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狼狽
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ふわりと日本酒の香りがして、それが哲朗の唾液と舌と共に実と混じり合い、くらりと酩酊する。
近付いてくる話し声に哲朗が体を離し、親指で実の唇を拭った。
「なんかあったのか」
問われて、「ちょっと」と困ったように微笑んでから、そのまま外の声が遠ざかるのを待った。
「一年で一番忙しい時期になったからさ、土日のどっちかしか時間取れなくて……そうしたら、もしかしたらまた一ヶ月会えないかもって、会いたくて、だから、仕事の後そのまま来ちゃった」
へへ、と照れながら言う実に、
「こんな時間まで毎日仕事あんのか」
と、哲朗は困惑していた。
「あ、他の時期は暇というか、そうでもないんだけどさ、ちょっと学年の変わり目は仕方ないっていうか」
付き合い始めたタイミングも悪かったのだろう。もっと二人の仲が安定していれば、そこまで無理はしなかったと思うのだけれど。
ぽふんとまた哲朗の胸に顔を埋めて、初めて甘えてみせる実を、哲朗はそっと腕で囲んだ。
「充電。そしたらまた、明日からも頑張る」
「おう」
コンビニは、若者たちの寄り合い場所にもなっているのを哲朗は知っている。
だから行き交う人が勿論全員自分の知っている人たちで、しかも割と若いというか同年代以下で、知らないナンバーの車の中を物珍しそうに覗き込んでいくのを視線で追い払っていたのだが、実はそんなことは知る由もない。
農園と家族のことは、今度またゆっくり話そう。
今はただ、哲朗のことを肌で確かめたくて。次に会うときまでその温もりと声と匂いを忘れないでおこうと、もぞもぞと位置を変えながら縋り付いた。
哲朗の方は、窓の外を気にしながらも、襟元や首筋に当たる実の吐息に体が反応してしまい、ちょっと困ったことになっていた。
きっと今頃コンビニの駐車場では地元の男衆が大騒ぎだ。実は女性に見える顔立ちとは言えないが、小柄だし暗いから顔なんて良く判らないしで、きっといろんな憶測が飛び交っているに違いない。
帰りはあそこを通らない道を勧めなければと頭の隅で考えていたら、ようやく実が顔を上げて、今度はじいっと見つめている。
指先で、ひとつひとつの造作を確かめるように顔に触れていくのを、哲朗は黙って身を任せていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
弱々しく実が囁いたとき、時計は零時を示そうとしていた。まるでシンデレラだ。
「わったん」
誘うようにうっすらと唇を開くから、今度は重ねてついばむだけの口付けを交わした。
「今度は俺が行くよ。家にいる日は、夜に会いに行く。だからもう無理すんな」
互いに、仕事に支障が出ないようにと体調を気遣って、連絡も控えていた。それでも、哲朗だって同じように少しの時間でもこうやって触れ合いたかったから、今夜の出来事で何かの箍が外れてしまった。
「わったんこそ、無理しないでな。寝不足で事故とか、俺ショックで死ぬかもしれないよ」
真剣に言うから、わかったわかったと柔らかな猫毛を撫でて、哲朗はもう一度キスを落とした。
きりがないけれど、と、気を付けてと言って見つめてから、哲朗はゆっくりと車を降りたのだった。
一般入試の前日の晩だった。実は宿直に当たらなかったため、翌日の受付当番ではあったが、一時間ほどの残業で帰宅することが出来た。
前日にメールがあり、帰る時間に連絡してというので一報を入れてある。その間に自宅で久しぶりに温かな夕食を摂り、入浴も済ませてしまった。
携帯電話片手に玄関付近でうろうろする実を、両親は呆れたように眺めていた。
吉岡邸の前はすぐ道路になっていて横付けは出来ないため、反対側の敷地を月極駐車場にして貸し出している空きスペースでいつも哲朗は車を停めている。
門の方へ頭を向けてバックで実の車庫に前付けしてから「着いたよ」とメールを入れると、程なくして実が滑りの悪い扉を開けて出てきた。
駆け出したいのを我慢して、足を止めて左右を確認している。その時、駐車場の壁を見たまま実が硬直した。
笑みが消え、サッと表情が薄くなり、それから恐怖にも似た色が覆いつつあるのを見た時点で、哲朗は車から降りた。
踏み出し掛けた足を後ろに戻したい様子の実は、それからハッと哲朗のことを見て、また壁の方を見た。
いったい何があるというのか。何か動物の死骸でもあるのかと最初は思ったものの、そんなとき実なら後退るより駆け寄るだろうと思った。
訝しげに足を向ける哲朗に向けて、ついに実が道路に飛び出した。
ファーッ! けたたましくフォンを鳴らした車が、減速しないでぎりぎり実の後ろを掠めて通り過ぎていく。忌々しげに睨み付けるドライバーの視線など意に介す余裕もないのか、実は哲朗の胸に飛び込んできた。
「みのっ、危なっ」
受け止めた哲朗の腕の中で、顔色を白くした実が震えているのは、車と接触しそうになった恐怖からではなかった。
「ちょっとみのちゃん。そこまでして避けなくてもいいじゃない」
壁の向こうから駐車場の入り口に現れたのは、コートのポケットに両手を入れた新汰だった。
哲朗のセーターを握り締めて唇を噛みしめている実を見て、これは誰だったかと哲朗は記憶の糸をたぐった。実の関係者で哲朗が顔見知っている相手などしれているから、すぐに「相方の新さん」だと思い出す。
だが、今のこの実の様子は、とても相方と呼ぶ、趣味でコンビを組んでいる人に対するものではない。
再会した日、別のテントの下で他の誰かと談笑する新汰を、少し寂しそうに実は見ていた。それを思い浮かべながら、哲朗は、首を傾げて新汰を見遣った。
いったい二人の間でなにがあったのだろう、と。
近付いてくる話し声に哲朗が体を離し、親指で実の唇を拭った。
「なんかあったのか」
問われて、「ちょっと」と困ったように微笑んでから、そのまま外の声が遠ざかるのを待った。
「一年で一番忙しい時期になったからさ、土日のどっちかしか時間取れなくて……そうしたら、もしかしたらまた一ヶ月会えないかもって、会いたくて、だから、仕事の後そのまま来ちゃった」
へへ、と照れながら言う実に、
「こんな時間まで毎日仕事あんのか」
と、哲朗は困惑していた。
「あ、他の時期は暇というか、そうでもないんだけどさ、ちょっと学年の変わり目は仕方ないっていうか」
付き合い始めたタイミングも悪かったのだろう。もっと二人の仲が安定していれば、そこまで無理はしなかったと思うのだけれど。
ぽふんとまた哲朗の胸に顔を埋めて、初めて甘えてみせる実を、哲朗はそっと腕で囲んだ。
「充電。そしたらまた、明日からも頑張る」
「おう」
コンビニは、若者たちの寄り合い場所にもなっているのを哲朗は知っている。
だから行き交う人が勿論全員自分の知っている人たちで、しかも割と若いというか同年代以下で、知らないナンバーの車の中を物珍しそうに覗き込んでいくのを視線で追い払っていたのだが、実はそんなことは知る由もない。
農園と家族のことは、今度またゆっくり話そう。
今はただ、哲朗のことを肌で確かめたくて。次に会うときまでその温もりと声と匂いを忘れないでおこうと、もぞもぞと位置を変えながら縋り付いた。
哲朗の方は、窓の外を気にしながらも、襟元や首筋に当たる実の吐息に体が反応してしまい、ちょっと困ったことになっていた。
きっと今頃コンビニの駐車場では地元の男衆が大騒ぎだ。実は女性に見える顔立ちとは言えないが、小柄だし暗いから顔なんて良く判らないしで、きっといろんな憶測が飛び交っているに違いない。
帰りはあそこを通らない道を勧めなければと頭の隅で考えていたら、ようやく実が顔を上げて、今度はじいっと見つめている。
指先で、ひとつひとつの造作を確かめるように顔に触れていくのを、哲朗は黙って身を任せていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
弱々しく実が囁いたとき、時計は零時を示そうとしていた。まるでシンデレラだ。
「わったん」
誘うようにうっすらと唇を開くから、今度は重ねてついばむだけの口付けを交わした。
「今度は俺が行くよ。家にいる日は、夜に会いに行く。だからもう無理すんな」
互いに、仕事に支障が出ないようにと体調を気遣って、連絡も控えていた。それでも、哲朗だって同じように少しの時間でもこうやって触れ合いたかったから、今夜の出来事で何かの箍が外れてしまった。
「わったんこそ、無理しないでな。寝不足で事故とか、俺ショックで死ぬかもしれないよ」
真剣に言うから、わかったわかったと柔らかな猫毛を撫でて、哲朗はもう一度キスを落とした。
きりがないけれど、と、気を付けてと言って見つめてから、哲朗はゆっくりと車を降りたのだった。
一般入試の前日の晩だった。実は宿直に当たらなかったため、翌日の受付当番ではあったが、一時間ほどの残業で帰宅することが出来た。
前日にメールがあり、帰る時間に連絡してというので一報を入れてある。その間に自宅で久しぶりに温かな夕食を摂り、入浴も済ませてしまった。
携帯電話片手に玄関付近でうろうろする実を、両親は呆れたように眺めていた。
吉岡邸の前はすぐ道路になっていて横付けは出来ないため、反対側の敷地を月極駐車場にして貸し出している空きスペースでいつも哲朗は車を停めている。
門の方へ頭を向けてバックで実の車庫に前付けしてから「着いたよ」とメールを入れると、程なくして実が滑りの悪い扉を開けて出てきた。
駆け出したいのを我慢して、足を止めて左右を確認している。その時、駐車場の壁を見たまま実が硬直した。
笑みが消え、サッと表情が薄くなり、それから恐怖にも似た色が覆いつつあるのを見た時点で、哲朗は車から降りた。
踏み出し掛けた足を後ろに戻したい様子の実は、それからハッと哲朗のことを見て、また壁の方を見た。
いったい何があるというのか。何か動物の死骸でもあるのかと最初は思ったものの、そんなとき実なら後退るより駆け寄るだろうと思った。
訝しげに足を向ける哲朗に向けて、ついに実が道路に飛び出した。
ファーッ! けたたましくフォンを鳴らした車が、減速しないでぎりぎり実の後ろを掠めて通り過ぎていく。忌々しげに睨み付けるドライバーの視線など意に介す余裕もないのか、実は哲朗の胸に飛び込んできた。
「みのっ、危なっ」
受け止めた哲朗の腕の中で、顔色を白くした実が震えているのは、車と接触しそうになった恐怖からではなかった。
「ちょっとみのちゃん。そこまでして避けなくてもいいじゃない」
壁の向こうから駐車場の入り口に現れたのは、コートのポケットに両手を入れた新汰だった。
哲朗のセーターを握り締めて唇を噛みしめている実を見て、これは誰だったかと哲朗は記憶の糸をたぐった。実の関係者で哲朗が顔見知っている相手などしれているから、すぐに「相方の新さん」だと思い出す。
だが、今のこの実の様子は、とても相方と呼ぶ、趣味でコンビを組んでいる人に対するものではない。
再会した日、別のテントの下で他の誰かと談笑する新汰を、少し寂しそうに実は見ていた。それを思い浮かべながら、哲朗は、首を傾げて新汰を見遣った。
いったい二人の間でなにがあったのだろう、と。
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