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第五章

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 時は一月ほど戻る。

 イーマたちが南下したバッハル街道よりはるか北西部の、ユネス王都ソテルの王宮の一室では、ギア・テンダーがある大貴族への取り次ぎを待ちかまえていた。

「けしからん」

 無論、場所柄をわきまえれば、大っぴらな不満を言うわけにはゆかない。が、イーマが出奔した後、バッハルから馬を駆け通しで三日間、とるものもとりあえず駆けつけたというのに、ギアがその部屋へ通されてから既に数時間が過ぎていた。もっとも、それは面会を求めた相手の身分を考えれば仕方のないことだったかもしれない。

 ユネスは自由な気風の国家だったが、北方の隣国ティエスの大貴族や王族と姻戚関係のある貴族たちは、とかく、形式を重んじる傾向がある。ギアが面会を求めたサヴァリス公爵もそのひとりで、すぐにギアに会える状態にあったとしても、わざと規定の時間は待たせるのである。

(フン。勿体つけおって)

 ギアは窓ごしに、重くたれこめた、ソテルの灰色の空を仰いだ。風が強いのだろう。王宮の中庭の木々の葉がそよいでいる。そこからユネス王都ソテルの全貌を見ることはできなかったが、ギアは数年前に一望したきりのソテルの優美な風景を思い描いて舌打ちした。

「この街は好かん」

 そのソテルの象徴である王宮も当然ながら優美をきわめる。ギアは気後れするようなタチではないが、この王宮を形づくるすべての柱、壁、置かれた家具、飾り物にいたるまでの徹底した華奢さに途方にくれていた。ギアのような無骨な男の目には、それらのものに手が少し触れただけでも、壊してしまうのではないかというふうに見えるのである。

 実際はそんなことは全くなかったのだが、ギアは自分のマントの裾を気にしながら歩かなければいけない王宮など近寄りたくもなかった。

(だが、イーマが逃げたとあっては)

 ギアは苦い顔をした。

「テンダー子爵様、こちらへおいでください」

 ようやく案内され、ギアは天井の高い、美しい廊下を歩く。突き当たりを曲がり、またしばらく歩き、ようやく辿り着いたところに、何重もの透かし彫りをほどこした、まことにソテル王宮のものらしい瀟洒な扉があらわれる。小姓が声をかけると衛兵らは槍をひいて、ギアを通した。

「お待たせしましたね」

 迎え出たのは、背の高い、品の良い男だった。

「サヴァリス公爵閣下におかれましても、ご機嫌うるわしくお見受けいたしまして恐悦至極でございます」

 ギアは丁寧に礼をし、挨拶の口上をのべはじめた。サヴァリス公はおだやかに頷いたが、ギアの挨拶にはあまり心動かされたようではなかった。公は優雅に椅子に座ると、机の上で細い指を組んだ。

「あなた程の男を使者に立てるのです。メンハペル伯から何事か重大な用件があったのでしょう」

 数時間もギアを待たせたことなど知らん顔で、サヴァリス公は言う。ギアは咳払いをした。

「お人払いをお願いします」

 サヴァリス公は扉のところに控えている小姓に目顔で頷いた。小姓がすみやかに消えると、ギアは会釈した。

「かたじけなく存じます。では申し上げますが、閣下はご記憶にございましょうか。三年前のフォルテ争乱のおり、北部小都市に幽閉されていました少年、イーマ・イクソン・メンハペルのことを」

 袖口のレースをひっぱりあげていたサヴァリス公は、繊細な動きをする指をとめた。

「……破壊王の子孫?」

「左様でございます。それが先日、バッハルにてフォルテ残党と思われる男に襲われ、あるじ、メンハペル伯イクソン庇護下を脱却しました」

「もう一度」

 サヴァリス公は静かに言った。ティエス王家の流れを汲む、ユネス現国王の従兄弟にあたる大貴族である。公自身はギアより大分年下だったが、その声音には人に命令し慣れた、ある種の威厳があった。ギアが同じ言葉を繰り返すと、サヴァリス公はわずかに身をのりだすようにした。

「イクソンが逃がしたのですか」

「滅相もございませぬ。みずから、出て行ったのです。我々は捕獲をこころみました。ですがおのれの命をたてにとり、手出しすることができず――」

「子供は今、どこに」

「境界線へ向かった模様でございます」

 サヴァリス公は立ち上がると、背後の書棚から地図を取り出した。それを机に広げる。

「バッハルから境界線。路程は」

 ギアは前屈みになりながら机の前へゆき、渡された羽しるしを地図に刺してゆく。その地図を見つめながら、公はいくつか質問をした。

「尾行は」

 勿論しているのだろうな、という言外の響きがある。ギアは内心、ユネス屈指の大貴族であるサヴァリス公の、イーマへのただならぬ興味の抱きように面くらいながらも、尋常にこたえた。

「監視を同行させております」

「記憶を取り戻した様子は」

「ございませぬ」

「よろしい。陛下には私からお知らせしましょう。メンハペル伯よりの書状は持参しておられますね。ご苦労」

 退出の合図だった。ギアは礼をして室を出た。後方で扉が重々しい音をたてて閉められる。ギアはもときた廊下を戻りながら、多少、興奮したように思った。

(なんとまあ、驚いたものだ)

(確かに三年前――王都の貴族たちはイーマにひとかたならぬ興味をいだいたようだったが……あのサヴァリス公がイーマを覚えていたばかりか、あそこまですみやかに反応するとはな!)

 イーマは三年前、フォルテに襲われ、生き残った子供だった。

 フォルテとは正式名を〈過激派神殿グループ・フォルテ〉と言い、もとはティエス私有神殿の一派にすぎなかった。

 それがティエス国内のみならず、朝の大陸ほぼ全域にわたって広がるようになったのは、フォルテが聖王位――聖王再臨者の輩出を目的とする妄執者集団だったからである。が、その奇跡の力を求めるあまり、攻撃的な手段に走ることが多かった。それで各国政府は、十年前、フォルテを神殿グループから除外し、解体命令をくだした。

 しかしフォルテは今なお存在する。極めて有力な神殿グループだったフォルテには、ありあまる人脈と財力があったのだ。フォルテは巨大な秘密結社のようになって、地下に潜伏するようになった。

 そのフォルテが、三年前、ユネス北部の小都市において、長い不気味なからだを揺り動かした事件があった。

(フォルテの目的はただひとつ……女王のメダルの獲得だ)

 そのためにフォルテが破壊王の子孫を狩るのは珍しくない。

(だが、あれは酷かった……)

 フォルテは家々に押し入り、破壊し、焼き払った。その町に逃げ込んだ、破壊王の子孫たちをあぶりだそうとしたのである。ギアにはフォルテがなぜ、突然、そのような凶行に走ったのかはわからない。だがフォルテは破壊王の子孫たちばかりでなく、その町の、五百余人もの住民をも惨殺した。

(あの土地の領主にはろくな騎士団がなかった。町の自警団はあったが、それは真っ先にフォルテに暗殺された。それで俺はイクソンの名代として一軍を率い、フォルテ討伐に参加したのだ)

 もっともフォルテは鳥合の衆でもある。ギアたちが町に駆けつけた時には、フォルテのなかの本当に狂暴な奴等というのはとっくにどこかへ逃走していて、残っていたのは、その首謀者に命じられて動いただけの、普段は全く普通の暮らしをしている人々ばかりだった。

 そうなってしまうとフォルテ討伐はごくすみやかに行われた。ギアの部隊の役目はもっぱら、破壊された町の修復と死人の埋葬、けが人の手当などにつきた。そして、半壊した、フォルテのアジトのひとつだったと思われる建物の瓦礫の下から助け出されたのが、十三歳になったばかりのイーマだった。

 ギアは今でもはっきり思い出すことができる。

 瓦礫の下には地下へ続く通路があり、その先からはすさまじい悪臭がただよってきた。案の定、奥にはいくつかの部屋があり、凄惨な仕打ちが加えられた死体がいくつも捨てられていた。

(地獄)

(もしそういうものがあるのなら、あれがまさにそれだった。戦さに出れば俺も人を斬るし、死人などいくらでも見てきた。しかしあれはそういうものとは違う……ただ苦しみを長引かせるためだけに痛めつけ、じわじわと殺してゆく……死への尊厳など微塵もない、ただ生命が肉塊になってゆく過程を愉しむだけに殺してゆくようなやり方……)

 その時点で生存者は五名いた。だがそのうちの四人は虫の息であり、手当などというものを受けつけられる状態ではなかった。幸い、イーマは他の者に比べて外傷が少なく――それにしても幼い体のあちこちには無惨な傷痕があったのだが――命をとりとめた。

 そのフォルテの犠牲者の、唯一の生存者である子供をどうするかとなった時、末子を亡くしたばかりだったメンハペル伯イクソンが養育を名乗り出た。

 ユネス王はそれを許した。もっともそれには条件があった。それがイーマの監視と、行動制限だった。また記憶を失った経緯を、本人には一切洩らさぬようにとも通達された。その上で、イーマが記憶を取り戻す気配があれば、ただちに王都へ伺候させよと命じられた。

(陛下は、イーマが本当に破壊王の子孫であるとお考えなのだろうか。まさかとは思うが……)

 が、当時の国王や貴族たちが、その可能性を少なからず念頭に置いていたのは明白だった。ギアは三年前の状況を忘れていなかったし、むしろそれだからこそ、アガン・ライフにイーマを見張るよう命じたのだ。

(これは――追われるな。必ず。俺は甘かった)

 ギアはアガンを出奔したイーマの監視役にしたことを後悔した。

 そもそも、メンハペル城へ引き取られた当時、なかなか人々に心を開かなかったイーマの友人役にアガンを選んだのはギア自身である。

 アガンはメンハペル城のほとんどの使用人と同様、イーマの過去を知らない。はじめの頃、アガンは、「なぜ自分があんな暗い奴の面倒を見なくちゃいけないのですか」とギアに噛みついたものだった。が、生来の世話好きもあって、「仕方ねえなあ」とぼやきつつもイーマの世話を焼くようになった。またイーマのほうもアガンによくなついた。ギアはそれを微笑ましく眺めたものだったが、イーマにアガンを近づけすぎたせいで、今度のようなことになってしまった。

 数日前、バッハルに立ち寄ったアガンに接触し、イーマをひそかに監視するように命じた時、アガンは猛烈に反発した。それが、イーマをフォルテから守るためでもあるのだ、という名分がなければ、アガンはけしてその役目を引き受けなかっただろう。そうやってようやく納得させたというのに、そこへ、王都からの追手がかかり、イーマを引き渡すよう強行に命じたとすれば――

(アガンは若い。その上、あの気性だ。万が一、間違いがあったら、あれの父親になんて詫びればいいのだ)

 ギアの心中は重くなった。

 王宮から出たギアは、肩をまわし、ソテルの灰色の空を見上げた。聞こえるともなく、風笛の音が聞こえてきた。

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