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第三章

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 しかし――

 イーマは言ったのだった。

「城へは戻らない」

 空が白みはじめていた。

 そこはバッハルのはずれの街道だった。結局、オデオンに会えなかったばかりか、オデオンはもうバッハルにはいないのだという事実をエルダから聞かされたイーマは、しばらくショックを受けたように黙り込んでいた。かれは真剣な表情でエルダに聞いた。

「オデオンは本当に僕を連れて境界線へ行けと言ったの?」

 朝日を背に受けたイーマの赤髪が炎の冠のようにきらめいている。境界線のクジュの少女はイーマの可憐な顔に見とれて、思わずぽかんと口を開けそうになったが、つとめてそっけなく答えた。

「うん。そこで待っているって」

「境界線のどこで」

「破壊王の墓のある町。ゴア・ポイントっていう場所」

「破壊王――」

 イーマは絶句したように押し黙り、それから頷いた。

「わかった。境界線へ行こう」

「契約成立ね」

「お、お待ちください、若さま」

 慌てたのは騎士たちだった。

「どうされたのです。さ、いっしょに城へ戻りましょう」

「断ります」

 静かに言うと、イーマは突然、傍らに立っていた兵士の剣を抜き取って、それをおのれの首にあてた。今度こそ騎士たちは呆気にとられた。騎士たちに密告し、結果としてイーマとアガンの命の恩人となったマナシュも、かくんと口を開けた。彼らは誰ひとりとして、鉢植えの花のように大人しいはずのイーマがこのような場所でそのような反抗をするとは思いもしなかったのである。

「イーマ」

 報せをうけたメンハペル伯爵イクソンが、手勢を連れて駆けつけてきた。イーマを囲んでいた騎士たちはほっとしたように顔を見合わせ、イーマはわずかに後ずさる。

「無事か。大事ないか――な、何をしておる。何だ、その剣は」

 馬から飛び降りたメンハペル伯は、イーマに駆け寄ろうとして叫んだ。

「来ないで下さい」

 イーマは鋭い声をあげた。メンハペル伯は度肝を抜かれたようにイーマを見、それからあたりの者に問いかける視線を投げかけた。騎士たちから事情を聞いた側近が、伯の耳もとで何事かを囁くと、メンハペル伯はあらためてイーマを見つめた。

 それは、イーマを責めるものはひとつもない、むしろ体調のすぐれなかったイーマが思ったより元気そうなのを知って、心から安堵する表情だった。

「イーマ……わしと戻ろう……戻ってくれないか」

「父上」

 イーマは養父を真っ直ぐに見つめながら、迷いを振りきるように呟いた。

「僕はバッハルから出たいのです」

「イーマ、何を言って――」

「近寄らないで。お願いです、どうか聞いてください」

 首に剣を押しあてたまま、おしかぶせるようにイーマは叫んだ。

「僕は、僕の過去を知るという者に襲われました。ニケットは――僕を襲った男は、僕が破壊王の子孫であると言いました。二ヶ月前にあらわれた男も同じことを言いました。父上、教えてください。僕はいったい誰なのですか。僕にはなぜ三年より以前の記憶がないのですか、なぜバッハルに……メンハペルの城にいるのですか……」

 イーマは指が白くなるほど強くつかんだ剣の柄を握りなおした。細い咽喉もとに刃先が触れて、血がうっすら滲むのにも気付かない。かれは震える声を張り上げた。

「勿論、どこの誰ともわからぬ僕を引き取って育ててくれたあなたとご家族には心より感謝しております。けれど、僕にだって自分が誰であるのかを知る権利はあるはずです。どうか……どうかこの我侭をお許しください」

 メンハペル伯はイーマの言葉が理解できぬ、といった顔をした。

「お前がどこに行くというのだ。お前の帰る場所はメンハペルの城しかないのだぞ。剣を置け――おお、なんということだ、血が出ている。頼むからその血を止めてくれ。お前は体が弱い、また倒れたらどうするつもりだ」

 イーマは微笑みながら首を横に振った。

「父上。僕は大丈夫です。どうか行かせてください。そうでないと……」

「――自害するか」

「はい」

「まことか」

「はい」

「もう……決めたのか」

 重い、しぼり出すような声でメンハペル伯は聞いた。イーマはゆっくり頷いた。メンハペル伯は信じ難いものを見る目でイーマをなおも見つめていたが、やがてもぎはなすようにして視線をはずした。

「どこへ行くのだ。聞いてもいいのなら」

 それでも伯の声はやさしかった。イーマは養父への愛情がこみあげてくるのを感じた。

「境界線です。そこで僕の過去を知る人が僕を待っています」

「遠いな。お前がそんな旅に耐えられるのか。一晩なりとも話し合えぬか。今まで話さなかったことも打ち明けよう。その上で、もし考え直してくれるのなら、私はそれを歓迎したい」

「もう決めたのです。僕を襲ったニケットは能力種なのです。彼にとってはメンハペル城の守りはないに等しい。彼の生死はわかりませんが、万が一、生きていたら……」

「我が居城にいるわけにはゆかぬ、と」

「お許し下さい」

「わかった。行くがよい」

「え……」

 イーマは怯えたように顔をあげた。

「行けと言っておるのだ。何度も言わせるな」

 メンハペル伯は突き放すように言う。が、むしろホッとしたようでもあった。まるでここでイーマを引き止めることに成功してしまえば、伯は、伯の意思とは関係なしにイーマを拘束しなければならず、また違う誰かにイーマを引き渡さなければならない、だからできることなら逃げてくれ――メンハペル伯のどこかほっとした顔は、そのようなことを告げているようでもあった。伯は痩せたおもてを和ませた。

「それがお前の決めたことならば、行って、真実とやらを確かめればいい。しかしここへ戻って来ることは二度と許さぬ。絶対に戻ってくるな。お前のためだ。体に気をつけろ。元気でな」

「父上……」

 それが養父の精一杯のたむけであることをイーマは知った。

「乱心だな」

 騎士たちの間から現れたのは、ギア・テンダー子爵だった。メンハペル伯の乳兄弟であり、腹心でもあるギアは、ずんぐりした格幅のよい男である。メンハペル領北部ダーラルランドの豪族であり、付近一帯の豪族をたばねる勇猛な武将でもあった。ギアは少し見直したようにイーマを見ると、大儀そうに腰を折った。

「これは若さま、お久しぶりでございます。しかし見かけによらず、とんだ乱心者でしたな。自らの命を盾にとって逃亡とは。だがそうされては我々は手出しはできん」

「テンダー卿……」

 イーマは驚いた。まさかこの豪傑がすんなり自分を見逃してくれるとは思っていなかったのだ。ギアは眉毛の太い、男らしい顔をニヤッとさせた。

「退却」

 メンハペル伯が馬に乗り、振り切るように号令した。伯は最後の一瞥をイーマにくれると、二度と振り返らなかった。騎士らはざわめきながら、それでも、隊列をくみなおして伯の後へ続く。残されたのはイーマとエルダ、そしてアガンだった。

 アガンは呆気にとられてなりゆきを見守っていたが、我に返って、

「おい、イーマ、俺もつれてゆけ」

 と叫ぶ。イーマは泣き笑いのような顔になった。

「ばかだな。僕についてきたら出奔だよ」

「バカはそっちだ。ひとりじゃ何にもできないくせに。つきあってやるよ。それに、それにだ。さっきみたいなモン見せられたら、ますます放っておけるか。能力種! うう、おぞましい奴等だ。こっちはか弱い普通の人間だが、せいぜいお前を守ってやる。有り難く思え」

 少し怒ったように、はにかむように、アガンは言い捨てた。





「子供たちは行ったようだな」

 バッハル街道からメンハペル城の見える丘まで戻ってきた時、メンハペル伯爵はギア・テンダーの傍らに馬を寄せた。ギアは街道の向こうを振り返って、主君を気遣うように言った。

「もう姿は見えません。後悔しておいでなので?」

「いや」

 メンハペル伯は吐息をついた。それから少し離れて着いてくる騎士たちにはばかるよう声を低くした。

「あれでいいと思う。いつまでもイーマを手元に置いておけるわけではないのは私が一番よく知っていた。だからいつかこんな日が来るとは思っていたさ。だがそれがあまりにも急で驚いたのだ。それよりよくあれを逃がしてくれたな、ギア。私に逆らっても連れ戻すかと思ったぞ」

「まさか」

 ギアは筋肉質の、丸い肩をすぼめた。

「私は三年前、あの惨状に居合わせた一人ですぞ。私も人並の情けくらい持ち合わせております。しかし王都へはこのことを報告せねばなりますまい」

 メンハペル伯は柔和な顔を曇らせた。

「できればこのまま逃げ切って欲しいが」

「ちょうどアガンが残りました。当座はアガンにイーマを監視させましょう」

「ギア」

「仕方がありません。アガンが残らなかったら、他の誰かを接触させたでしょう。王都がいまだにあの子供を重要視しているか、現実に追手を差し向けるかどうかはわかりません。しかし、王都に対してそれくらの誠意は見せておかなければ、この先、メンハペル家が窮地に立たされます。何しろ、かれは破壊王の――」

「言うな。そんな話は信じておらん」

「実は私もです」

 ギアがすまして言うと、メンハペル伯は苦笑した。

「わかった、任せよう。影ながら守ってやってくれ。イーマを城から連れ出したくせ者がいたということは事実だからな」

 思い出したようにちいさく笑う。

「しかし先程は驚いた。激昂したイーマか。実に珍しいものを見てしまった。せめてもう少し保護してやりたかったが……――神よ、あの不幸な少年に、パラルダ神の加護を与えたまえ」

 メンハペル伯は口のなかで唱えると、瞼を閉じた。すると眼窩が落ちくぼんで、彼は十歳も老けてしまったように見えたのだった。

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