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正気を失っていた婚約者
15 あのかぐわしい香りの正体は
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事態がある程度収束して数日、私達三人は溜まりに溜まった執務をまるで自動人形か何かのようにこなしていた。
というか、メルヴィーは仕事が早く、指示も的確なので、辞典か何かのようだった書類の束がみるみる減っていくのを私とカステオは驚嘆と共に見守っているだけのことの方が多かった。
私達がしていた事といえば、振られた仕事をこなしつつ、放っておくと寝食を忘れそうになる彼女を定期的に机から引きはがしていた位だ。
おかげで、他の事を考えている暇も無く、連絡が途絶えたビータの事や、カーヴァン侯爵領の事もまるで遠い日の出来事のように感じていた。
気付けば気候が変化し、春から夏に差し掛かってきて汗で紙が手に張り付いたりすることに不快感を感じるようになってきたある晴れた日。
「終わった……!」
メルヴィーが呟きながらペンを置いた瞬間、ファンファーレでも鳴らして祝いたいくらいに感動した。いくらなんでもそこまではしゃぐことはないが、それぐらいの気持ちだった。
カステオと顔を見合わせて噛み締めていると、メルヴィーが突然立ち上がったので驚いてそちらを見る。
「食堂へ移動しましょう!」
「あ、あぁ」
「はい」
確かに昼食の時間はもうすぐだが、ここまで気合が入ったメルヴィーを見たことは無かったのでちょっと引いてしまった。
不気味な程上機嫌のメルヴィーに先導されて食堂へ移動すると、嗅いだことが無い匂いが充満していた。何の匂いだろうか、とても食欲を刺激してくる。
いつものテーブルを見ると、既に呼ばれていたらしくダルトンとジギタリスが我々の分の食事も食卓に並べてくれていた所だった。
いつもなら各自でする所を忙しい我々の為に気を使ってくれていたらしい。
「これは、何だ?」
テーブルには白い穀物の小山が盛られたお皿がドンと置かれていた。赤いピクルスのようなものがちょこんと添えられている。そしてすぐ傍には茶色い粘り気の強そうなスープが入った器。匂いの原因はこれらしい。禍々しいオーラを感じる混沌とした色合いだ。まさかこれを食べるのか。
「これはカレーライスという食べ物です。こうして食べるのよ」
といってメルヴィーはおもむろにスープを穀物の皿にドバっとかけ、スプーンでスープと穀物を掬い上げて口に放り込んだ。
「んー!! これよ! ようやく再現できたわ!!」
公爵令嬢らしからぬ崩れ切った笑みで味わう彼女に、正直大丈夫かと問いたい。
今までこんなにテンションの高い彼女を見たことが無かった。執務疲れでちょっとおかしくなってしまったのではないか。
見回せばメルヴィー以外全員似たような顔をして手をつけようとしない。
だが、一人美味しそうに食べるメルヴィーの手前食べない訳にもいかなそうだとチラチラとスープの様子を伺っている。
「騙されたと思って食べてみて、本当に美味しいんだから」
そう勧めるメルヴィーに渋々といった様子でジギタリスがスープだけをまず口に入れた。まるで毒を飲まされているかのような顔をしていたのに、みるみる顔を輝かせたかと思うと、先程のメルヴィーと同じように穀物の山にスープをかけて食べ始め、そこからは夢中で口に運び続けた。
いつもならば最低限のテーブルマナーは守っていた筈の彼女が、まるで幼児のように口いっぱいに頬張っている。
それを見たダルトンが、負けてられるかとばかりにスープを器を逆さにする程勢いよく振りかけて食べ始めた。こちらも、最初は汚物を眼にするような顔をしていたというのに今は夢中だ。というか三人の中で一番食べ方が汚い。お前一応貴族だっただろうにとげんなりする食べ方だ。
そして、とうとうメルヴィーの視線は私の方へ向いたので、とりあえず穀物を掬ったスプーンを、少しだけスープに浸して口へ運ぶ。
するとどうだろう、口いっぱいに複雑に絡み合ったスパイスの香りが広がり、今までに味わったことのない重厚な旨味に私の魂まで震えるかのようだった。これを表現する言葉はこれしかないという他ない。
「うまい……!!」
「そうでしょうそうでしょう。カーヴァン侯爵領であのスパイスが手に入ると知った時は打ち震えたものです。それなのにあのぼんくら領主ども……」
食事は旨いが、いつもとテンションが全く違うメルヴィーが怖い。
皆一様に視線を逸らし、卓上の食事に集中した。
添えられていたピクルスも味わったことが無い味付けで、少し甘いのがこのカレーライスという食べ物に物凄くマッチしている。
気づけば私もスープを穀物に振りかけてバクバク食べていた。
スープがカレー、白い穀物がライス、赤いピクルスがフクジンヅケというものらしい。
私達はひたすら食事を摂り続け、結局全員がおかわりまでしたので、人が入れそうな程大きな大鍋一杯だったカレースープを空っぽにした。私も限界まで食べたので苦しいが、それでもまだ食べたいという状態だ。
二日目まで置いた方が旨味が増すので多めに作らせたのにと後に悔しがるメルヴィーの姿があったとかなかったとか。
後でジギタリスから聞いたところによると、カレーに不可欠なスパイスがカーヴァン侯爵領で手に入る事は以前から判明してはいたが、侯爵は自領民の亡命先であるマグゼラ領との流通を一切禁止していたらしい。尤もらしく理由を付けていたがぶっちゃけ若く美人で名領主として名高いメルヴィーへの夫人の私怨が大きいだろうというのが彼女の予想だった。
さすがにスパイスの為に父親を頼るわけにもいかずメルヴィーは歯噛みしていたとか。
それが、今回の件で流通が正常化されて手に入ったので数日前から料理人に指示をして試行錯誤をさせ、ようやく今日お披露目と相成ったとのことだ。
もしかしたらあの問題解決への情熱の原動力はこれだったのではと疑念が残った出来事だった。
後日また食べたいという声がそこかしこから上がったが、材料のほとんどが海外からの輸入品で、滅多に食べられないと拗ねた顔で告げられ、もっと丁寧に味わえば良かったと悔しがる面々がいた。私も含めて。
それから、カレーライスは祝い事の定番となった。
というか、メルヴィーは仕事が早く、指示も的確なので、辞典か何かのようだった書類の束がみるみる減っていくのを私とカステオは驚嘆と共に見守っているだけのことの方が多かった。
私達がしていた事といえば、振られた仕事をこなしつつ、放っておくと寝食を忘れそうになる彼女を定期的に机から引きはがしていた位だ。
おかげで、他の事を考えている暇も無く、連絡が途絶えたビータの事や、カーヴァン侯爵領の事もまるで遠い日の出来事のように感じていた。
気付けば気候が変化し、春から夏に差し掛かってきて汗で紙が手に張り付いたりすることに不快感を感じるようになってきたある晴れた日。
「終わった……!」
メルヴィーが呟きながらペンを置いた瞬間、ファンファーレでも鳴らして祝いたいくらいに感動した。いくらなんでもそこまではしゃぐことはないが、それぐらいの気持ちだった。
カステオと顔を見合わせて噛み締めていると、メルヴィーが突然立ち上がったので驚いてそちらを見る。
「食堂へ移動しましょう!」
「あ、あぁ」
「はい」
確かに昼食の時間はもうすぐだが、ここまで気合が入ったメルヴィーを見たことは無かったのでちょっと引いてしまった。
不気味な程上機嫌のメルヴィーに先導されて食堂へ移動すると、嗅いだことが無い匂いが充満していた。何の匂いだろうか、とても食欲を刺激してくる。
いつものテーブルを見ると、既に呼ばれていたらしくダルトンとジギタリスが我々の分の食事も食卓に並べてくれていた所だった。
いつもなら各自でする所を忙しい我々の為に気を使ってくれていたらしい。
「これは、何だ?」
テーブルには白い穀物の小山が盛られたお皿がドンと置かれていた。赤いピクルスのようなものがちょこんと添えられている。そしてすぐ傍には茶色い粘り気の強そうなスープが入った器。匂いの原因はこれらしい。禍々しいオーラを感じる混沌とした色合いだ。まさかこれを食べるのか。
「これはカレーライスという食べ物です。こうして食べるのよ」
といってメルヴィーはおもむろにスープを穀物の皿にドバっとかけ、スプーンでスープと穀物を掬い上げて口に放り込んだ。
「んー!! これよ! ようやく再現できたわ!!」
公爵令嬢らしからぬ崩れ切った笑みで味わう彼女に、正直大丈夫かと問いたい。
今までこんなにテンションの高い彼女を見たことが無かった。執務疲れでちょっとおかしくなってしまったのではないか。
見回せばメルヴィー以外全員似たような顔をして手をつけようとしない。
だが、一人美味しそうに食べるメルヴィーの手前食べない訳にもいかなそうだとチラチラとスープの様子を伺っている。
「騙されたと思って食べてみて、本当に美味しいんだから」
そう勧めるメルヴィーに渋々といった様子でジギタリスがスープだけをまず口に入れた。まるで毒を飲まされているかのような顔をしていたのに、みるみる顔を輝かせたかと思うと、先程のメルヴィーと同じように穀物の山にスープをかけて食べ始め、そこからは夢中で口に運び続けた。
いつもならば最低限のテーブルマナーは守っていた筈の彼女が、まるで幼児のように口いっぱいに頬張っている。
それを見たダルトンが、負けてられるかとばかりにスープを器を逆さにする程勢いよく振りかけて食べ始めた。こちらも、最初は汚物を眼にするような顔をしていたというのに今は夢中だ。というか三人の中で一番食べ方が汚い。お前一応貴族だっただろうにとげんなりする食べ方だ。
そして、とうとうメルヴィーの視線は私の方へ向いたので、とりあえず穀物を掬ったスプーンを、少しだけスープに浸して口へ運ぶ。
するとどうだろう、口いっぱいに複雑に絡み合ったスパイスの香りが広がり、今までに味わったことのない重厚な旨味に私の魂まで震えるかのようだった。これを表現する言葉はこれしかないという他ない。
「うまい……!!」
「そうでしょうそうでしょう。カーヴァン侯爵領であのスパイスが手に入ると知った時は打ち震えたものです。それなのにあのぼんくら領主ども……」
食事は旨いが、いつもとテンションが全く違うメルヴィーが怖い。
皆一様に視線を逸らし、卓上の食事に集中した。
添えられていたピクルスも味わったことが無い味付けで、少し甘いのがこのカレーライスという食べ物に物凄くマッチしている。
気づけば私もスープを穀物に振りかけてバクバク食べていた。
スープがカレー、白い穀物がライス、赤いピクルスがフクジンヅケというものらしい。
私達はひたすら食事を摂り続け、結局全員がおかわりまでしたので、人が入れそうな程大きな大鍋一杯だったカレースープを空っぽにした。私も限界まで食べたので苦しいが、それでもまだ食べたいという状態だ。
二日目まで置いた方が旨味が増すので多めに作らせたのにと後に悔しがるメルヴィーの姿があったとかなかったとか。
後でジギタリスから聞いたところによると、カレーに不可欠なスパイスがカーヴァン侯爵領で手に入る事は以前から判明してはいたが、侯爵は自領民の亡命先であるマグゼラ領との流通を一切禁止していたらしい。尤もらしく理由を付けていたがぶっちゃけ若く美人で名領主として名高いメルヴィーへの夫人の私怨が大きいだろうというのが彼女の予想だった。
さすがにスパイスの為に父親を頼るわけにもいかずメルヴィーは歯噛みしていたとか。
それが、今回の件で流通が正常化されて手に入ったので数日前から料理人に指示をして試行錯誤をさせ、ようやく今日お披露目と相成ったとのことだ。
もしかしたらあの問題解決への情熱の原動力はこれだったのではと疑念が残った出来事だった。
後日また食べたいという声がそこかしこから上がったが、材料のほとんどが海外からの輸入品で、滅多に食べられないと拗ねた顔で告げられ、もっと丁寧に味わえば良かったと悔しがる面々がいた。私も含めて。
それから、カレーライスは祝い事の定番となった。
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