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音のないプロポーズ 46
しおりを挟む夕方、極力早い時間に氷影は病院へ行った。
今日は話さなければならないことが沢山ある。春直の元へ行くのに、こんなに気が重いのは初めてだった。
なのにいざ行ってみれば、春直と斗南はすっかり談笑してリラックスしきっていた。
「ちょっと。病人と謹慎中の人間にしては、元気すぎるんじゃない?」
仲間外れで、まるでこっちが謹慎しているみたいだ。氷影はふて腐れた。
「謹慎じゃないもん。早退だもん」
斗南がむくれながら訂正する。クスクスと肩を揺らすと、春直も負けじと書いてみた。
――病人じゃなくて、怪我人だもん。
「もう、何だよ。二人して」
氷影はやれやれと溜め息をついて、どっかりと腰を下ろした。
――疲れてる?
春直が訊いた。自分たちは日常離れした午後を送っていたが、氷影は大変だったのかもしれない。
「まあね」
氷影は認めた。
「ホッシー。明日から、相当覚悟した方がいい。噂、ひどくなってる」
斗南から顔を背けて言った。ペットボトルからコップへお茶を注ぐ。それを氷影が飲み干す間、二人は黙りこくっていた。
「…扇雅の同期が昼休みに連絡したらしい。噂の元はあいつだろ、当たり前といえばそうだけど、余計拍車掛かるようなことを色々仄めかしたみたいなんだ」
会社の休憩所なんて、普段は一部の喫煙者が一服に来るだけなのだが、今日は違った。進展を聞こうとあちこちから人が寄る。口から口へと噂はどんどん尾ひれを付け、斗南はすっかり悪女扱いだった。
「扇雅が来たらますますひどくなると思う。ホッシー、本当の話、少し休んだ方がいいよ。少なくとも明日だけでも。そうしたら土日挟んで、少しは…クッション入る、かも」
言いつつ、それでも大した効果はないだろうなと思った。社内で結婚の話は聞いても、こんな泥沼の噂は耳にしたことがない。第三者にしてみれば、めったにない最高の肴がぶら下げられたようなものなのだろう。
「一応、火消ししようとはしてみたんだよ。僕と、あと桃ノ木さんも。けど、何を言っても全然…むしろ火に油っていうか……。僕とも如何わしい関係なんじゃないかって言うやつまで出てくる始末で……。ごめん」
社員百人は、嫌な噂が盛り上がるのにちょうどいい人数だった。斗南が笑顔を作る。
「影ちゃんのせいじゃないよ。ありがとう。いつも仲良くしてもらってるもん…そりゃ、そうなるよね…」
「してもらってるとか言うなよ。親友でしょ」
「うん…。でも、ごめんね……」
斗南は俯いたまま、顔が上がらなくなってしまった。春直と氷影が目を合わせる。だが、対策というような術は何も見つからない。
「まあ…僕が思い付く策、といえば、さ…?」
氷影が咳払いをして、少しわざとらしく話し出した。
「ホッシーが、結婚しちゃえばいいと思うんだよね」
反応したのは春直だ。
「そうすれば、とりあえず噂がデマってことは証明になるじゃん。扇雅の言ってることも、証拠があるわけじゃないんだし。って思うんだけど…どうかなあ、ハル?」
露骨に話を向けられて、春直は顔の前で手を振った。斗南は俯いたまま無反応だ。氷影が春直を顎でけしかける。今度はバツを作り、春直は無理を強調する。
「あ、そうだ」
素っ頓狂な声をあげたかと思えば、斗南はまるで聞いていなかったかのように話題を変えた。
「春ちゃん。桃ノ木さんがね、春ちゃんに夏の決算を手伝ってほしいって言ってたんだよ」
春直の顔がまた引き攣った。その話も都合が悪いのだ。春直はスケッチブックを引き寄せ、思考を巡らせる。それから大きめの文字で別の話題を書き記すと、それを氷影の前にどんと突き立てた。
――田舎に帰るってなに?
「あ。退職願…」
斗南も思い出したように反応した。今度は氷影がゲッという顔をする。話すつもりで来たには違いないが、できる限り先延ばしにしたかったのに。
「何だよ、もう。今日は二人で同じようなことばっかして」
「それはごめんだけど、でも本当に聞きたかったんだよ。ねえ、退職ってどういうことなの?」
斗南が詰め寄ると、春直も同意した。
「仕事辞めて、実家に帰るってこと? ユキちゃんも? 何かあったの?」
斗南は心配そうだ。もともと昨日話す予定が延期になっていたわけだし、これ以上勿体ぶったところで事情が変わるものでもない。言わなくたって、その日が待ってくれるわけもない。
氷影はもう一杯お茶を飲むと、覚悟したように息をついた。
「言えなくてごめん。本当は相談したかったんだけど…言い出せなくて。届を出す前に話すと決心がつかなくなりそうな気がして、言わずに出した。僕、ユキと一緒に、地元に帰るよ」
斗南はすっと背筋が冷たくなるのを感じた。
(つづく)
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