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第六幕 天命
二 飴ちゃんをあげよう。
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「朔夜、いるか~?」
「はーい」
薬草園の離れを訪れたのは、琥珀と松羽だ。仕事場の四畳半の畳の上には数十種類の薬種が足の踏み場も無いほどに広げられている。
「ごめん、すぐ片付ける」
「おかまいなく。あ、でも……ボクたちは地面でもどこでも座るけど、持ってきた薬種を広げられる場所は欲しいかな」
六畳間であれば座れるが、他人が入ってくるとミーシャが嫌がるのが目に見えている。朔夜は慌てて薬種を六畳間へ詰めるように動かし、四畳半部屋を空けた。二人を上がらせて温かいほうじ茶を出す。
「先日はありがとう。急に無茶なお願いをしたのに、対応してくれて」
患者の急増で大量に必要になった薬や資材を手配するために珠白を駆け回ってくれた二人には頭が上がらない。医者同士の交流を避けている一果のもとへ遠くの医者が駆けつけてくれたのも、琥珀の人脈のおかげだった。
「当然のことをしたまでだ。大変だっただろ」
「おつかれさまでした。倒れたと聞きましたが、もう大丈夫なんですか」
朔夜の顔色は悪い。肉体的な疲労よりも、多くの患者の死を目の当たりにしたことが甚くこたえているようだ。どんなに多忙なときでも手入れのされた着物をきちんと着付けて身だしなみに気を配る朔夜だが、今日はやや着崩れている。
「母さんから休暇を言い渡されてしまった。休みが必要だって。それで暇になったから、百味箪笥の整理をしてる」
「休暇中の人がすることではないと思うぞ」
「寝るか散歩などをしてゆっくりと過ごすのがいいと思いますよ」
気遣ってくれる二人の言葉に、朔夜は複雑な顔をする。
「その……。何かしていないとだめなんだ。気を紛らわせたいというか……いや、こういう言い方はよくないよな。まるで亡くなった人たちのことを邪魔なもののように……」
朔夜の顔色がさらに悪くなっていく。
「……………」
言葉を忘れてしまったように呆然としている。徐々に呼吸が乱れ、それから口を押さえて土間に飛び出していった。
身体に力が入らなくなり地べたに座り込むのを琥珀が支える。吐こうとするが食事が喉を通っていないので何も出すことができない。
「朔夜は優しいな」
「一人も、助けられなかった」
「今回は一果先生でさえ力が及ばなかったことなんだろ」
「そうだけど……」
身体を丸くして声を抑えながら嗚咽する。泣くのを止めようとすると呼吸が苦しくなる。撫でてくれる琥珀の温かい手の感触が脆くなった身体にしみて痛んだ。
「それでも、患者を救えなかったことには変わりない」
「薬売りがこういうことを言うべきではないかもしれないけど、何か人間の力ではどうにもできないようなことが起こってるんじゃないかって考えるのが自然だと思うよ」
「町の人たちもそう言ってる。これまで不可能と言われていた病も全て治してきた母さんの手から、こんなにたくさんの命がこぼれ落ちてしまうことがあるなんて、おれにも考えられない」
堰き止めていた水が溢れ出すように朔夜は速い口調で続ける。
「いったい何が起きているんだろう。これからまた同じことが繰り返されたら。救えなかったら。薬師なのに、病を克服する努力もしないでこうして怯えていることしかできないなんて」
一果は綴見町の人々が病気にならないよう日頃から生活習慣の指導や環境の整備に励んでいる。
特に妊婦の身体には気遣い、些細な変化にも気付いて病の芽を潰している。出産は命懸けと言われるが、綴見町で母体の急変が起こることは極めて稀で、朔夜は経験したことがない。それが立て続けに起こった。
一果が患者を救えなかったのも、朔夜が知る限りでは初めてのことである。
「一果先生は何か知ってるんじゃないか? 訊いてみたのか」
「訊けてない。気になるけど、母さんに解決できないのにおれに何とかできることがあるとは思えないんだ」
「少しは自信持てよ。一果先生が隣にいるから霞んでいるだけで、お前ほどの薬師は珠白でも珍しいんだぞ」
何を言ったらいいのか分からず琥珀の後ろで地蔵のようになっていた松羽が、人の気配に気付いて外を見た。薬草園側の引き戸がターンッと開く。
「これはこれは。わかちゃんとまっちゃんじゃないか」
こんな時でも相変わらず、一果の声は明るく存在感がある。
「先日は助かったよ。飴ちゃんをあげよう」
袖口から赤い包み紙の飴を二つ出して琥珀と松羽に渡す。
「ありがとう、一果先生!」
「いただきます」
飴を口に入れて転がす二人。もう一つ袖口から出して朔夜に渡そうとしたが、受け取ろうとしない。しかたなく一果は包み紙を開けて朔夜の口に押し込んだ。それから朔夜の前髪を避けて手の甲を額に当てる。
「やはり、あと数日は病室で安静にしたほうがいい。あとで女郎花ちゃんに迎えに来させよう」
「……はい」
一果がこのように言うということは、身体もあまり良い状態ではないのだろう。悪化させては余計に手を煩わせてしまう。大人しく言うことを聞くことにした。
「わかちゃんたちは頼んでいた薬種を持ってきてくれたのか。ご苦労だね。今日はあたしが受け取ろう。朔夜は奥の部屋で休んでいなさい。しばらく調薬から離れるべきだ」
朔夜は黙って一礼し、おぼつかない足取りで裏の廊下側から奥の六畳間へ行こうとした。
「いいのか、朔夜」
琥珀に呼び止められたが、朔夜は足元に視線を落としたままだ。
「何のこと?」
泣きそうなのを抑え込んでいるような掠れた声。
「一果先生に訊きたいことがあるんだろ」
「………」
聞くのが怖かった。知りたくないことを知ってしまうような気がした。
一果は朔夜の出生について、墓場まで持っていくつもりでいたのだろう。その彼女のことだ。他にも何か大変な秘密を隠しているに違いない。それに、先程口にしたように、自分が聞いたところで何か変わるのかという思いもあった。必要があれば一果が説明し、朔夜のするべきことを命令するはずだ。
「弟子からの質問は大歓迎だよ。だが、調薬に関することならまた今度にしよう」
「うん……その、調薬に関することだったんだ」
「そうか、では今日はやめておこうか」
「違うだろ」
聞いたことのない琥珀の苛立ちのこもった声に、朔夜は思わず振り返った。
「一果先生のことを絶対的な存在だと信じて盲従する気持ちも分かる。ボクもそうだから。でも、人にはそれぞれ役割がある」
師の力が及ばなかったのに自分にはできることがあるかもしれないなんて、考えたことも無かった。でも、そうだとしたら。……このように考えるなど、傲慢だ。でも。
「母さん」
「……何だい」
「はーい」
薬草園の離れを訪れたのは、琥珀と松羽だ。仕事場の四畳半の畳の上には数十種類の薬種が足の踏み場も無いほどに広げられている。
「ごめん、すぐ片付ける」
「おかまいなく。あ、でも……ボクたちは地面でもどこでも座るけど、持ってきた薬種を広げられる場所は欲しいかな」
六畳間であれば座れるが、他人が入ってくるとミーシャが嫌がるのが目に見えている。朔夜は慌てて薬種を六畳間へ詰めるように動かし、四畳半部屋を空けた。二人を上がらせて温かいほうじ茶を出す。
「先日はありがとう。急に無茶なお願いをしたのに、対応してくれて」
患者の急増で大量に必要になった薬や資材を手配するために珠白を駆け回ってくれた二人には頭が上がらない。医者同士の交流を避けている一果のもとへ遠くの医者が駆けつけてくれたのも、琥珀の人脈のおかげだった。
「当然のことをしたまでだ。大変だっただろ」
「おつかれさまでした。倒れたと聞きましたが、もう大丈夫なんですか」
朔夜の顔色は悪い。肉体的な疲労よりも、多くの患者の死を目の当たりにしたことが甚くこたえているようだ。どんなに多忙なときでも手入れのされた着物をきちんと着付けて身だしなみに気を配る朔夜だが、今日はやや着崩れている。
「母さんから休暇を言い渡されてしまった。休みが必要だって。それで暇になったから、百味箪笥の整理をしてる」
「休暇中の人がすることではないと思うぞ」
「寝るか散歩などをしてゆっくりと過ごすのがいいと思いますよ」
気遣ってくれる二人の言葉に、朔夜は複雑な顔をする。
「その……。何かしていないとだめなんだ。気を紛らわせたいというか……いや、こういう言い方はよくないよな。まるで亡くなった人たちのことを邪魔なもののように……」
朔夜の顔色がさらに悪くなっていく。
「……………」
言葉を忘れてしまったように呆然としている。徐々に呼吸が乱れ、それから口を押さえて土間に飛び出していった。
身体に力が入らなくなり地べたに座り込むのを琥珀が支える。吐こうとするが食事が喉を通っていないので何も出すことができない。
「朔夜は優しいな」
「一人も、助けられなかった」
「今回は一果先生でさえ力が及ばなかったことなんだろ」
「そうだけど……」
身体を丸くして声を抑えながら嗚咽する。泣くのを止めようとすると呼吸が苦しくなる。撫でてくれる琥珀の温かい手の感触が脆くなった身体にしみて痛んだ。
「それでも、患者を救えなかったことには変わりない」
「薬売りがこういうことを言うべきではないかもしれないけど、何か人間の力ではどうにもできないようなことが起こってるんじゃないかって考えるのが自然だと思うよ」
「町の人たちもそう言ってる。これまで不可能と言われていた病も全て治してきた母さんの手から、こんなにたくさんの命がこぼれ落ちてしまうことがあるなんて、おれにも考えられない」
堰き止めていた水が溢れ出すように朔夜は速い口調で続ける。
「いったい何が起きているんだろう。これからまた同じことが繰り返されたら。救えなかったら。薬師なのに、病を克服する努力もしないでこうして怯えていることしかできないなんて」
一果は綴見町の人々が病気にならないよう日頃から生活習慣の指導や環境の整備に励んでいる。
特に妊婦の身体には気遣い、些細な変化にも気付いて病の芽を潰している。出産は命懸けと言われるが、綴見町で母体の急変が起こることは極めて稀で、朔夜は経験したことがない。それが立て続けに起こった。
一果が患者を救えなかったのも、朔夜が知る限りでは初めてのことである。
「一果先生は何か知ってるんじゃないか? 訊いてみたのか」
「訊けてない。気になるけど、母さんに解決できないのにおれに何とかできることがあるとは思えないんだ」
「少しは自信持てよ。一果先生が隣にいるから霞んでいるだけで、お前ほどの薬師は珠白でも珍しいんだぞ」
何を言ったらいいのか分からず琥珀の後ろで地蔵のようになっていた松羽が、人の気配に気付いて外を見た。薬草園側の引き戸がターンッと開く。
「これはこれは。わかちゃんとまっちゃんじゃないか」
こんな時でも相変わらず、一果の声は明るく存在感がある。
「先日は助かったよ。飴ちゃんをあげよう」
袖口から赤い包み紙の飴を二つ出して琥珀と松羽に渡す。
「ありがとう、一果先生!」
「いただきます」
飴を口に入れて転がす二人。もう一つ袖口から出して朔夜に渡そうとしたが、受け取ろうとしない。しかたなく一果は包み紙を開けて朔夜の口に押し込んだ。それから朔夜の前髪を避けて手の甲を額に当てる。
「やはり、あと数日は病室で安静にしたほうがいい。あとで女郎花ちゃんに迎えに来させよう」
「……はい」
一果がこのように言うということは、身体もあまり良い状態ではないのだろう。悪化させては余計に手を煩わせてしまう。大人しく言うことを聞くことにした。
「わかちゃんたちは頼んでいた薬種を持ってきてくれたのか。ご苦労だね。今日はあたしが受け取ろう。朔夜は奥の部屋で休んでいなさい。しばらく調薬から離れるべきだ」
朔夜は黙って一礼し、おぼつかない足取りで裏の廊下側から奥の六畳間へ行こうとした。
「いいのか、朔夜」
琥珀に呼び止められたが、朔夜は足元に視線を落としたままだ。
「何のこと?」
泣きそうなのを抑え込んでいるような掠れた声。
「一果先生に訊きたいことがあるんだろ」
「………」
聞くのが怖かった。知りたくないことを知ってしまうような気がした。
一果は朔夜の出生について、墓場まで持っていくつもりでいたのだろう。その彼女のことだ。他にも何か大変な秘密を隠しているに違いない。それに、先程口にしたように、自分が聞いたところで何か変わるのかという思いもあった。必要があれば一果が説明し、朔夜のするべきことを命令するはずだ。
「弟子からの質問は大歓迎だよ。だが、調薬に関することならまた今度にしよう」
「うん……その、調薬に関することだったんだ」
「そうか、では今日はやめておこうか」
「違うだろ」
聞いたことのない琥珀の苛立ちのこもった声に、朔夜は思わず振り返った。
「一果先生のことを絶対的な存在だと信じて盲従する気持ちも分かる。ボクもそうだから。でも、人にはそれぞれ役割がある」
師の力が及ばなかったのに自分にはできることがあるかもしれないなんて、考えたことも無かった。でも、そうだとしたら。……このように考えるなど、傲慢だ。でも。
「母さん」
「……何だい」
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