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第二章

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 イーマは走っていた。

 逃走の途中から北から冷たい空気が流れはじめ、この国では不吉とされる春の北風になったのだとわかったが、そんなことにかまっている場合ではなかった。かれは走り続けた。

(ハア、ハア……ハア――)

 息があがっていたが、足をゆるめることはできない。そんなことをすればたちまち追手に追いつかれてしまう。いや、イーマの太鼓のように打ちつけるかれの心臓の音を聞きつけたニケットが、いつ付近の木立ちから飛び出してくるかもしれないのだ。

(苦しいよ……)

 道はとっくに失われていて、どこをどう走っているのかも定かでなかった。イーマの強ばった顔に冷たく強い風がぶつかる。背中から、脇の下から汗が噴き出し、腕や太股を振り上げるたびに、それらは次第に鉛をつけたように重くなり、やがて関節がきしむような音をあげた。寝込んだところを襲われたので夜着のままである。薄い夜着はほてった体から体温を奪いとり、裸足で駆けてきた足裏も傷ついている。

 そうしながら、イーマはもともと調子のよくなかった体調が悪化するのを感じていた。発作の前触れのような悪寒がする。

(ニケット……片目の――ニケット……!)

 かれはガチガチと歯をあわせた。

(あれは敵だ、あの男は怖い奴だ……)

 イーマはどうにも苦しくなって、早歩きのようになりながら、大きな目を精一杯見開いてあたりを見た。

(逃げなくちゃ……でも――ここはどこだろう)

 視界いっぱいに続くなだらかな丘は、見覚えがありそうで実は全く見分けがつかない。それもそのはずでイーマはメンハペル城に引き取られてから三年の間、馬車以外の乗り物で外出したことがないのである。その驚くべき事実に今更ながらに打ちのめされ、イーマは泣き笑いのような顔をした。

(そうか。これがバッハル地方なんだ)

 丘には膝丈ほどの枯れ草や、踏むと嫌な匂いを発する草、冬をこして白っぽく乾燥した低木や木立ちがあった。誰にも見張られていない自由な時間と空間がある。それがこんな形でやってこようとは夢にも思わなかった。イーマは恐怖で動転する気持ちと、嬉しくてほっとする気持ちで、心がおかしくなりそうだった。

(子供ガ、イルヨ)

(ヤワラカナ雛鳥ダ。オ家ヘオ帰リ、サア、オユキ)

 からかうような草木の囁きが、冷たい風にのって流れてくる。イーマはここがどこであるのか彼らに聞かなかった。草木はそんなことは知らないのだ。イーマは草木の思念を振り払うと、懸命に考えた。

(時間は……もう随分こうして歩いているけど、逃げ出してからどれくらいの時間が経ったのだろう)

 ニケットの荷馬車からすべり落ちた時、あたりは明るかった。そして今は日が落ちてしまっていたけれども、空にはまだ残光がある。

(少なくとも数時間は経っているはずだ。だったら城の人達は僕の不在に気付いてくれているだろう。彼らがもしすぐに僕を探しはじめてくれていれば――……いや、でも今日、僕は早めに休んでいたから……)

 発見は遅くなるかもしれない。

 無論、捜索の手はいずれは来るだろう。だが、バッハルのどこともわからぬ丘にたたずむイーマを、今すぐにメンハペル城の人々が見つけるのは至難の業に思われた。

 一方、ニケットのほうは人々よりずっとイーマに近い場所にいて、こうしている間にも忍び寄ってきているのかも知れないのだ。

(……)

 イーマは冷たい水が腹に落ち込むような恐怖を感じながら、唇を引き結んだ。
 それから傍らの低木の斜めになって倒れている枝をへし折った。小枝をはらって、ブンと宙に振る。そんなものがイーマを襲った恐ろしい男にたいして武器となるとはあまり思えなかったが、ないよりはましだろう。

(行かなくちゃ)

 イーマは立ち上がると、熱っぽくなってきた体をひきずるようにして歩きはじめた。

 ひとつの丘をのぼりきると、下り坂になり、また次の丘が続いている。

 強風はいっそう強まり、イーマの夜着をばたばたさせた。イーマは凍えた体を両腕でこすりながら、目を凝らした。どんどん暗さを増す空を仰ぎ、それからその下の単調な景色を見分けようとする。

「あ……」

 イーマはふと目をとめた。

 左遠方に、小山の頂きがかさなりあって、ちょうど乳房のようなシルエットをつくり出している部分があった。イーマはなんとなく胸のあたりがむずむずする気分にかられて顔をしかめたが、やがてその顔に、狂おしい希望がひろがりはじめた。

「もしかしてあれは――この眺めは……バッハル神殿から見たことがあるかもしれない」
 狂喜の声をあげた。

 果てしなく続くように思われた丘のひとつの頂きに行き着いたところで展望がひらけ、街の灯があらわれたのだ。イーマは息を吹き返した。バッハルだった。ユネスで五指にはいる大都市の灯を間違えるはずはない。かれはころがるように突進した。

「助かったッ……」

 街の灯をすっかり見おろせる場所まで戻ってくると、イーマは立ち止まった。あたりはもうほとんど暗くなってしまっている。だがバッハルの灯はイーマの希望そのものであるように、いよいよ力強くまたたいていた。イーマは涙ぐみ、丘をくだろうとした。

 しかし、かれは足を止めた。自分のものではない、地面の小枝を踏む音を聞きわけたのだ。イーマは気配の主を探して、ゆっくりと上半身をよじる。

 人影があった。

 背後からぼうっと浮かびあがった人物、うすい笑みをうかべて立っていたのは、勿論、先程、イーマを拐かした隻眼の男だった。

 瞬間、イーマの体中の血が逆流した。

「ア……」

 イーマはわなないた。信じられないものを見るような目つきでニケットを見、呻くように言った。

「そんな――いつの間に……」

「愉快なガキだなあ」

 するとニケットはおだやかといってよい口調で言った。

「馬車から勝手に落ちるなんて、危ないじゃないか」

 ニケットは口をくちゃくちゃ動かし、両腕をだらりとさせて、やや前屈みのように立っていた。いでたちはごく普通の農夫のようで、変わったところはない。ただ腰にさげられた特大の道具袋からは少々、物騒なものが――押し込まれた鞭やら鎌のようなものがのぞいている。そしてその手に握られているのは、地面に突き立てるようにして置かれた、巨大な、ぎらっと光る斧だった。

「遊びは終わりだって言っただろう」

 ニケットは仕方なさそうに呟く。

 そうして見ると、ニケットは意外に小柄だった。先程、イーマは恐怖のあまり気付かなかったが、ニケットの身長はイーマの肩ほどまでしかなく、背の高い子供といっても通じるだろう。しかし顔つきだけは大人で、歪められた表情にきざまれた皺の深さが、それなりの年齢をかさねてきたことを物語っている。イーマはびくっとなった。

(あ……)

 ニケットがかれにむけた目――濁った、非常に強いある力を感じさせる冷たい目の中にあるものを、イーマははっきりと悟ったのだ。

(この人は僕を憎んでいる)

 それは少しの遠慮も容赦もない憎悪だった。

(でも、なぜ――)

 イーマは震える手で低木の枝をかまえた。

「お前は誰だ……どうしてこんな真似を――僕をどうするつもりだ」

 ニケットはおどけたように肩をすくめた。

「なんだなんだ、やっとさっき、俺のこと思い出してくれたんじゃないのか? ひどいな」

「お、お前なんか知らない」

「つれないなあ。三年ぶりの再会だっていうのに。その赤い髪、赤い目、様子はかなり変わったが、見間違えようがないってものさ、別嬪さん。俺はお前に会いたくて仕方がなかったぞ、小僧。あの時、もっともっと酷くしてやろうと考えているうちに殺しそこねたお前のことだけが心残りでなあ」

 ニケットは大斧の刃の背に足をかけて、ブーツの裏側にこびりついた泥をこすり落しはじめた。

「あのなあ、そんな木っ端でなにするつもりなんだよ。健気すぎて、おいら、涙が出てくるよ。でもよ、なんだかむしょうに嬉しくなるね。かわいい顔をひきつらせて、白いおててに棒っきれなんか握りしめてよ。うんと酷い殺しかたをしてやりたくなるじゃないか。それがあの男の子供となればなおさらだ。俺はさんざんこれまでお前の仲間をいたぶり殺してきたがな、お前みたいなやわらかそうな奴が特に大嫌いなんだよ、なあ」

 と言ってイーマを見る。

 向けられた悪意の烈しさにイーマは硬直した。この三年間というもの、侍女たちに壊れ物のように扱われ、またメンハペル伯爵夫妻のこまやかな愛情を受けることに慣れきっていたイーマである。かれにはニケットがかれに向けたような悪意がこの世に存在するということさえ想像できなかった。ニケットは足の動きを止めると、舌打ちした。

「面倒くさい奴だ」

 イーマのほうへ一歩を踏みだそうとする。

「ぼ、僕に近づくなッ」

 イーマは勇気をかき集めて叫んだ。それから退路をもとめて目線を弱々しくさまよわせる。が、夕闇につつまれた丘は暗く、人の気配もない。ニケットをふりきって逃げるにはバッハルは遠すぎるし、誰かに助けを求めるにせよ、こんな時間と場所ではそれも困難だ。

「まるで怒って背中の毛をふーふーたてる子猫だ」

 ニケットは嘲弄した。

 刹那、イーマは心臓が止まるかと思った。ニケットの手が、唐突に、すさまじい力でもって、イーマの首を押さえつけていたのである。抵抗する間もなかった。イーマの目にはニケットが一瞬消えて、現れたようにしか見えなかった。

「ま、魔道師?」

 イーマが仰天すると、ニケットはちょっと気を悪くしたように顔を歪めた。

「冗談じゃない。俺はまだ人間だ、あんな非人間の、化け物どもといっしょにしてもらいたくない。だが――どうするつもりか、だって? 教えてやるよ。三年前の続きをするのさ」

「三年前……」

「女王のメダルの在処は思い出したか。破壊王の子孫さんよ」

 イーマは目を剥く。

「破壊王?」

「見ろッ」

 ニケットは醜い頬の傷をイーマに突きつけた。

「お前の親父、赤髪のジャクソンがつけた傷だよ。あいつは俺の目をつぶしやがった。いいか、よっく聞け、小僧。貴様は破壊王の血統なんだよ。お前の親父は俺がぶっ殺した。だがそいつを嘆くことはない。俺がやらなくたって、いつか必ず、お前らみたいな連中は殺されることになってんだ。知ってるぞ、今は、イーマ・イクソンと名乗っているそうだな。ハッ、ふざけた名前だ。お前は利用されてるのさ。この国のいろんなヤツがお前の秘密を知ろうとして、お前を騙している。お前が頼りきっているメンハペルの殿様だって同じだ。だが俺は正直者だからはっきり言う。貴様の先祖の大悪党、破壊王が隠したっていう女王のメダルはどこにある? 知ってんだろう」

「し、知らない」

 イーマは首を必死に横に振る。

 するとニケットは牙のような前歯を剥きだし、イーマの腕をねじりあげた。イーマが握りしめていた枝は簡単に奪われて、茂みに放られた。髪をつかんで頭をあげさせられたイーマの咽喉もとに、大斧の刃が突きつけられる。

「ウ、ウ」

「言え。忘れたのか? だったら別の場所に連れていって、ゆっくり聞き出すまでだ。あん時はお前も子供だったからな、あれでも遠慮してやってたんだぜ? だが今ならもっと酷いこともしてやれると思うぞ」

 ニケットは凄絶な笑みを浮かべた。イーマは失神しそうになりながら、それでもここで気絶することだけは絶対に許されない、という危機感に支えられ、どうにか正気を保っていた。が、その張りつめた糸がついにはじけた。

「イヤだ、助けてッ!」

 イーマは頭を振りながら、ニケットを押しのけようとした。すると、ニケットはわざとのようにイーマの縛めをゆるめた。無我夢中のイーマはそれには気付かず、駆け出そうとする。その時だった。

「一級罪人、ニケットだな」

 背後から鋭い声がかかった。

「牢獄へ戻れ。そうすれば命まではとらぬ」

 その驚くべき光景にイーマは目を見張った。あたりの闇のある部分の濃度がぐっと濃くなったかと思うと、次々に、人の形をとりはじめたのである。ニケットは忌々しげに唾を吐き出すと、トンボをきって暗闇に溶けた。影たちもニケットを追うように姿を消す。そうなってしまうと、もうイーマの目には黒い夜空に火花のようなものがチカチカ光っているようにしか見えなかった。

(これは)

 イーマは目をこすった。

(まさか能力種同士の戦い?)

 イーマは青ざめ、立ち尽くしていた。そんなものをかれの人生のうちでかいま見る機会があろうとは夢にも思わなかったのだ。と同時に、ニケットの脅威が遠ざかった安堵感が押しよせてきた。

(助かった……)

 だが安心するのは早かった。割れるような頭痛がし、地面と空が反転した。ひどい吐き気がこみ上げてくる。発作の前触れだった。

(ウッ)

 イーマは地面によろめき倒れたまま、身を起こそうとした。が、全身の血液が足に抜けてゆく感覚がするばかりで、まともに立ち上がることもできない。しかも指先から体の中心にかけて震えてきた。震えは次第に大きくなり、痙攣のようになる。

(駄目だ、ここで気を失ったら……――)

 しかしいったんはじまってしまった体の震えはどうにもできない。イーマは咄嗟に自分の腕を噛んだ。だがそうしているのもはじめのうちだけで、やがてかれは甲高いいくつもの悲鳴を遠くに聞いた。それが自分のあげたものだったと気付いた時、かれは恐怖と混濁のなかで意識を失っていた。

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