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第九章

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 だが、イーマは知っていた。はじめにそこに辿り着くのがハリシオンの軍勢ではないということを。知っていて、アガンをその場に残したのだ。

「アガン!」

 叫ぼうとしたイーマの口をエルダが押さえた。小屋では切り合いがされているようだった。いくつもの怒号と、戦いの音、物が壊れる音などがしている。

 やがてリフトの作動に気付いた男たちは騒ぎだした。彼らはリフトを止めようと操作しはじめたようだった。ガクンと振動がし、リフトが揺れる。だが下降しはじめたリフトを引き戻すことはできない。また眼下に広がる深淵を考えれば、外からロープをつたって追ってくるのも不可能に思われた。

 頭上にあったリフト小屋が次第に小さくなり、その周囲の喧騒が遠のいてゆくのを、イーマとエルダは身をねじって見守った。

「……そんな――」

 イーマは肩を震わせた。かれはけしてアガンの死を望んだわけではなかった。アガンに感謝する気持ちは真実のものだ。だが、だからこそ許せぬ思いがあった。かれは駕篭の編み目の隙間から必死に目を凝らした。

 敵はその間も執拗に装置を動かし続けた。その度リフトは停止したり、動き出したりといったことを繰り返していたが、もともと荷運び専用のところに無理な力が加わったためだろう、とうとう、リフトを支えるロープがきしみはじめた。

「ちょっと」

 エルダは唾をのみこむ。

「あいつら何してんのよ。ロープを巻き戻そうとしているの? そんなことしたらいくらこのリフトだって――」

 確かに、そのリフトの駕篭が球形のゴムでつくられているのは、落下事故の衝撃を弱めるためだろう。またもしかすれば、外壁が異常に厚いのは、はじめからそういう落下を想定したうえでのことなのかもしれなかった。古代において聖王再臨者の墓などを建築をする際、上空から直接、必要な場所に積み荷を落下させ、効率よく運搬をしたと考える学者もいるのだ。とはいうもののその場合、積み荷が人間であることはないのだろうが。

 不意に、大地が不吉な唸り声を発しはじめた。エルダは青ざめた。地震だった。ロープの揺れが激しくなる。そして何かが外れる音がしたかと思うと、それまでゆるゆる降りていたリフトのスピードが見る間に増していった。

「安全装置がはずれたんだわ」

 エルダは悲鳴をあげた。彼女はなおも叫んだが、その声は、あたりいっぱいに鳴り響きはじめた摩擦する金属音にかき消された。火花が散り、リフトはロープを上下に大きく揺らしながら降下する。ゴムが焼けるイヤな臭いがした。声をあげる間もなかった。イーマは何が起こったのか理解できず、落下する恐怖に凍りつくばかりだった。

「伏せてっ」

 ガッという不気味な音がし、イーマはリフトのロープがひきちぎられたのを知った。駕篭が空に放り出され、伸びきったロープがゆるむと同時にふわっと浮かぶ。永遠の長さに感じられる数秒の後、黒い地表がすさまじい勢いで近づいてきた。イーマはわけのわからない絶叫をあげながら、次に来るであろう衝撃に備えるように頭をさげた。





 イーマは生きていた。

 そこは冷たい岩の上で、手をやると、岩の表面にうすく敷かれた細かい砂のやわらかい感触があった。ひどい吐き気に顔をしかめながら身を起こすと、そこが巨大な円筒形の崖の底であることを理解した。いつのまに時間が過ぎたのだろうか。あたりは夜だった。空気は冷たく、風はない。じっとしていると凍えてしまいそうで、かれは身をこすって空を見上げた。

「ここは」

 リフトのロープが切れ、駕篭が空中に舞いあげられたところまでは覚えている。だが絶壁にはねかえった衝撃も、崖下の岩床に叩きつけられた衝撃もなかった。だが、イーマは駕篭が落下する途中で、自分たちが不自然に持ち上げられた感覚があったのを覚えていた。イーマとエルダは堅く抱きしめ合いながら失神したのだが、イーマはそこにある気配を感じていた。

「エルダは……」

 そばには入り口が開いたリフトの駕篭があり、気を失ったエルダが突っ伏している。イーマはエルダの生命に別状がなさそうなのを確認し、息をついた。それからかれは青ざめた唇を噛みした。すくっと立ち上がると、あたりの闇を睨みすえ、

「そこにいるんでしょう」

 強い口調で言う。

「出て来い」

 声は闇のなかに響きわたった。イーマはもう一度、叫んだ。その声の余韻が静寂に消され、イーマがさらに声を張りあげようとした時だった。唐突に、闇の一部が変化した。

「ここにいる」

 相手は人の姿を取るのも億劫だというように、煙りのような形態のままである。イーマはそちらを睨みつけた。

「能力種だな」

 相手はうっそりと、そうだと答えた。

「ずっと僕の近くにいたんだな」

 肯うように闇がゆらぐ。イーマは奥歯を噛みしめた。アガンを犠牲にしてしまったという激しい後悔と、仕方がなかったのだという思い、そしてその状況を打破できたかもしれない相手への憤怒――それが一時に押し寄せ、かれの感情はぐちゃぐちゃになっていた。かれは荒々しく言った。

「あの時も、さっき、僕が呼びかけた時も! こんなふうにして助けるなら、どうしてあの時に出てきてくれなかったんだ。そうしたら、アガンをあんなふうに殺してしまうことはなかったのにッ。姿を見せろ、何とか言え」

 闇は無言である。その沈黙にイーマがしびれをきらした頃、闇はゆらりとうごめいた。

「……勘違いされては困る。我々は貴様がどうなろうと知ったことではない。我々の目的は、一級罪人ニケットの再捕獲のみ。ニケットが貴様に執着している以上、貴様の周囲には必ずやつが現れる。そのため貴様に死なれては困るのだ。ニケットは死体となったお前に用はなかろう」

「なんだって」

「また我々は一般人間同士のいかなる抗争にも干渉しない。我々の技は我々の世界のみで使われるべきだ。さらに我々は能力種協会の決定によってのみにしか動かぬ」

「なら、つまり、ニケットを捕まえるために、僕をこれまで助けてきたっていうのか」

「助けたのではない。生かされていたのだ」

 相手は冷厳に言い切った。イーマは咽喉をひくつかせた。

「そ――それじゃあ……それなら――あの男、オデオンも、そのために僕に近づいたのか……?」

「オデオン」

 相手は嗤ったようだった。はじめて見せた感情らしい反応だった。

「ああ、ニケットの双子の兄か。あやつは少し違う。協会に籍はあるが、あるじ持ちだからな。ともあれ二度と、我々を呼び出さないでもらおう」

 吐き捨てた時だった。闇が苦悶の声をあげた。えっ、とイーマが見返すと、そこからどろりとした血がしたたりはじめた。

「お喋りなんだよ、てめえは。余計なことまで言うな、この死に損ないがッ」

 現れたのはニケットだった。

 イーマは目を剥いた。

(オデオンとニケットが双子?)

 また、自分は騙されていたのだろうか。

 もう涙も出なかった。

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