雨降る朔日

ゆきか

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第五幕 蛇

六 美しくなったね、朔夜。

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 べーん………
 べーん…………………

 霜辻医院の薬草園に、琵琶の音が幽かに響いている。朔夜の仕事場から聞こえるようだ。

 べーん……べーん…………

「今日は調薬はしないのかい?」

「なんか、集中できなくて……」

 べーん……………

 ミーシャが珠白語の小説雑誌を読みながら話しかけたのは、ぼんやりとした様子で琵琶を繰り返し鳴らし続ける朔夜だ。月明かりに茫と光る松と水面が黒漆塗りに蒔絵で描かれたこの琵琶も、一果がこだわって手に入れた品だ。

 ベーん……べーん……べーん…………

「さっきから、ただ音をべんべんと鳴らしているだけだよね。曲を弾いたり唄ったりはしないのかい」

「……うん、せっかく琵琶を出したんだし、何か曲を練習しようかな。楽譜は……」

 べーーん………

 琵琶を置いて書棚をごそごそと探り、思い出した。

「そうだ、この間の稽古のときに母さんの部屋に忘れてきたんだっけ」


- - - - - - -


 一果の研究室の鍵は開いていた。朔夜が悪さをすることはないだろうという信用から、一果は部屋への出入りを特に禁じてはいない。朔夜が資料を借りたり頼まれていた作業をするために一果が不在の時に出入りするのはよくあることだ。

 ──いつもより散らかっている気がする。

 一果の机の上に本が広げられている。文字や図表がインクとペンで書かれたのを和綴じしたものだ。一果の文字である。
 広げっぱなしにされているのは珍しいことではない。だが朔夜は直感的に、それを見てはいけない気がした。琵琶の楽譜を持って、そのまま仕事場へ戻らなければいけないと思った。

 なのに、身体が言うことを聞かない。朔夜はそれを読み始めた。

「設計書……?」

 一果が昔から何か生命を創っているということは知っている。朔夜はそのことを特に気に留めてはいなかった。良い趣味だとは思わないが、生き物の原型らしきものの入った壺などを一果の研究室で見るのは、朔夜にとっては日常の一部だった。大きな培養槽や植木鉢が奥の部屋にあるのも知っている。

 設計書の日付は、十六年前の年の一月。
 何百もの人工生命体の設計書が棚に並べられているが、それらはどれも新品の本のように綺麗なのに、この設計書だけ妙に紙が傷んでいる。繰り返し開いて使われた形跡だろうか。
 これ以上読んではいけない。なのに、止められない。
 さらにページを捲る。
 誕生したのは、十六年前の十一月一日。
 視界が瞬いた朔夜は、ぽすんと一果の椅子に落ちるように座り、身体を預けた。
 この日は、朔夜の誕生日だ。
 いくら一果でも、出産したその日に壺を開けて仕上げの作業をする余裕があるだろうか。可能だとして、わざわざその日を選ぶ理由があるだろうか。
 震える手で頁を捲る。
 すると、このように書かれていた。

[No.000 朔夜]

 何度も見返したが、見間違いではない。

「おれの設計書……?」

 根拠の無い焦燥感、珠白で人が産まれないと言われる朔日の誕生日、金箔の混じったような瑠璃色の瞳、人並み外れた自己修復能力の身体、路地裏で遭遇した子供たち、近頃の母の余裕の無さ。
 これまでに漠然と感じていた違和感が、全て繋がった。間違いない。
 朔夜は一果に創られた人工生命体なのだった。
 設計書によると、十八歳頃に寿命を迎えるらしい。寿命が近付くと臓器が徐々に硬化して動かなくなりやがて死に至ると書かれている。
 朔夜は肺が固まり始めたような気がした。気のせいだと自分に言い聞かせる。

 ──おれ、もうすぐ死ぬんだ。臓器が動かなくなるってどんな感じだろう。あと二年で母さんの期待に応えて、一人前の薬師になることなんてできるのか? それよりも……おれは、母さんの子ではない?

 朔夜はふらりと立ち上がって本を元に戻した。自分が触れる前に開かれていた頁、本の位置、角度。設計書の棚や椅子の状態も全て元通りにする。

 ──母さんはきっと、おれには知られたくないと思っている。知ってしまったということは隠さなければならない。

 その思いが、朔夜に一時の平常心を与え、隙の無い隠蔽工作をさせた。
 部屋を出て、階段を降り、走り出す。滝のような雨が朔夜の声を掻き消した。薬草園の中でふらついてうずくまった。植物たちが朔夜の姿を隠してくれる。
 そうしていると、冷たかった雨がやがて温かく感じられるようになった。この温度と音の中でずっと丸くなっていたいと思った。
 すると、雨音とは違う規則的な音が幽かに聞こえた気がした。近づいてくる。雨を背中に感じなくなった。
 薄く目を開くと、裸足に白雪の草履を履いた誰かの足がある。白い肌が金の線で彩られている。

「……ミーシャ?」

「帰ろう」

 蛇の目傘をさしたミーシャが優しく微笑んだのを、朔夜は知らない。

- - - - - - -

 ぽつねんと仕事場の土間に立ち尽くしている朔夜に、ミーシャは手拭いを差し出した。受け取ったが身体を拭こうとしない。
 ミーシャの肌についた雨粒が体温で凍っている。水が苦手なのに迎えにきてくれたのかと朔夜はぼんやりと思った。

「おいで」

 六畳間から呼ばれるままに朔夜は座敷に上がり、ミーシャの傍へおぼつかない足取りで向かった。そして、その冷たい硬い胸に、寄る辺ない身体を埋めて静かに泣いた。
 今宵は下弦だが空は雲に覆われ、月明かりは無い。
 行燈の光が朔夜の薄い瞼を透かして、目許に瑠璃色を淡く滲ませている。
 雨に濡れて冷たくなった朔夜の身体が、ミーシャの体温にさらに冷やされていく。すると不思議と心が落ち着いた。

 ──ミーシャの体温って、こんなに気持ち良かったっけ。

 人形であるミーシャの身体が、まるで自分の身体の延長線であるかのように感じられる。水の混じり合うように境界線が失われる心地良さに耽溺する。
 このまま身を委ねたら体温をすっかり奪われて死ぬのではないかという恐怖が辛うじて朔夜の理性を繋ぎ止めているが、それすらも手放してしまいそうだ。
 冷えた頬に手を添えておもてを向かせると、砂子のように金色の瞬く瑠璃色が現れた。

「美しくなったね、朔夜」





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第六幕は10月7日(月)から公開予定です
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