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プロローグ
しおりを挟む境界線。
オデオンはそこにいた。灰色のマントをまとった大柄の身体は先程から横殴りの雨に叩きつけられている。水気を含んで重くなったマントが、強風にあおられてばたばたとはね上がる。マントの内側の衣服もブーツの中も水浸しだった。逞しい肩にひっかけられた、旅に必要な品がつめこまれているのにちがいない小袋も、茶色の水滴をしたたらせている。
しかしオデオンは動かない。全身濡れそぼり、雨にたたきつけられ、風に吹かれながらも、その両眼からは異様に強い光が放たれている。
(ついに――)
彼は豪雨でけむるあたりを睨みつけた。
(ついに来たか)
オデオンは風雨で顔の上部にはりついたごわついた髪をかきあげた。するとがっしりとした輪郭の、中年の男盛りを迎えたばかりのなかなか渋い面構えがあらわれた。無精髭が黒い頭髪とまざりあい、鬣のようになっている。
「境界線。やはりここだったか」
彼はこみあがる興奮を押さえつけるように呟いた。
境界線。
〈朝の大陸〉と〈夜の大陸〉の狭間、境界線と呼ばれる大渓谷。
奇岩の群、えぐられた大地、深く落ち込んだ崖。
そのいかなる妥協も生命も寄せつけぬ、峻厳なたたずまいは困難な旅の終着地にふさわしかった。オデオンはかつて彼の主君とともにこの地を訪れた時に見たのと同じような、はるか過去において失われた文明の遺物――奇妙な道具や装置類といったものが打ち捨てられるままになっているのを見、ふっと目元をやらわげた。が、その顔はすぐに険しいものへ戻る。
降雨が珍しいのだろう。
村の子供たちが戯れ唄をうたいながら、駆けまわっていた。大人達は貴重な雨水を蓄えようと、家中の鍋や壷を持ち出してさらすのに忙しい。大地を覆う、非常に細かな赤砂は、水気を含んで粘土のようになっている。大粒の雨の重みをうけた針金のような低木がうなだれる。あたりには埃の臭いと、膿んだような興奮が沈澱していた。
オデオンは息をつくと、眼前の渓谷から視線をもぎはなし、村で一軒しかない宿屋へ向かった。オデオンがぬかるんだ小路へ入ってゆくと、粗末な家々の影から村人たちが値踏みするような目を向けてきた。
境界線へ出入りする余所者は多い。鉱脈荒らしの冒険者や巡礼者、両大陸を渡り歩く飛脚や行商人など、一年を通して、もともとの住民の何十倍もの余所者が行き来する。そしてそうした余所者をたつきのかてにしているこの村の人々のような者の目にかかれば、たった今、境界線に到着したばかりのオデオンに専任のガイドがついていないこと、オデオンの埃だらけのマントがもとはなかなかの品であったことなどがお見通しなのだ。
(騎士だよ)
(へえ。こんなところに供も連れずにね……見ろよ、あの剣――)
オデオンのマントの内側から見え隠れする大剣は、彼の主君であったユネス王から下賜されたものだった。またその立ち居振る舞いなどからも、たとえ身をやつしていようと、オデオンがもとは相当に地位ある騎士であったことがうかがえる。金の臭いを嗅ぎつけた若者が早速、近づいてきた。
「旦那、ガイドはいかがですかい」
オデオンが首を横に振ると、「でもこのあたりは物騒で道も複雑ですよ」とへりくだった笑みを向ける。
「ああ、わかってる。有り難う」
オデオンは若者を追い払って、苦笑した。
(変わらんな、ここは。雑多な場所だ。色々な人種が集まり、通りすぎ、人種の坩堝であると同時に歴代聖王の墓所、そして文明の墓場でもある。古代文明――はかりしれないほど過去の文明の遺物が埋まる土地)
オデオンは首を上に向け、たたきつける雨を顔面に感じた。
(この谷の、この境界線の〈破壊王の墓〉にすべての謎が隠されている)
(三年前の赤髪の男。赤髪のジャクソンと呼ばれ、彼らの仇敵であり追手でもあったフォルテにさえ恐れられていた豪傑。破壊王の直系の子孫であったかもしれぬあの男の言葉をたよりに――)
赤髪のジャクソンは囚人だった。
三年前、〈朝の大陸〉西国ユネスの騎士であったオデオンがフォルテのアジトに踏み込んだ時、ジャクソンは既に目が見えず、声も潰れ、吐息のような喘ぎを発するばかりだった。フォルテによってすさまじい拷問を受けたに違いないそのジャクソンが、助け起こしたオデオンの首をつかみとるようにして囁いた。
「メダリオンの真実を知りたければ、破壊王の墓へ行けよ」
「何を言う」
「とぼけるな。知りたいんだろう、あんたらも。下衆のフォルテどもばかりじゃなく、お偉い騎士さまだって、女王のメダルが欲しいんだろう。破壊王のお宝が欲しいんだろう――だったら倅を破壊王の墓へ連れてゆけ。道はあいつが知っている……」
ジャクソンは不敵な笑みを浮かべ、こときれた。
今際のきわの言葉である。
そしてジャクソンの素性を考えればあまりにも重大な言葉だった。しかしオデオンは、その言葉を自分の胸のみに刻みつけた。
無論、オデオンのユネス王への忠誠は絶対であるし、謀反を起こす気など毛頭なかった。けれどもその言葉をそのまま王に伝えれば、その言葉が真実であろうとなかろうと、国を混乱に陥れ、悪くすれば他国をも巻き込んだ争乱をひきおこしかねない。それは、そういう類の言葉だった。
(それにあの男、ジャクソンの行動も奇妙だった)
オデオンは追憶する。
報告によれば、ジャクソンは船を手配しており、いつでもその港から出立できたはずだった。なのに、フォルテに捕縛される危険を承知でユネス北部の港町に留まり続けた。
(その頃、ちょうど魔の海流と呼ばれる、あの地方の特別な潮流があったから、それを避けていたのかもしれんが……)
魔の海流は数百年に一度、十年の間だけ、晩夏の限られた季節にやってくる。強風が吹き、潮が引き、海の色が薄くなり、海面がいっせいに粟立つ時があるという。土地の漁師らはその季節、船を陸にあげて固定してしまうし、人々も悪風のわざとして忌み嫌う。
(だがそれならば、なぜジャクソンは、もっと早い段階に船を出さなかったのか。船の契約は潮流がはじまる大分前からされていたというのに)
オデオンの瞼の裏には、今もなお、ジャクソンの壮烈な最期が焼きついている。それは惨めではあったけれども、誇り高い戦士の死にざまだった。オデオンはそれを思い返す時、背筋が伸びる思いがする。
ジャクソンは他の赤髪の人々がそうであるように追われていた。追跡は際限がなく、おそらくジャクソンの生涯とはそうやって追われ続けることであったに違いない。ジャクソンの奇妙な行動は逃げることに疲れゆえの自棄のようにも感じられたが、言葉をかわしたオデオンにはわかる。けして自殺などを考える類の男ではなかった。
(破壊王の子孫)
オデオンはジャクソンの素性と目的を確かめるため、ユネス王に暇を願い出、単身、その逃走の足跡を遡った。そして三年後、ついに境界線へ辿り着いた。
気配がし、宿屋の木戸に手をかけようとしたオデオンの動きが止まった。オデオンはゆっくり振り返る。その目が慎重そうに細められ、ますます勢いよくたたきつける雨のなかに浮かび上がる影をとらえた。
「能力種協会の者だな。何の用だ」
「……貴様の弟ニケットが逃走した」
相手はうっそりと呟いた。
「なんだと」
オデオンは鋭く顔をあげた。影は不気味に揺れる。
「手引きした者がいる。牢獄の番人二人が殺され、三人が手傷を負った。答えろ、ニケットの逃亡先に見当はあるか」
「ない」
「よかろう。では貴様の前に現れたら即刻、公安班へ知らせよ」
影はあらわれた時と同様の唐突さでもって消えた。その様子を見ていた者がいたとしたら仰天しただろう。オデオンと会話をした相手は空中から煙りのようにあらわれ、消えたのだ。しかしオデオンはそんなことには頓着せず、両眼を燃え上がらせた。
「ニケットだと。あいつが戻ってきたのか」
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