鍵を胸に抱いたまま

亨珈

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声に癒やされる

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「な、なんだよ、用事?」
 体の反応に自分でも驚いて、誤魔化すように早口で問うと、それ以上は足を進めずに新汰の革靴の爪先がたたらを踏んだ。
「工房、行くなら一緒にと思ったんだけど」
 平日は元々あまり通っていないのに、どういうことだろうと訝しみながら、ようやく実は視線を上げた。
「行かないよ。今日は家でもやらない」
「まさか、ガラス辞めるつもりじゃないだろうな」
 新汰の表情が険しくなり、また前に出そうになった足を警戒して、実は鞄を胸に抱えて後じさった。
「違う。今日は体調も悪くて、さっきまで保健室で休んでたんだ」
 静かに喋っているつもりでも、口調に険が出てしまう。
 ぽろぽろと帰宅の途につく職員や生徒が物珍しそうに二人を横目に眺め、これ以上人気がなくなるのを恐れて、実は思い切って踵を返した。
 元々は自転車通勤だ。サドルに跨るのが辛いから車で来ただけで、歩いて帰れない距離ではない。
 あ、と声を上げた新汰が後ろから腕を掴む。
「放せ!」
 無駄に大きな声が出てしまい、流石に周囲も足を止めて新汰のことを不審者を見る目つきで注視した。
「そこ、どいてくれないかな。ホントに体辛いから、出来れば車で帰りたいんだけど」
 周囲の目があるうちにと、実は静かに言った。歩いて逃げ切れるとは思っていない。
 呼吸を整えている間にゆっくりと新汰が車から離れ、実はそれを睨みつけながら、ようやく運転席に収まりさっさとロックしてからエンジンを掛けた。
 流石に追う素振りは見せず、生徒たちは怪訝そうに新汰を見ながらも、やがてぱらぱらと歩き始め、その間を縫って自宅に帰った。
 昨夜のことを憶えていないのだろうか。
 それとも、記憶はしていても、悪かったとかそういう気持ちは微塵も抱いていないのだろうか。
 どうしてと、何度も胸の中で問い掛ける。
 けれど、それを面と向かってもう一度問う気にはなれないのだった。


 朝も食べろ食べろと煩かった母親は、具合が悪くなったと吐露すると、それみたことかと晩御飯のメニューに鶏レバーや小松菜、しじみに牡蠣と、栄養があるようで偏った献立にして食べさせられる羽目になった。
 元々大食漢ではないから、量を減らしてもらってどうにか完食し、急き立てられるように入浴を済ませて布団に入る。
 こういうときだけは、宿題のない身は良いものだと思う。
 眠いというより体が重だるい方が大きくて、指先がかじかんで上手く動かない。それでも布団の中に携帯電話を持ち込み、ぽつぽつと哲朗へのメールを打った。
『昨日はゴメン。酔っ払いに絡まれて身動きが取れませんでした。よかったら話の続きをしたいです』
 送信ボタンを押して、枕の下に入れてから目を閉じた。
 まだ宵の口だ。今頃は何処を走っているのかなと昨夜の話に聞いた辺りを思い浮かべているうちに、眠りの海へと引きこまれていった。

 振動で目が覚める。きっと眠りが浅くなっていたタイミングだったのだろう、思ったよりすっきりした意識に驚きながら携帯電話を掴むと、まだ日付は変わっていなかった。
 短時間だが夢も見ないでぐっすり眠っていたらしい。
 予感したとおり哲朗からのメールで、連日にこんなにすぐに反応があるのは初めてじゃないかと苦笑しながら開いた。
『後ろで声がしてたから、そんなことじゃないかと思ったよ。まあ、心配ではあったけどな。今、休憩中』
 実の部屋は二階だが、両親は一階で寝ている。それもあって新汰を連れて来たことはないのだが、電話の声が聞こえるほどではないから、躊躇わずに通話ボタンを押した。
『お疲れっ』
 少し弾んだ声が耳に届き、同じ言葉を返しながら実の口元は綻んだ。
「昨日はごめんな。勝手に切られるし、その後は介抱するのに忙しくて、帰るのも遅くなっちゃってさ」
『そんなのいいって。上機嫌になるタイプの人なんだなあ、あの声が相方さんなんだろ? 新さんって聞こえたけど。俺も家では飲み会とかするから解る。まあ、家飲みだと布団だけ掛けて放っときゃいいんだけどな。外で飲んでたら大変だろ』
 そうそう、あれが相方、と頷いて、あれから大変だったんだよと笑い話にしてしまった。
 やんわりと包み込むような声と話し方が心地良くて、布団に包まったままうっとりと目を閉じた。
 哲朗は、今日走っている辺りのことをまた教えてくれる。昔も、そうやって聞いてから後で地図を見たりしているうちに、いつの間にか実も一緒に旅をしている気分になっていた。
 勿論、哲朗にとっては仕事で、観光などする時間はないらしい。目的地に着いても今度は別の荷物を積んで帰路に着くか、また別の場所へと向かったりするから、サービスエリアで特産品や流行のB級グルメを食べるくらいしか楽しみはないと言う。
 そういう日常が実にとっては非日常だから、いつも楽しみだった。
 それでも、昨夜言い掛けたことも気になっていたから、どうやって水を向けようかと意識の片隅で考えていると、ふと空白の瞬間が生まれた。
「わったん」
『ん?』
「昨日、何か言い掛けただろ」
『ああ……うん』
 その後も何故か言い澱み、そんなに言い辛い内容なのかと徐々に不安になってくる。
 けれど、あの時もそうやって想定していた中で最悪のパターンに近いことを言われた。
 今、最悪なのは、哲朗に嫌われることだろうと実は思っている。それ以外はどうということはない。長い間会わなくても、こうして再会してからも会話が普通に出来ている。
 あの時のキスの意味が解らなくても、その後の失われた記憶もどうでも良くなるくらいに、実にとって掛け替えのない時間が戻ってきたのだから。
『やっぱ、会ってから話すな。今度の週末、大丈夫か? 久し振りに連休だから』
「ああ、そうなんだ。ええと……うん、イベントはないかな。しいて言うなら、日曜に朝市に買い出しに行くくらい」
 脳内でスケジュールのチェックをする。
 学校のイベントの時も借り出されるし、ガラスもある。そういう時は前日から準備で忙しいから、結構休日が潰れることが多いのだ。
 月に一度の商店街の朝市は、母親から荷物持ちを厳命されている。他の商店街で開催される小規模のものにも出向くのだが、これが一番種類が多いから張り切っているのだった。
『ん。じゃあ待ち合わせしようや』
 そう言われて、返事の声が弾んだ。
 午前中に約束を入れるなんて初めてだった。夜だとどうしてもドライヴ自体がメインになるけれど、あちこちに立ち寄って観光めいたことをしてみようと誘われたのだ。
 なんだかんだと言っているうちに、結局家の前まで哲朗が迎えに来てくれることになり、胸の奥がほっこり温かい気分で通話を終えたのだった。
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