの自己正当化が我慢できなかった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

そして、燻む。美しく。

頭痛
ホラー
明朗快活で学校の人気者・詩朗(シロ)と、何もかもが正反対の句路(クロ)。 二人は、無二の親友だった。 高校最後の夏休みに起こったとある事件によって、二人の運命が、二人の日常が、無情にも崩れていく。 ※誠に勝手ながら、本作は、縦読み環境にてお楽しみ頂ければ幸いです。 ── ※御注意※── 本作は、流行りのテーマ(異世界、チート能力、特殊能力、魔法、本格謎解き、呪い、祟り、化物、妖怪、デスゲーム、サイコパス、BL、ラブコメ、過度の天災等等)が一切含まれておりません。 ごくごく普通の高校生達に起こる、不可思議な現象と身近に潜んだ殺人事件程度です。 刺激を求められる方は、御遠慮頂いた方が宜しいかと思いますので、どうぞ悪しからずご了承下さいませ。

「知ってはイケナイ。」

晴れ。
ホラー
知ってはイケナイ。 知らなければソレは来ない。 かも、シレナイ。 ネットも携帯もない時代の、とある出来事。 実話を元に物語は静かに続きます。

オカルト刑事《デカ》 ~スラッシャーと化したヘラギャル VS 百人の退魔師~

椎名 富比路
ホラー
オカルト関連を専門に扱う警察官が、オカルト探偵の女性調査員と手を組む。 「退魔師ばかりを殺すスラッシャー」を、退治するためだ。 だが、現場に向かうと手口が変わっている。 今までは法則性もなく、普通に殺すだけだった。 なのに、殺害方法に怨念がこもっている。 とある高名な霊能力者から、息子の護衛を依頼される。 だが、彼らのあんまりな態度に、オカルト課は断ってしまう。 事件を追っていくうちに、スラッシャーは元々、普通の人間だったとわかった。 そのスラッシャーは、「ピ(カレシ)」が大事にしていたペット「魔王」を守っていた。 だが、魔王は殺され、スラッシャーの女性も深手を追う。 魔王は女性を助ける。自分の手足とするために。 ピの聖域を踏みにじった奴らを殺すため、ふたたびスラッシャーは動き出す! 警察の協力を得られない大手退魔師側も、百人の退魔師を雇って応戦する! 一方オカルト課は、事件に先程の大手退魔師が関与していると突き止めた!

【本当にあった怖い話】

ねこぽて
ホラー
※実話怪談や本当にあった怖い話など、 取材や実体験を元に構成されております。 【ご朗読について】 申請などは特に必要ありませんが、 引用元への記載をお願い致します。

ちっちゃくなった俺の異世界攻略

鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた! 精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!

エリス

伏織綾美
ホラー
9月 新学期。 ふとした噂から、酷いイジメが始まった。 主人公の親友が、万引きの噂が流れているクラスメートに対するイジメを始める。 イジメが続いていく中、ある日教室の真ん中でイジメに加担していた生徒が首吊り死体で発見され、物語は徐々に暗闇へと向かっていきます。

【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし

響ぴあの
ホラー
【1分読書】 意味が分かるとこわいおとぎ話。 意外な事実や知らなかった裏話。 浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。 どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。

ちゃぼ茶のショートショート 「合わない目線」

ちゃぼ茶
ホラー
私、ちゃぼ茶は会話をする時目線を合わせるのが少し苦手です。目線を合わせた方が気持ちが伝わりやすいのはわかってるのですが… そうそう話が逸れてしまいました。目線と言えば、おっとお時間が来たようです。それではまた夢の世界でお会いしましょう。

処理中です...