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しおりを挟む最初は恐る恐る引っ張られるまま歩くのみだった紅梅だが、深山の春深き景色が目前に広がり続けるうちに、手を離しても自分で歩くようになった。俯いていた視線はもうずっと上がりっぱなしである。艶やかな髪も感情の薄い目も、どちらも日を浴びて輝くようだった。
「あれは山桜。桜が咲く頃にはもう冬の戻りもほとんどなくなる。梅が春告げの花ならば、桜は春満ちの花というところか。あ、そこに蕗の薹があるぞ。昨日の味噌汁に入れてあっただろう。まだ生えたばかりの花咲く前のが美味いんだ。もう一つ、漉油も使ったんだが、この近くには……お、あった。あれだあれ、あの木の若芽だ。昨日は味噌汁に入れたが、天ぷらやおひたしにしても美味いぞ。天ぷら、食べたことは……うん、わかってた、ないよな。あれは油がいるんだ。野営だと厳しいから、そのうち里に出て一緒に食おうな」
あそこに菫、そっちには水仙、あれは辛夷で、そこには蕨。白、薄紅、黄色に紫、黄緑がかった若葉、まだ花房を出すには早い藤蔓。指差しながらあれもこれもと春を教える。この深山は本当に色々な植物であふれていて、厳しい冬を越えた喜びを五感全部で感じ取れるほどであった。
そうしてあれこれ歩いていれば、どこからともなく秋朝も戻ってきて春明の体を駆けあがる。おはようと声をかければ答えるように首筋に擦りついた。
「どこに行って……おっと、これは梅の花か? 何だ、咲き残りの梅の木にでも上ってきたのか?」
擦りついてきた秋朝は、何故か体に赤い梅の花弁をつけていた。笑いつつ問えば、秋朝はちらりと紅梅を見やる。紅梅はその視線をじっと見つめ返す。見つめ合った一人と一匹は、しばらくしてどちらともなく互いから視線を外した。
「うん? どうかしたか?」
その不思議な見つめ合いを疑問に思いはしたが、相手は人の言葉を介さない鼬と事情を全く語らない紅梅である。何でもないと首を横に振られてしまえばそこまでだ。元から何が何でも聞きたいわけでもないので、まあいいか、と春明は流した。
散歩を終えたら食事だ。紅梅に説明しながら摘んできた山菜は数種。雪解け水の流れ込む冷たい川で泥や汚れを落とし、昨日の残りの魚の干物も加えつつ鍋で煮て味噌を溶かす。
「味噌汁は何を入れてもうまい。体にもいい。深酒をした翌日の朝にも一杯の味噌汁があれば怖いものなしだ。俺の一の兄上はあまり酒に強くなくてな。だけど酒は好きで、飲みすぎた朝はいつも味噌汁を飲んでいる」
そういえば紅梅は酒に強いな、と思う。互いにそれなりの量を飲んだはずだが、春明はともかく酒に慣れていないだろう紅梅も二日酔いになった気配は感じない。それならばしめたものだ。毎回二人で色んな酒を楽しめる。
「次は何の酒がいいか。そうだ、果実酒はどうだ?」
飲んだことはあるかと問えば、紅梅はやはり首を横に振る。なら果実酒にしようと決めつつ汁をよそった椀を渡せば、両手でそっと受け取り、片手で豪快に椀をあおる春明に続くように、ふうと一度息を吹きかけてから上品に口をつける。美味い、と呟く声がまた聞こえた。
「美味いか。そうか、よかった」
何を飲んでも食べても美味い。そう言われれば、嬉しいものだ。にこにこと笑いながら考える。春明の料理の腕はさほどよくないが、人里には多くの美味い食べ物があふれているし、酒の種類も豊富だ。食べ物以外も色々と売っている。つまり、毎回の土産も山の数ほど選択肢があるわけだ。
「なあ、きっと菓子も食べたことがないだろう。次は持ってくるな。あとはどうするか……と、そうだそうだ」
考えていて思い出す。というより思い出したふりをして懐から取り出したのは、先日買った紅い髪紐だ。こういう贈り物には慣れず、どう渡すのが自然かついつい見計らってしまったのだ。
「里で見て、ほら、紅梅の髪は長いだろう。髪紐、もしよければと思ってな」
食べ物ならば後腐れはないが、こういう形が残るものは好みというものがある。照れと、気に入ってくれるかという不安もあり、よく回る口がこの時ばかりはぎこちなくなった。
紅梅は、ぱちり、ぱちりと数度瞬きをしてから、そうっと両手を伸ばし、壊れ物を扱うような恭しさで春明の手から髪紐を受け取った。さほど高価なわけでもない、ごくありふれたその布地をさわさわと撫でて確かめると、ふと目元を和らげた。
「……使わせてもらう」
「……ああ。使ってやってくれ」
乏しいながらも間違いなく浮かんだその笑みに、春明の胸の内もじわじわと喜びで満ちた。こんな風に喜んでくれるなら、また何か買ってやろう。そう思った。
飯を終えた後、まだ昼にもならない時間。今日は夕刻前に里へ戻ろうと思っているので、去るまでにまだ時間がある。何かしたいことがあるかと試しに問えば、絵を見たいと控えめにせがまれた。
「おお、そうか! いや実はな、この間あげた絵を喜んでいただろう。だからまた気に入るものがあればやろうと思って、用意していたんだ」
紅梅の方から望んでもらえて、春明はご機嫌そのものでいそいそと荷物から紙束を取り出した。
「これとこれは、さっき仕上げた。こっちが山藤でこっちが鵥。山藤はじきに花の咲く季節になるから、咲いたら見よう。この鳥は見たことあるか? ……そうか、ないか。綺麗な鳥なんだぞ。そのうち一緒に見られたらいいな。あとは下描きとか走り描きばかりだが……何か気になるものはあるか?」
仕上げた二枚はどうぞと渡し、他のものは地面に広げて見せてやる。目の動きを注意深く追い、特に興味を示すものがないかと観察していれば、その中の一枚の上で紅梅の視線が止まった。子らが遊んでいる、何気ない風景を捉えた一枚だ。
「……こっちはまだ仕上げる前でな。これが気に入ったなら、次の時までに仕上げてこよう」
この絵が気に入ったというよりこの絵の状況が気にかかったのだということは、察しがついた。きっと、こんな山深くで長い間、世間を知らず、美味い食べ物も知らず、独りで生きてきたのだろう。同世代の子らと遊ぶことなどなかったに違いない。
そう思うと哀れで、春明はいまだ紅梅が見つめているその一枚に同じように視線を落とした。風車を右手に掲げた男児が笑いながら跳ねるように道を駆けている。
――風車と、独楽と、竹蜻蛉と……玩具も色々買ってきてやろう。
次の土産が決まった。
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