鍵を胸に抱いたまま

亨珈

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豹変

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「友達とお出掛けだったの」
 哲朗の車が去って行くのを見送った実が、きっちり閉まったままの木の門を開けようと道路に背を向けたとき、聞き慣れた声がした。
 まさかと愕然とする。
 建て付けが悪くなっていて体重を掛けねばなかなか横に滑らない扉はそのままに、振り向いて横断歩道の向こうの新汰を見た。
 車一台がようやく通れるだけの道幅だから、通学路でなければそんなラインはないだろうというくらいに幅がない。
 契約駐車場として貸し出している吉岡家の敷地には実と父親の駐車スペースもあり、そこから姿を現したのだった。
 手が震えて、実は胸に抱えた紙袋の底をしっかりと支え直した。新汰は、常に湛えている人好きのする笑顔のまま、ジャケットの下のウールのパンツのポケットに手を入れて、そのまま近寄っては来ない。
「新さん、何か用なの」
 おずおずと話し掛けると、おやおやと大仰に肩を竦められた。
「忙しい忙しいって言うから試しに出向いてみれば、友達と出掛ける時間は取れてるんじゃないか。だったら今からでも工房に行けるでしょ。新しいの作ったから、確認して欲しいんだよねえ」
 どう、とまっすぐに見つめられ、実は戸惑った。
 趣味の延長なのだから、いつ行こうと制作を休もうと文句を言われる筋合いのものではない。けれど、仮にもコンビを組んで何年もやってきたのだ。出来について意見を述べるくらいは、すべきではないのかと。
「作る時間なくても、見るだけならいいだろ。それに、もしかしてこのまま辞めたりするつもりならさ……俺以外にも筋通さなきゃいけないんじゃないの」
 半分笑みを浮かべたまま、新汰はやや怒りを込めた眼差しで実を射抜いた。
 そう言われてしまうと、実は何も反論できない。工房と炉を開放してくれているオーナーには不義理をしてはならない。
 気持ちがはっきりすれば、いずれは話しに行くつもりではあった。
 だが、実自身は未だガラスに対する自分の気持ちがはっきりせず、もう少し考える時間が欲しいというのも本音だったのだ。
 その隙を衝いて正論で誘われると、さして時間の掛かることでもないだけに断りにくい。
 ここから工房へは徒歩でも行けるが、新汰は車で一時間近く掛かる自宅から出向いているのだ。
「分かった。見るだけでいいなら。先に行ってて」
 荷物を置いてくると言うと、「待ってる」と言われ、諦めにも似た吐息と共に、実はがたがたと門扉を開けたのだった。

 歩きながらの会話は、以前にも増して一方的だった。今日は何をしていたのかとも訊かれたが、実が場所だけ告げると、あああそこいいよねと、勝手に自分の体験談を話し始める。 
 いつも通りと言ってしまえばそれまでだが、以前より苦痛に感じるのは、実が新汰に抱いている感情が変わってしまったからなのだろうか。
 新汰のことなら何でも知りたかった。狭い世界から連れ出し、これからも前へ前へと進もうとする姿勢が、志が誇らしくて、そんな人の隣を歩める幸福に浸っていられた。
 それが、今となっては、耳障りなだけの雑音にしかならない。
 道幅が二メートルもないような路地を進みながら、ただ実は相槌だけを打ち、いつも通り裏の勝手口から工房に付いて入った。
 日曜だから誰かいるかと思っていたら、併設している店舗で体験教室があり、弟子も手伝いで出払っているらしい。以前はそんな時には呼ばれていたものだが、二人での活動が認められるに従い、独立したように扱われていったのだ。
 工房の壁にある簡素な棚には、数点作品が増えているようだった。それを手に取り眺めていると、引き出しから取り出したものを手に新汰が寄ってくる。
 小物を作るなんて珍しいなと、酒器を棚に戻して両手を差し出すと、そのまま手首を取られ、背中に捻り上げられ床に転ばされた。
 体重を掛けて押さえ込まれ、打ちっ放しのコンクリに顔を押しつけられ呻いているうちに紐で括られる。
「し、んさ」
 何故と、捻った首を持ち上げて目で問う。
 先刻までのよそ行きの表情が消え、大きく開いた目に暗い炎を燃え盛らせた新汰と、視線が合った。くっ、と歪む口元は、愉悦を湛えている。
「言ったよね、新作。確かめてって」
「言った、けど。こんな」
 乱暴に縛り上げられ、もう恐怖しか感じられない。つい一週間前の暴行が蘇り、体が震え始める。
 体を返され、新汰がベルトを緩めて自分の着衣を解いて行くのを為すすべもなく見守った。かろうじて動いた足先をバタ付かせても、下着を取られた後で折り曲げられ、太股と足首を纏めるように捕縛され、信じられないと唇が戦慄いた。
 縛る間傍の棚に置いてあった物を手に取り直し、実の目の前に持って来る。指三本で掲げられたそれは、落款のように見える。しかし……。
「石じゃ、ない」
 訝しげに、実は注視した。
 二人共用の名前をデザインしたそれは、通常彫刻に使われるどの石でもなく、鉄の固まりだった。無骨で、人目には晒せないような簡素なもの。
「そう、彫刻用の石は脆いからね。用途に適さない」
 にやりと見せつけるように笑い、その固まりを火箸で掴み炉の中に差し込む新汰を見て、実の顔や腋から脂汗が出た。
「まさか……やめてよ、新さん」
 体を捩ってどうにか紐を緩められないかともがいても時既に遅く、更に食い込み手首の皮は擦れて剥がれていく。
 分厚い革とシリコンの手袋を重ねづけした新汰がそれを手に実の足を開く。
「流石にね、日常で目に付くところは困るでしょ。俺ってそういうとこちゃんと配慮してるからさ、俺以外には見えないところにしてあげるからさあ」
 実は懸命に首を振り続けた。
「や、いやだ、新さんっ、やめてよ」
 股間の物は恐怖に竦みあがり、最早首から上しか動かせる箇所がない。
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