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もしもの未来に夢を見る
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実は、慎重に言葉を選ぶ。
「だけど、定住となれば、両親と離れることになるから」
今の住まいを維持して欲しいと頼まれていること、そして自分に必要な以外の給与は家に入れてもいることを淡々と説明した。
年金だけでも二人は生活できるだろうが、実の手取りでは自分一人で生活する方が苦しい。
今まで存分に趣味に費やすことが出来たのは、実家暮らしだからというのもある。
それを今更、二人を置いて遠方で職種変更など出来る筈もなかった。
そうか、と哲朗は僅かに目を伏せて、それからもう一度遠くへと視線を飛ばせた。
「そうだよな。自分一人のことじゃないもんな」
小さく呟いた声が風に散らされて、岩が点在する斜面に落ちて行った。
「わったんは、ずっと長距離でやっていくの」
のんびりと、タイルで舗装された広い歩道を下りながら、何気なく実は問い掛けた。両手には土産と自分用に購入した大小さまざまな石窯パンの入った紙袋を抱えている。焼き立てでほかほかと熱いくらいだった。
そうだなあ、と哲朗も同じくらい買い込んだ袋を持って首を傾げた。
「出来るだけ続けたいよ。俺も殆どは家に入れてるし。まあ貯金もしておかないと、一次産業はいつ何が起こるか判らないからなあ」
仕事は減ることはあれど、真っ当な会社ならば急に解雇されたりはしない。それに比べて、天候や自然災害に左右される産業は、年によって収入にバラつきがある。それを支えるために、長男なのにずっと会社員でやっているのだった。
あとは、両親が働けなくなった時が転機だろう。とっくに定年退職している実の父親とは全く家庭環境が異なるのだった。
「俺の家も」
と、哲朗が切り出した。
「少しずつ農地を開放してて、というか、貸し出しになるのかな。税金分にちょっと上乗せするくらいで人に貸しててさ。共同農園みたいになってるから、まあ、気が向いたらいつでも参加してみてよ。俺も手伝うし、ずっとじゃなくて、期間限定でもいいし」
哲朗の家には、実はまだ行ったことがない。
農園にも興味が湧いたが、哲朗が育った集落も見てみたいと思った。
「うん。出来るといいな」
前を向いたまま声に出してみると、本当にやりたくなって来るから面白いものだ。
これも言霊だろうか。
「やってみたいかも」
その前に、クリアせねばならないハードルは高い。だから現実的ではないとしても、胸の中で思いを馳せるくらいならば許してもらえないかと、心の中で両親に謝った。
大量のパンを後部座席に置いて、哲朗はまだ北部を目指しているようだった。
流れの強い川を左手にずっと山間を進み、ダムが近くなってくる。
ここまでくれば実でも判った。砂湯で有名な温泉場だった。
「うっわ、昼間に来たの初めて」
川沿いの駐車場から、哲朗の持参したタオルを手に持ち歩く。
随分長いこと来ていないが、以前は深夜に別の友人たちとわいわいと浸かったし、夏場だったので雰囲気が全く異なっていた。
屋根とロッカーだけの簡素な脱衣所で腰にタオル一枚になると、哲朗との体格差に実は居た堪れない思いがした。
粉雪がちらつき人気は少ないが、無人ではない。美人の湯には女性客も居て、自分が哲朗のようにがっしりと男らしい容姿だったらなと羨ましく思いながら、足元に気を付けて長寿の湯に向かった。
他の湯は、冬場には少し温く感じるからと、哲朗の勧めだった。
半分くらいは屋根が掛かっているが、そちらにはご近所さんらしき年配の方々が集っていたので、遠慮して屋根のない部分に浸かる。
「柚子湯の日なら良かったのになあ」
灰色の空を見上げて、石の上に頭と肘を預けた哲朗が言った。
「ああ、そういうイベントもあるね」
真似をして実も空を見る。歩きながらつい目にしてしまった。引き締まった筋肉の付いた背中に疼きそうになった体の奥を鎮めようとした。
農業公園に居た時は青空が広がっていたのに、あれはたまたまだったのかと思うくらいに、今は冬枯れの木立に囲まれた空はどんよりと薄暗い。
日の入りまではまだ随分あるはずだけれど、まあ冬だからこんなものかと思いながら、弛緩していく体を心地良く岩に預けて目を閉じた。
ひんやりと冷たい物が額と瞼に掛かり、なんだかゆらゆらふわふわするなと思いながら、そうっと目を開けた。
自宅と良く似た木目の天井が視界いっぱいに映り、それに目を瞠って横を見ると、浴衣姿で畳の上に胡坐をかいた哲朗が、障子を開けて窓の外を眺めている背中があった。
実自身も明らかに旅館のものと判る浴衣を着て、布団に寝かされていた。
全く記憶にないが、大方湯あたりして意識を失ったのだろう。恥ずかしくてもぞもぞと掛け布団を引き上げようとすると、額に載せられていた手拭いが滑り落ちてしまった。
その気配に、ハッと哲朗が振り向いた。
「具合はどうだ?」
足を解いてにじり寄って来る。肌蹴た合わせから厚い胸板が垣間見えて、途端に実は真っ赤になって掛け布団で顔を隠した。
「みのっち」
不思議そうに、けれど心配そうに布団の上から腕を撫でられて、「ごめん」と取り敢えず謝った。
「温泉が体にいいかと思ったんだけど、逆になっちまって悪かった。水分摂った方がいいから顔出して」
上を向いたまま意識飛ばしたなんて、きっと口も開けっ放しで無様な様子だったろう。そう想像しただけでもう雪のように解けて消えられたらいいのにと全身が火照るのだが、哲朗の言うことも尤もだから、実はそろりと布団を下ろした。
意外に間近にあった哲朗の顔に驚いていると、顎を掴まれて少し斜めに向かされ、更に顔が近付いてくる。
あっと思ったときには、僅かに開いた唇を覆うように口を塞がれ、そこから生温いものが注ぎ込まれた。
「だけど、定住となれば、両親と離れることになるから」
今の住まいを維持して欲しいと頼まれていること、そして自分に必要な以外の給与は家に入れてもいることを淡々と説明した。
年金だけでも二人は生活できるだろうが、実の手取りでは自分一人で生活する方が苦しい。
今まで存分に趣味に費やすことが出来たのは、実家暮らしだからというのもある。
それを今更、二人を置いて遠方で職種変更など出来る筈もなかった。
そうか、と哲朗は僅かに目を伏せて、それからもう一度遠くへと視線を飛ばせた。
「そうだよな。自分一人のことじゃないもんな」
小さく呟いた声が風に散らされて、岩が点在する斜面に落ちて行った。
「わったんは、ずっと長距離でやっていくの」
のんびりと、タイルで舗装された広い歩道を下りながら、何気なく実は問い掛けた。両手には土産と自分用に購入した大小さまざまな石窯パンの入った紙袋を抱えている。焼き立てでほかほかと熱いくらいだった。
そうだなあ、と哲朗も同じくらい買い込んだ袋を持って首を傾げた。
「出来るだけ続けたいよ。俺も殆どは家に入れてるし。まあ貯金もしておかないと、一次産業はいつ何が起こるか判らないからなあ」
仕事は減ることはあれど、真っ当な会社ならば急に解雇されたりはしない。それに比べて、天候や自然災害に左右される産業は、年によって収入にバラつきがある。それを支えるために、長男なのにずっと会社員でやっているのだった。
あとは、両親が働けなくなった時が転機だろう。とっくに定年退職している実の父親とは全く家庭環境が異なるのだった。
「俺の家も」
と、哲朗が切り出した。
「少しずつ農地を開放してて、というか、貸し出しになるのかな。税金分にちょっと上乗せするくらいで人に貸しててさ。共同農園みたいになってるから、まあ、気が向いたらいつでも参加してみてよ。俺も手伝うし、ずっとじゃなくて、期間限定でもいいし」
哲朗の家には、実はまだ行ったことがない。
農園にも興味が湧いたが、哲朗が育った集落も見てみたいと思った。
「うん。出来るといいな」
前を向いたまま声に出してみると、本当にやりたくなって来るから面白いものだ。
これも言霊だろうか。
「やってみたいかも」
その前に、クリアせねばならないハードルは高い。だから現実的ではないとしても、胸の中で思いを馳せるくらいならば許してもらえないかと、心の中で両親に謝った。
大量のパンを後部座席に置いて、哲朗はまだ北部を目指しているようだった。
流れの強い川を左手にずっと山間を進み、ダムが近くなってくる。
ここまでくれば実でも判った。砂湯で有名な温泉場だった。
「うっわ、昼間に来たの初めて」
川沿いの駐車場から、哲朗の持参したタオルを手に持ち歩く。
随分長いこと来ていないが、以前は深夜に別の友人たちとわいわいと浸かったし、夏場だったので雰囲気が全く異なっていた。
屋根とロッカーだけの簡素な脱衣所で腰にタオル一枚になると、哲朗との体格差に実は居た堪れない思いがした。
粉雪がちらつき人気は少ないが、無人ではない。美人の湯には女性客も居て、自分が哲朗のようにがっしりと男らしい容姿だったらなと羨ましく思いながら、足元に気を付けて長寿の湯に向かった。
他の湯は、冬場には少し温く感じるからと、哲朗の勧めだった。
半分くらいは屋根が掛かっているが、そちらにはご近所さんらしき年配の方々が集っていたので、遠慮して屋根のない部分に浸かる。
「柚子湯の日なら良かったのになあ」
灰色の空を見上げて、石の上に頭と肘を預けた哲朗が言った。
「ああ、そういうイベントもあるね」
真似をして実も空を見る。歩きながらつい目にしてしまった。引き締まった筋肉の付いた背中に疼きそうになった体の奥を鎮めようとした。
農業公園に居た時は青空が広がっていたのに、あれはたまたまだったのかと思うくらいに、今は冬枯れの木立に囲まれた空はどんよりと薄暗い。
日の入りまではまだ随分あるはずだけれど、まあ冬だからこんなものかと思いながら、弛緩していく体を心地良く岩に預けて目を閉じた。
ひんやりと冷たい物が額と瞼に掛かり、なんだかゆらゆらふわふわするなと思いながら、そうっと目を開けた。
自宅と良く似た木目の天井が視界いっぱいに映り、それに目を瞠って横を見ると、浴衣姿で畳の上に胡坐をかいた哲朗が、障子を開けて窓の外を眺めている背中があった。
実自身も明らかに旅館のものと判る浴衣を着て、布団に寝かされていた。
全く記憶にないが、大方湯あたりして意識を失ったのだろう。恥ずかしくてもぞもぞと掛け布団を引き上げようとすると、額に載せられていた手拭いが滑り落ちてしまった。
その気配に、ハッと哲朗が振り向いた。
「具合はどうだ?」
足を解いてにじり寄って来る。肌蹴た合わせから厚い胸板が垣間見えて、途端に実は真っ赤になって掛け布団で顔を隠した。
「みのっち」
不思議そうに、けれど心配そうに布団の上から腕を撫でられて、「ごめん」と取り敢えず謝った。
「温泉が体にいいかと思ったんだけど、逆になっちまって悪かった。水分摂った方がいいから顔出して」
上を向いたまま意識飛ばしたなんて、きっと口も開けっ放しで無様な様子だったろう。そう想像しただけでもう雪のように解けて消えられたらいいのにと全身が火照るのだが、哲朗の言うことも尤もだから、実はそろりと布団を下ろした。
意外に間近にあった哲朗の顔に驚いていると、顎を掴まれて少し斜めに向かされ、更に顔が近付いてくる。
あっと思ったときには、僅かに開いた唇を覆うように口を塞がれ、そこから生温いものが注ぎ込まれた。
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