雨降る朔日

ゆきか

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第七幕 水の神

二 約束しよう。

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 医院の離れ。
 六畳間の格子窓を開け、注連縄を巡らし場を清め、祭場とした。
 朔夜は前日からこの座敷に篭り物忌をしている。
 新月であるため、ミーシャは全ての機能を止めて、命の無いただの人形のようになっている。しかし彼の意識はこの中で眠っており、空になったわけではない。蛇神を受け入れてくれることを朔夜は祈る。白の装束を幾重も重ね、舞扇を持たせ、六畳間の中心で朔夜と向かい合うように座らせる。

 やがて夜が更けると、雨雲が空を覆った。それと同時に一果が血墨から帰ってきた。藤袴が祭具を持って後についてきている。

「始めようか」

「はい」

 火を灯し、氷室の氷を置く。氷に反射した幽かな光が白磁の頬を照らす。
 張り詰めた空気は凍るように冷たく、一果の祝詞は散らすように清らかに空へ広がり、朔夜は掻き消えてゆきそうな意識を糸のように繋ぎ止めている。

 子の刻を過ぎた頃、水晶に鉛白を重ねた瞼が重く上がり、長い白銀の睫毛の隙間から血のような真紅が茫と灯った。
 舞扇を袖に隠れた右手で振ってパッと開き、口許に当てる。これは朔夜の知る彼の所作ではない。
 顔をやや打ち傾け、目線を動かし格子窓の外を差覗いて、気高い女の声で言う。

「美しいな。この草木を育てたのはおまえか」

 初めて現実で聞く蛇神の言葉。声を発する身体はこの人形なので声質は異なるが、声の調子は夢の中で聞いたあの声と寸分違わぬものだった。
 一果の手によって儀式のために清められた朔夜の心は落ち着き払っており、このことでは動じない。

「いいえ、珠白の豊かな大地と、そして貴女の慈雨の恵みによって育まれた薬草でございます」

「これを薬にするのかい」

「薬草には神仏の力が宿ります。畏れ多くもそれらを熟知し処方いたしますことで、病魔を退け良き方向へ導きますのが、薬師の務めと存じます」

 朔夜の答えに関心し、扇の奥で愛おしそうに打ち微笑む。

「素晴らしいことだね。その仕事を誇りに思うがよい。して、朔夜。私のもとへ来る決心ができたのかい」

「私を母から奪い取り連れ去れば、貴女の御心は慰められるのでしょうか」

「だからお前を求めているのではないか。さあ、おいで。私ならばおまえに、望むだけの命を与えることができるよ」

 金色の線の輝く白い手がそっと朔夜の手を取った。朔夜は導かれるままにふわりと引き寄せられる。
 そのとき、白銀が瞬いた。後ろに控えていた藤袴が一果に向かって投げた梨地塗りの太刀だ。一果は受け取ろうとしたが、そこには無かった。朔夜が咄嗟に蛇神の手を振り解き、太刀を蹴り落としたのだった。

「朔夜! 何てことを! くそっ」

「謀ったな、一果」

「おまえが朔夜に手を出そうとするからだよ」

 一果は畳に落ちた太刀を拾い上げた。気付かれてしまったが大した問題ではない。今のミーシャの身体を斬るのは容易い。珠白が川になろうと構わない。
 太刀の柄に触れようとしたとき、朔夜が二人の間に入った。一果は危うく手を止めた。

「そこをどきなさい」

 反抗も甘えも許さない、絶対的な師の言葉。
 だが、これが我が子を守りたいだけの一人の母親の慟哭だと理解した朔夜は、瑠璃色の優しい瞳で言うのだった。

「大丈夫だよ、母さん。おれは何処へも行かない。……それを蛇神様に向けないと、約束してくれ」

 一果は両目を閉じて俯き、それから藤袴に太刀を返した。

「……わかった、おまえに任せよう」

 藤袴は一礼して部屋を出た。朔夜と一果は元の場所に直る。

 指先を動かすのも憚られるほど静まり返った薄灯りの座敷、朔夜は改めて畏まり、蛇神を見上げて言う。

「母が云いました。祭礼の後に降る雨は、子供たちを憐れむ蛇神様の涙だと。そのような優しい御心の貴女のこと、私を連れ去れば我が母のことを思い、後悔なさるのではありませんか」

 雨雲が去り、澄み渡った黒曜石の空に金銀珠玉の星々が撒かれる。

「私には母がおります。貴女についてゆくわけにはまいりませんが、せめて一夜の話し相手となりましょう」

 蛇腹折の筆記帳が朔夜の両手から白く冷々れいれいと煌めく水流のように繰広げられる。

御物語おんものがたさふらへ」

 筆を手に取る。
 﨟長けた微笑みを舞扇の端に覗かせ、千里は言った。

「一千年、私の心を知ろうとする者はいなかった。その心を嬉しく思う」

 裾が靡き、白鷺の飛び立つように窓の外に出て、幽玄に舞い始める。はためく袖は錦絵、はらはらと肩から落ちる髪は銀にも黒にも思われる。

丹生にうの時代。かつてこの地は、燃え立つ真紅、輝く黄金に覆われていた」

 朔夜は黙って聴きながらその言葉を墨で記してゆく。

「我々丹生は珠白を渡り歩き、その色彩を太陽のもとへ連れ出し、美しい装飾品や建築に変えた」

 藍に金のさざめく扇を片手に舞いながら、五色ごしきの綾糸を薬の木々に掛けてゆく。

「私は一果と同じ、丹生の巫祝だった。血墨で採掘をしていた頃のある晩のこと、寝所に白い蛇が入り込んできた。蝋燭ひとつばかりの暗闇に遊色の鱗を光らせながら、私のそばへ寄ってきた。
 それ以来、白蛇は毎晩訪れる。蛇はものを言わないが、笑う花や泣く鳥と同じこと、その心は感じ取れるものだ。やがて白蛇と睦まじい仲となり、男女の契りを交わした。
 白蛇は私の身体へするすると這入ってきた。それから数ヶ月が経ち、日に日に腹が丸く大きくなった。」

 糸と糸とがぶつかって、様々の音曲おんぎょくが十二単のように曳かれる。

「産まれた子は人間の姿であったが、うなじに蛇の鱗を生やしていた。我が子は連れていかれた。行方を探して旅をした。
 その先で知ったことは……殺められ、血墨川に流されたのだという。私も後を追った。
 だが、我が子を失った恨めしさ、悔しさは、流れる水に何千年晒されたとて晴らせるものか。妄執が雨雲を呼び、血墨川は水龍となって暴れ狂った」

 袖を翻して激しく舞う。瞬いては闇に消える金色、葉から滴り落ちて大地を打つ雫のは鼓。その身体から妙なる天楽が奏でられるとも見え、血の通わぬ唇には糸の色が映り一夜ばかりの花が紅く咲いた。

「だがそうしたところで我が子は帰ってこない。ひでりが続いた。すると生き残った人々が祭壇で美しい少年の血を流して金の盃に注ぎ、歌い、踊り、私に捧げるではないか。それを見て涙を流すと、珠白に雨が降った。人々は喜んだ。
 私が悲しむがために、来る夏も来る夏も子供たちが死んでゆく。需家の子供は心を持たず恐怖を感じないように育てられているようだが、子供がそのように育てられるのもまた悲しいことだ。そう思うと雨が降る。
 一千年以上の時が過ぎた。綴見町に、我が子の気配を感じた。それが朔夜だった。私の子の生まれ変わりだと思った。
 そのおまえがこうして私の声を聞いてくれた。斯様に嬉しいことはない」

 朔夜の瞳を見る。

「……それから、分かったことがある。おまえは一果の子の朔夜であり、白蛇の彼でも我が子でもないということだ。私は夢を見ていたようだ。今宵おまえたちの姿を見て言葉を交わしたことで、ようやく納得し受け入れることができた。失ったものを取り戻すことはできないと、私の子はこの世界のいずこにもいないと」

 ここまで書き終えた朔夜は筆を止めて置き、両手を突いて言った。

「水の神とおなり遊ばしました今の貴女は、この国に住まう全ての生命の母でございます。
 とうとうと流るる清い豊かな水が、生命を育み生かすのです。
 珠白の遍く生命のために優しい恵みの雨を降らせ、土地を潤してください。怒りの奔流で我々の住居すまいを奪おうとはお思いにならないでください」

「約束しよう。珠白の子供らのために、雨を降らせることを」

 舞扇で天球を刷くように空を撫でると、雨雲が広がって優しい雨が降り始めた。
 装束に染み込んだ雨水が人形の体温で凍りつき、やがて動かなくなった。
 東の空が白く光って今宵の祭礼に終幕を告げ、濡れた草木を照らした。


- - - - - - -


 一果が張り切って朔夜の好きな料理を作ってくれた。朔夜の身体の負担にならないよう消化が良く刺激を控えた調理がされており、心遣いが伺える。

「昨日はご苦労だったね」

「ご心配をおかけしました」

「これであいつは手を出してこなくなるはずだよ。それから……」

 突然言葉を止め、何か恐ろしいものを見たような表情で朔夜を見つめる一果。

「どうしたんだ、母さ………んっ……」
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