鍵を胸に抱いたまま

亨珈

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もう、どうなってもいい

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「んぅ……っ」
 離れた隙に嚥下すると、再び捕まり繰り返される。三度目には手も唇も離れていかず、そのまま柔らかいものが実の口内へと差し込まれた。
 順に歯列を確かめ、歯茎も頬肉も全て辿られ、上顎を特に入念に探られて実は身悶えした。
 次第に距離を詰めていた体が斜めから押さえ込むように実の上にあり、布団を剥いで合わせから手の平が侵入する。
 これは一体どういうことかと、錯乱する頭とは裏腹に体は熱を帯びていく。
 実は、まだ一度も自分の気持ちを口にしていない。まして、哲朗の心中など知る由もない。
 ただ、十年前に別れを告げたあの日に、触れ合わせるだけの口付けをした。その意味すら問わず、知らされないままに今日まで来てしまった。
 きつく舌を絡めて吸われ、期待に体の奥は疼き、蠢き始めている。そして思い出す。今自分は、到底受け入れられるような状態ではないことを。
 そして、もしも今のその場所の状態を知った時、哲朗がどんな反応をするのかと、それも気掛かりで、そうして嫌われて哲朗を失うかもしれない可能性に気付いた時、瞬間に体は強張り、熱が冷めて行った。
「わったん、ごめん、許して……」
 全力で胸を押し退けようとする実に、哲朗は狼狽しながらも従った。
「ごめん、ありがとう。でも、無理なんだ……」
 涙を滲ませ、実は腕で顔を覆う。キスには応えたのに何故と視線で問いながら、言葉と手に拒絶されて、それでも哲朗はぎこちなく微笑んだ。
「俺の方こそ、ごめん。ちょっと頭冷やしてくる。ここ、たまたま空いてて一泊取れたから、家に連絡しとけばいいよ」
 浴衣を直して丹前を羽織ると、そのまま哲朗は部屋の外へと出て行ってしまった。
 一人になると、途端にごうごうという大きな音が気になり、布団から出ると、実は哲朗がしていたように窓の外を見た。
 宙に張り出したような物見台めいた木枠の向こうに、白くしぶきを上げて唸りながら落ちていく滝が目に入って来た。川沿いの崖にある旅館なのかと合点が行き、暫く見惚れてから、言われたとおりに家に電話をした。
 何処へ行ったのか、哲朗はまだ帰って来ない。
 先刻の手の平の感触が残る胸元を直し、火照りが去って冷えてきた肩を震わせて、実も丹前を羽織った。
 ああ、哲朗はどんな風に受け取ったろうかと、それだけが気掛かりだった。
 長テーブルの上に置いて行ってくれたペットボトルの水を飲み、項垂れて頭を掻き毟った。
 こんな体でさえなければ、そのまま流されていた。自分から欲しいと思うほどに、どんな意味であれ、今でも実は哲朗のことが好きなのだ。
 けれども、哲朗の気持ちは解らない。
 ただ水を飲ませようとして、ちょっとふざけ半分で深いキスをして、そのまま体に触れてきただけなのではないか。
 拒まなくても、あのままでもそういえばこれは男の体だったと思い出して、さっさと行為を止めていたのではないか。
 大袈裟に拒んだ実に引いて、つまらないやつだとがっかりしているのではないか。
 益体もなくぐるぐると案じ続け、答えの出ない問答に疲れてテーブルに突っ伏したのだった。

 優しく肩を揺すられて、意識が浮上する。どうやらまた眠ってしまっていたようで、心配そうな顔の仲居が実の隣に膝を突いていた。
「大丈夫ですか? 何度か入り口からお呼びしたんですが」
 見ると、すっかり日が落ちて薄暗い室内には仲居が点けたらしい上がり框の橙色の灯りが差し込んでいた。
 すみませんと謝ると、電気を点けてもよろしいですかと問われ、頷いた。
 途端に乳白色に染まる室内には、変わらず哲朗の姿はない。
「そろそろお食事の時間なんですが」
 不安そうに、運んでもよろしいかと顔を見詰められ、お願いしますと頷いた。
 一旦下がって行くのを見守りながら、携帯電話を手に取りコールする。
『はい』
「わったん、食事が来るみたいなんだけど……今どこ?」
 ちゃんと応えがあり、ひとまず安堵する。
 すぐ帰ると、ぷつんと切れてしまった電話機を手の中で暫く弄んでから、のろのろと畳んだコートの上に置いた。
 何かが判断できるほどの会話ではなかったけれど、声が硬かったように思う。
 どういう風に思われているか俄かに不安が押し寄せ、実は居ても立っても居られなくて、館内用のスリッパを引っ掛けて通路に飛び出した。
 長細い通路を見回すと、丁度階段らしき場所から現れた哲朗と視線がぶつかった。
 一瞬足を止めかけ、それからまた近付いてくる顔には強張った笑みがあり、部屋の前まで来た時に思わず実が掴んでしまった腕は、冷え切っていた。
 この格好のまま、本当に屋外に出ていたのかもしれない。
「わったん、風邪ひいちゃうよ。なんてことするのさ」
「だーい丈夫。俺、頑丈だから」
 はは、と笑いながら、くしゃりと実の髪をかき混ぜて哲朗は部屋へと入って行く。
 その後を追うように仲居が二人分の膳を積み上げてやって来て、そのまま会話もなくテーブルに着くことになった。

 全部いっぺんでいいと断っていたらしく、次々と料理を並べて、それぞれの鍋に火を点けてから、仲居は下がって行った。
 熱燗とビール瓶が置いてあり、手酌しようとする哲朗を押し留めて、実が麦酒を注いだ。
 お返し、と注ぎ返してくれる俯いた横顔を見ながら、「わったん」と声を掛ける。
 もう、この際哲朗にどう思われてもいいと思った。
 帰ってきた哲朗がいつも通りだったなら、或いは。今までのように、友人として続けていけばと思っていた。
 けれど、哲朗は明らかに落ち込んでいるというか、寂しそうに見える。もしかしたら、明日が最後になるかもしれない。今度こそ本当の別れが来るのかもしれない。
 そう考え、それならばせめて、自分の気持ちだけでも伝えた方が、悔いはないのではないかと思ったのだ。
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