1 / 39
第一幕 白磁の神
一 まったく、あのあんぽんたんは生きてても死んでても世話が焼けるね。
しおりを挟む
昨夜の雨に濡れた草木は清い薬の香を放ち、朝露はこの時節になっても未だ冷たい。
東の国、珠白の土地は、たおやかなる峰々の慈愛に恵まれ、今年も新たなる生命を育み始めていた。
水と養分を十分に含んだ柔らかな土は、水晶を散らしたようにきらきらと白く煌めく。
珠白を訪れた人々はみな、芸術家や文人に限らず誰もが植物の美しさに目を見張る。
花の名所も数多く、遊山に出かける人々の姿が一年を通して見られるが、この土地の植物は田畑の作物も道端の花も一つ残らず歌に詠まれ絵に描かれる価値がある。
弥生の晦日、ぱたぱたと羽を動かし綴見町の静かな白群の空を横切っていく一つの影。
鳥か、虫か、そうではない。とんぼの形に切り抜かれた千代紙である。
川を越え、茶屋町を抜け、目指したのは霜辻医院。
水路の通った道に面した洋館。その奥に珠白の伝統的な木造建築が繋がっている。
霜辻一果は、洋館の二階の研究室で古い手紙を読み返していた。
少女にも見える小柄で幼い姿だが、この医院の院長である。
化粧っ気は無く、黒髪を邪魔にならないように後ろでまとめて簪を挿し、舟底袖の白衣を羽織っている。
──まったく、あのあんぽんたんは生きてても死んでても世話が焼けるね。このあたしが友人であることに感謝してほしいよ。
手紙を畳んでため息をひとつつき、箱に収める。
それから窓の方へ向かって声をかける。
「お勤めご苦労だね」
一果が右手を伸ばすと、その指先に千代紙のとんぼが静かに留まった。
「天野さんからか。ふむ、分かった」
裏口から中庭に出て、一面に植えられた薬草たちの間をずんずんと歩いていく。
「朔夜? 朔夜~?」
──この時間に薬草園にいないということは……。
薬草園の奥へ進み、離れの戸を勢いよく開ける。
「朔夜!」
文机、百味箪笥、書棚、煙草盆、大量の書物や調薬の道具が詰め込まれた四畳半の中心に、書生服の少年が落ちている。
白い肌に青みがかった黒髪。薄い睫毛を伏せ、丸くなってすやすやと寝息を立てている。
ぺちん、と軽く指で額を弾くと、飛び上がるように起き上がった。
「はっ……! 母さん!」
知的で涼しげな一重瞼の瞳は瑠璃のように青く、箔を散りばめたような金色が品よくきらめく……と記したいところであるが、それは容姿の話であり、今の朔夜は美少年にあるまじき表情をしている。
額を両手で押さえる朔夜を見下ろす一果。
「おふとんを敷かずに寝てるなんて、さてはまた……」
「………」
「何日寝てないの?」
いち、に……と指を折り、途中で諦めたように両手を開き、
「わからない……」
消えそうな声で答える。
「今日も朔夜さんがお食事の時間になっても仕事場から出てこないんです……って、薄から聞いたけど?」
「わすれてた……」
頭痛がして額を押さえる一果。
「勉強熱心なのはいいけれど、寝ることと食べることをおろそかにしてはだめだよ。まったくこの子は……。ごはんは取っておいてもらったからちゃんと食べるんだよ。それから寝る時はおふとんを敷いてあったかくしなさい、というか、母屋におまえの部屋はあるんだから仕事場に泊まり込んでないで帰ってきなさいね。それから……」
言いたいことをまとめて言う。朔夜はこれらの言葉をいままでに何度聞いたか分からない。
「お説教はここまで。紙人形が来たから、これから往診に行くよ。準備しなさい」
「はい!」
「返事はいいんだから……」
すたすたと薬草園に出ていく一果。朔夜は服を整えて薬籠を背中に背負い、慌てて追いかける。
東の国、珠白の土地は、たおやかなる峰々の慈愛に恵まれ、今年も新たなる生命を育み始めていた。
水と養分を十分に含んだ柔らかな土は、水晶を散らしたようにきらきらと白く煌めく。
珠白を訪れた人々はみな、芸術家や文人に限らず誰もが植物の美しさに目を見張る。
花の名所も数多く、遊山に出かける人々の姿が一年を通して見られるが、この土地の植物は田畑の作物も道端の花も一つ残らず歌に詠まれ絵に描かれる価値がある。
弥生の晦日、ぱたぱたと羽を動かし綴見町の静かな白群の空を横切っていく一つの影。
鳥か、虫か、そうではない。とんぼの形に切り抜かれた千代紙である。
川を越え、茶屋町を抜け、目指したのは霜辻医院。
水路の通った道に面した洋館。その奥に珠白の伝統的な木造建築が繋がっている。
霜辻一果は、洋館の二階の研究室で古い手紙を読み返していた。
少女にも見える小柄で幼い姿だが、この医院の院長である。
化粧っ気は無く、黒髪を邪魔にならないように後ろでまとめて簪を挿し、舟底袖の白衣を羽織っている。
──まったく、あのあんぽんたんは生きてても死んでても世話が焼けるね。このあたしが友人であることに感謝してほしいよ。
手紙を畳んでため息をひとつつき、箱に収める。
それから窓の方へ向かって声をかける。
「お勤めご苦労だね」
一果が右手を伸ばすと、その指先に千代紙のとんぼが静かに留まった。
「天野さんからか。ふむ、分かった」
裏口から中庭に出て、一面に植えられた薬草たちの間をずんずんと歩いていく。
「朔夜? 朔夜~?」
──この時間に薬草園にいないということは……。
薬草園の奥へ進み、離れの戸を勢いよく開ける。
「朔夜!」
文机、百味箪笥、書棚、煙草盆、大量の書物や調薬の道具が詰め込まれた四畳半の中心に、書生服の少年が落ちている。
白い肌に青みがかった黒髪。薄い睫毛を伏せ、丸くなってすやすやと寝息を立てている。
ぺちん、と軽く指で額を弾くと、飛び上がるように起き上がった。
「はっ……! 母さん!」
知的で涼しげな一重瞼の瞳は瑠璃のように青く、箔を散りばめたような金色が品よくきらめく……と記したいところであるが、それは容姿の話であり、今の朔夜は美少年にあるまじき表情をしている。
額を両手で押さえる朔夜を見下ろす一果。
「おふとんを敷かずに寝てるなんて、さてはまた……」
「………」
「何日寝てないの?」
いち、に……と指を折り、途中で諦めたように両手を開き、
「わからない……」
消えそうな声で答える。
「今日も朔夜さんがお食事の時間になっても仕事場から出てこないんです……って、薄から聞いたけど?」
「わすれてた……」
頭痛がして額を押さえる一果。
「勉強熱心なのはいいけれど、寝ることと食べることをおろそかにしてはだめだよ。まったくこの子は……。ごはんは取っておいてもらったからちゃんと食べるんだよ。それから寝る時はおふとんを敷いてあったかくしなさい、というか、母屋におまえの部屋はあるんだから仕事場に泊まり込んでないで帰ってきなさいね。それから……」
言いたいことをまとめて言う。朔夜はこれらの言葉をいままでに何度聞いたか分からない。
「お説教はここまで。紙人形が来たから、これから往診に行くよ。準備しなさい」
「はい!」
「返事はいいんだから……」
すたすたと薬草園に出ていく一果。朔夜は服を整えて薬籠を背中に背負い、慌てて追いかける。
2
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
時守家の秘密
景綱
キャラ文芸
時守家には代々伝わる秘密があるらしい。
その秘密を知ることができるのは後継者ただひとり。
必ずしも親から子へ引き継がれるわけではない。能力ある者に引き継がれていく。
その引き継がれていく秘密とは、いったいなんなのか。
『時歪(ときひずみ)の時計』というものにどうやら時守家の秘密が隠されているらしいが……。
そこには物の怪の影もあるとかないとか。
謎多き時守家の行く末はいかに。
引き継ぐ者の名は、時守彰俊。霊感の強い者。
毒舌付喪神と二重人格の座敷童子猫も。
*エブリスタで書いたいくつかの短編を改稿して連作短編としたものです。
(座敷童子猫が登場するのですが、このキャラをエブリスタで投稿した時と変えています。基本的な内容は変わりありませんが結構加筆修正していますのでよろしくお願いします)
お楽しみください。
深淵界隈
おきをたしかに
キャラ文芸
普通に暮らしたい霊感女子咲菜子&彼女を嫁にしたい神様成分1/2のイケメンが、咲菜子を狙う霊や怪異に立ち向かう!
五歳の冬に山で神隠しに遭って以来、心霊や怪異など〝人ならざるもの〟が見える霊感女子になってしまった咲菜子。霊に関わるとろくな事がないので見えても聞こえても全力でスルーすることにしているが現実はそうもいかず、定職には就けず悩みを打ち明ける友達もいない。彼氏はいるもののヒモ男で疫病神でしかない。不運なのは全部霊のせいなの?それとも……?
そんな咲菜子の前に昔山で命を救ってくれた自称神様(咲菜子好みのイケメン)が現れる。
バリキャリオトメとボロボロの座敷わらし
春日あざみ
キャラ文芸
山奥の旅館「三枝荘」の皐月の間には、願いを叶える座敷わらし、ハルキがいた。
しかし彼は、あとひとつ願いを叶えれば消える運命にあった。最後の皐月の間の客は、若手起業家の横小路悦子。
悦子は三枝荘に「自分を心から愛してくれる結婚相手」を望んでやってきていた。しかしハルキが身を犠牲にして願いを叶えることを知り、願いを断念する。個性的な彼女に惹かれたハルキは、力を使わずに結婚相手探しを手伝うことを条件に、悦子の家に転がり込む。
ハルキは街で出会ったあやかし仲間の力を借り、悦子の婚活を手伝いつつも、悦子の気を引こうと奮闘する。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる