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第一幕 白磁の神
三 ねこちゃん……。
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「さあ行くよ。支度しなさい」
医院に戻るなり一果はそう言った。
「他にも紙人形が来ていたのか?」
朔夜は下ろしかけた薬籠を背負い直そうとした。
「言ってなかったね。今から白磁山へ行くんだよ」
危うく薬籠が肩から滑り落ちるところだった。
白磁山は北の国境の川を超えた先のカペラに聳える山で、綴見町の人々は山神の白磁様を信仰している。
綴見町から見える距離ではあるが、とても気軽に行けるような場所ではない。それ以上に重大な問題もある。
「今夜は白磁様を迎える祭りだろ? 一月前から明日までのあいだ、白磁山への立ち入りは禁じられてる」
「問題ないよ。あたしが保証しよう」
「………」
論理的でないことを自信たっぷりに言われては反論できない。朔夜は沈黙と表情で抗議するが、一果には届いていないようだ。別の問題を指摘してみることにした。
「……えっと、留守にするのもまずいんじゃないか? 祭りの日に家を空けるなんて」
「女郎花と藤袴があたしたちに化けていてくれるから、何も心配しなくていい」
女郎花と藤袴は一果の式だ。彼女たちならば完璧に一果と朔夜を演じてくれるだろう。一時的に一果の知識を預けてあるので、万が一急病人が出ても対応することができる。
「そこまでして何しに行くんだよ」
「薬の材料をとりにいくんだ。今夜を逃すと二度と手に入らないかもしれない」
「珍しい薬草とか……?」
「薬草よりも良いものだ。朔夜もきっと気に入るよ」
いけないと思いながらも、それを聞いて朔夜は心が揺らいでしまった。祭礼の日に家を空けて神域に立ち入ってまで手に入れたい薬とは一体どのようなものなのだろう。
「行くけど、予定していたならもっと早く教えてほしかったな」
「朔夜は素直で嘘がつけない子だからね、先に教えておくと顔や態度に出て、町の人に勘付かれてしまうかもしれないだろう。だから言わずに黙っておいたんだ」
そりを物置から出し、人が入りそうなほどの大きさの箱を乗せ、固定するための白い縄を巻く一果。
「手伝いなさい」
「なんだこれ、棺桶か?」
「手に入れた薬を持ち帰るための箱だよ」
それにしては随分大きい。
「……山登りや野営に必要な荷物もいるよな。準備してくる」
「山には何でもあるから手ぶらでいいよ。旅は身軽な方が楽だよ」
目の前の巨大な箱と矛盾している気がする。それに「山には何でもある」は雪山には当てはまらないのではないか。でも母さんなら何とかするんだろうなと朔夜は納得してしまった。短刀だけ持っていくことにした。
「とはいっても明日の朝ごはんのお弁当くらいは持っていこうかな。お弁当を持って遠出するのって楽しいよね」
一果は朔夜を連れて母屋に上がり、薄に声をかけて二人分のおにぎりを用意するように頼んだ。
衣装箪笥のある部屋に連れて行かれ、何枚も重ね着をさせられる朔夜。
襟巻きを巻かれ、雪沓を履かされる。
「暑い……」
「ばか、向こうはすっごく寒いんだよ。もこもこにして行かないと」
一果は普段と同じ服装にマフラーを巻いただけの簡単な装備だ。踵の高い草履さえ履き替えていかないつもりらしい。
「手袋は厚手のものがいいな……。あ、これがいいんじゃない?」
猫柄の手袋を渡された。
「ねこちゃん……」
- - - - - - -
珠白とカペラの国境である川を渡った先は、一切の色彩が失われたかのような白だった。
空気は針を刺すように冷たい。川を一本越えただけなのに、珠白とはまるで違う世界のようだ。珠白も冬には雪が深く積もるが、このように清め極まったような一面の白にはならない。
足跡を付けてしまうのを憚り、朔夜は舟が岸辺に着いてもすぐに降りることができなかった。
そりを引いてしばらく歩くと、白樺が立ち並んでいるのが見えた。その木の幹を見て、白以外の色彩の存在に安堵した。
白磁山の麓に着いた頃には陽が落ち始めていた。
朔夜は立ち止まり、辺りを観察して言う。
「ここから先は神域だな。このあたりにしめ縄が張られているみたいだ」
「よく分かったね」
しめ縄は深い雪に埋まっているが、木に括り付けられているところの結び目がかろうじて見えている。今年は特に雪が多いらしい。
「本当にこの先に行くのか? やっぱり引き返したほうがいいんじゃ……」
「境界線が雪に埋もれているのならば、こちら側も同じ神域だろう。気にすることはない」
当然だとでもいうようにさらりと言う一果。
朔夜は古歌を思い出しかけたが、たぶんその歌では境界線を越えていいなどということは言っていない。
「屁理屈だ……」
朔夜は渋々と一果の後に続いた。
医院に戻るなり一果はそう言った。
「他にも紙人形が来ていたのか?」
朔夜は下ろしかけた薬籠を背負い直そうとした。
「言ってなかったね。今から白磁山へ行くんだよ」
危うく薬籠が肩から滑り落ちるところだった。
白磁山は北の国境の川を超えた先のカペラに聳える山で、綴見町の人々は山神の白磁様を信仰している。
綴見町から見える距離ではあるが、とても気軽に行けるような場所ではない。それ以上に重大な問題もある。
「今夜は白磁様を迎える祭りだろ? 一月前から明日までのあいだ、白磁山への立ち入りは禁じられてる」
「問題ないよ。あたしが保証しよう」
「………」
論理的でないことを自信たっぷりに言われては反論できない。朔夜は沈黙と表情で抗議するが、一果には届いていないようだ。別の問題を指摘してみることにした。
「……えっと、留守にするのもまずいんじゃないか? 祭りの日に家を空けるなんて」
「女郎花と藤袴があたしたちに化けていてくれるから、何も心配しなくていい」
女郎花と藤袴は一果の式だ。彼女たちならば完璧に一果と朔夜を演じてくれるだろう。一時的に一果の知識を預けてあるので、万が一急病人が出ても対応することができる。
「そこまでして何しに行くんだよ」
「薬の材料をとりにいくんだ。今夜を逃すと二度と手に入らないかもしれない」
「珍しい薬草とか……?」
「薬草よりも良いものだ。朔夜もきっと気に入るよ」
いけないと思いながらも、それを聞いて朔夜は心が揺らいでしまった。祭礼の日に家を空けて神域に立ち入ってまで手に入れたい薬とは一体どのようなものなのだろう。
「行くけど、予定していたならもっと早く教えてほしかったな」
「朔夜は素直で嘘がつけない子だからね、先に教えておくと顔や態度に出て、町の人に勘付かれてしまうかもしれないだろう。だから言わずに黙っておいたんだ」
そりを物置から出し、人が入りそうなほどの大きさの箱を乗せ、固定するための白い縄を巻く一果。
「手伝いなさい」
「なんだこれ、棺桶か?」
「手に入れた薬を持ち帰るための箱だよ」
それにしては随分大きい。
「……山登りや野営に必要な荷物もいるよな。準備してくる」
「山には何でもあるから手ぶらでいいよ。旅は身軽な方が楽だよ」
目の前の巨大な箱と矛盾している気がする。それに「山には何でもある」は雪山には当てはまらないのではないか。でも母さんなら何とかするんだろうなと朔夜は納得してしまった。短刀だけ持っていくことにした。
「とはいっても明日の朝ごはんのお弁当くらいは持っていこうかな。お弁当を持って遠出するのって楽しいよね」
一果は朔夜を連れて母屋に上がり、薄に声をかけて二人分のおにぎりを用意するように頼んだ。
衣装箪笥のある部屋に連れて行かれ、何枚も重ね着をさせられる朔夜。
襟巻きを巻かれ、雪沓を履かされる。
「暑い……」
「ばか、向こうはすっごく寒いんだよ。もこもこにして行かないと」
一果は普段と同じ服装にマフラーを巻いただけの簡単な装備だ。踵の高い草履さえ履き替えていかないつもりらしい。
「手袋は厚手のものがいいな……。あ、これがいいんじゃない?」
猫柄の手袋を渡された。
「ねこちゃん……」
- - - - - - -
珠白とカペラの国境である川を渡った先は、一切の色彩が失われたかのような白だった。
空気は針を刺すように冷たい。川を一本越えただけなのに、珠白とはまるで違う世界のようだ。珠白も冬には雪が深く積もるが、このように清め極まったような一面の白にはならない。
足跡を付けてしまうのを憚り、朔夜は舟が岸辺に着いてもすぐに降りることができなかった。
そりを引いてしばらく歩くと、白樺が立ち並んでいるのが見えた。その木の幹を見て、白以外の色彩の存在に安堵した。
白磁山の麓に着いた頃には陽が落ち始めていた。
朔夜は立ち止まり、辺りを観察して言う。
「ここから先は神域だな。このあたりにしめ縄が張られているみたいだ」
「よく分かったね」
しめ縄は深い雪に埋まっているが、木に括り付けられているところの結び目がかろうじて見えている。今年は特に雪が多いらしい。
「本当にこの先に行くのか? やっぱり引き返したほうがいいんじゃ……」
「境界線が雪に埋もれているのならば、こちら側も同じ神域だろう。気にすることはない」
当然だとでもいうようにさらりと言う一果。
朔夜は古歌を思い出しかけたが、たぶんその歌では境界線を越えていいなどということは言っていない。
「屁理屈だ……」
朔夜は渋々と一果の後に続いた。
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