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「は……なに、それ。どういうこと」
手が滑って落ちそうになったので、慌てて蓋を閉めてから鞄に戻した。
そんな様子を少し愉快そうに眺めながら、何から言うべきかと哲朗は首を捻っている。
「結婚は、したんだけどな。いうなればバツイチ」
ぱっと広げて顔の前に出された左手には、指輪の跡すらない。
はあ、と気の抜けた返事をして眉を下げる実に、もう五年以上経つからな、と哲朗は失笑した。
「相手がさ、田舎暮らしに憧れて、一応とはいえ全部了承済みで嫁入りしてくれた筈だったんだけどな。やっぱり朝早いし娯楽も少ないだろ。おまけに会社勤めとは違って休日もない。俺自身もあまり家には居ない。となれば必然的に両親祖父母と仲良く出来なければやっていけない。
そんな状態でさ。ストレスもあったんだろ、子供もなかなか出来なくて。田舎な分、不妊治療の知識も病院も周辺にはないし、辛かったんだろうな……。一緒に居る間は笑ってくれていたけど、体調崩して。ろくに話し合いも出来ないまま、離婚届置いて出て行っちまった」
「追いかけなかったの」
よくある話ではある。だが、身近に聞くと居た堪れなくて、そのお嫁さんの気持ちもよく解るだけに、実は口元が歪みそうになるのを懸命に堪えた。
「行ったさ」
ふう、と息をついて、哲朗は肩を竦めた。
「出て行ったときには九州の最南端走ってた。だけどなるべく毎日電話はするようにしてたから、その晩も寝る前に電話して……そうしたら、母親が出て。
あっちは神戸の街中の人だからさ、すぐには行けなかった。だけど幸い次の仕事が関東方面だったから、途中で無理矢理実家に寄ってさ」
何しろ大型のデコトラだから、住宅地は騒然としたらしい。駐車違反で反則金は取られるし、近所の人に通報されて説明はさせられるしの大騒動。
それでも相手の決心が固く、あちらの親も非常に申し訳無さそうにしながらも、もうなかったことにしてくれと拝み倒されては引き下がるしかなかったのだ。
哲朗の中では、すっかり決着がついたことなのだろう。苦笑しながらも、すらすらと話すのを俯き加減に聞いている実の方こそ胸が苦しくて仕方なかった。
それで、と続けようとしたとき、若い女性のグループが足を止め、実は腰を上げて一つずつの説明を始めた。
可愛い綺麗と騒ぎながらも、彼女たちは箸置きなどの小物を購入してくれ、おまけにそれが新汰ではなく実が制作したものだったから、自然と顔が綻んでしまった。
垂れた眦に皺を寄せて丁寧に布きれと組紐で包む実を眺める哲朗の顔は、やや驚きの色を纏いながらも微笑ましげだった。
「また連絡してもいい?」
そう尋ねた哲朗の携帯電話は、番号が変わっていた。
実の方は昔のままだったが、改めて番号とアドレスを通信で遣り取りして、夜に荷受けに出るという哲朗を見送った。
まだ日が高い。深夜は飛ばして三十分くらいで会いに来てくれていたけれど、通常運転ならば一時間以上掛かる距離なのだ。帰宅して仮眠を取る時間はあるのだろうかと危惧しながらも、会えて良かったなと、新汰でいっぱいだった胸が凪いでいるのを自覚していた。
羽織っただけのジャケットの下にはぴったりとしたシャツしか着ていなかった。その襟ぐりから覗く胸板は厚くて逞しく、人込みに混じっても、ズバ抜けている長身のせいで見失うことはない。
客が途切れたのを良いことにぼうっと眺めていたら、もう随分距離が開いているのに、地下の駐車場へと降りるスロープで哲朗が振り向いた。
コンタクトレンズを嵌めていてもうっすらとしか判別できないが、それでも手を挙げて振っているのに気付き、こちらからも振り返す。
今、哲朗はどんな顔をしているのだろう。
きっと笑っているなと、その朗らかな笑顔を記憶の泉から浮かび上がらせ、実の表情も和んでいた。
ふと、会話の合い間に視線を向けた新汰が、それを見咎めたのには気付かないままに。
日が落ちて、撤収作業を終えて車を自宅の車庫に戻してから、打ち上げと称したいつもの飲み会に参加した。
幌布製品や国産ジーンズなどの作り手は女性が多く、飲み会はかなり華やいだものとなる。意外にも、そういう場でモテるのは実の方だったが、それは愛玩動物を愛でているのとさして変わりはない。
まあまあとどんどん日本酒を注がれ、それをくぴくぴやりながらぼおっと会話に頷き、たまに返事をする。それだけで頭を撫でられたりして嬉しそうにされるので実は楽だった。
本当なら、今夜は参加したくはなかった。
正月に実が切り出した「もう恋人はやめる」という宣言に確たる返事をもらえないまま、曖昧な関係が続いている。
とはいえ、コンビは解消したくないのも本当だから、工房ではなるべく使用時間帯が被らないようにしたり、他の誰かが居る時にしたり、自宅で出来る部分はなるべく自宅で済ませるようにしていた。
小さな作業部屋も持っているから、工具で加工する程度のアクセサリーならば自宅でも作れるのだ。
新汰は、相変わらず会話を途切れさせることなく、主に男性陣と話に花を咲かせている。
皆、専門知識が豊富だから、それぞれがあちこちに話が飛んでも付いていくことが出来るのだろう。実などは、いつも耳で聴いて勉強させてもらうだけで、口を挟む隙もない。
今いるのは、呉服屋の跡取りが開放している多目的空間で、昔の蔵を改装しているから天井が高くて演奏会などにも向いている。
作り手が多く参加する今回のようなイベントの後には、必ずといっていいほど持ち込みでの飲み会が催される馴染みの場になっているのだ。
深夜が近くなり、さてどうしたものかと実は思案した。
いつものように新汰は朝まで飲むのかもしれないが、昨夜ぎりぎりまで展示品の追加を作ったり包装用品を揃えていた実は、そろそろ睡魔に負けそうになっていた。
手が滑って落ちそうになったので、慌てて蓋を閉めてから鞄に戻した。
そんな様子を少し愉快そうに眺めながら、何から言うべきかと哲朗は首を捻っている。
「結婚は、したんだけどな。いうなればバツイチ」
ぱっと広げて顔の前に出された左手には、指輪の跡すらない。
はあ、と気の抜けた返事をして眉を下げる実に、もう五年以上経つからな、と哲朗は失笑した。
「相手がさ、田舎暮らしに憧れて、一応とはいえ全部了承済みで嫁入りしてくれた筈だったんだけどな。やっぱり朝早いし娯楽も少ないだろ。おまけに会社勤めとは違って休日もない。俺自身もあまり家には居ない。となれば必然的に両親祖父母と仲良く出来なければやっていけない。
そんな状態でさ。ストレスもあったんだろ、子供もなかなか出来なくて。田舎な分、不妊治療の知識も病院も周辺にはないし、辛かったんだろうな……。一緒に居る間は笑ってくれていたけど、体調崩して。ろくに話し合いも出来ないまま、離婚届置いて出て行っちまった」
「追いかけなかったの」
よくある話ではある。だが、身近に聞くと居た堪れなくて、そのお嫁さんの気持ちもよく解るだけに、実は口元が歪みそうになるのを懸命に堪えた。
「行ったさ」
ふう、と息をついて、哲朗は肩を竦めた。
「出て行ったときには九州の最南端走ってた。だけどなるべく毎日電話はするようにしてたから、その晩も寝る前に電話して……そうしたら、母親が出て。
あっちは神戸の街中の人だからさ、すぐには行けなかった。だけど幸い次の仕事が関東方面だったから、途中で無理矢理実家に寄ってさ」
何しろ大型のデコトラだから、住宅地は騒然としたらしい。駐車違反で反則金は取られるし、近所の人に通報されて説明はさせられるしの大騒動。
それでも相手の決心が固く、あちらの親も非常に申し訳無さそうにしながらも、もうなかったことにしてくれと拝み倒されては引き下がるしかなかったのだ。
哲朗の中では、すっかり決着がついたことなのだろう。苦笑しながらも、すらすらと話すのを俯き加減に聞いている実の方こそ胸が苦しくて仕方なかった。
それで、と続けようとしたとき、若い女性のグループが足を止め、実は腰を上げて一つずつの説明を始めた。
可愛い綺麗と騒ぎながらも、彼女たちは箸置きなどの小物を購入してくれ、おまけにそれが新汰ではなく実が制作したものだったから、自然と顔が綻んでしまった。
垂れた眦に皺を寄せて丁寧に布きれと組紐で包む実を眺める哲朗の顔は、やや驚きの色を纏いながらも微笑ましげだった。
「また連絡してもいい?」
そう尋ねた哲朗の携帯電話は、番号が変わっていた。
実の方は昔のままだったが、改めて番号とアドレスを通信で遣り取りして、夜に荷受けに出るという哲朗を見送った。
まだ日が高い。深夜は飛ばして三十分くらいで会いに来てくれていたけれど、通常運転ならば一時間以上掛かる距離なのだ。帰宅して仮眠を取る時間はあるのだろうかと危惧しながらも、会えて良かったなと、新汰でいっぱいだった胸が凪いでいるのを自覚していた。
羽織っただけのジャケットの下にはぴったりとしたシャツしか着ていなかった。その襟ぐりから覗く胸板は厚くて逞しく、人込みに混じっても、ズバ抜けている長身のせいで見失うことはない。
客が途切れたのを良いことにぼうっと眺めていたら、もう随分距離が開いているのに、地下の駐車場へと降りるスロープで哲朗が振り向いた。
コンタクトレンズを嵌めていてもうっすらとしか判別できないが、それでも手を挙げて振っているのに気付き、こちらからも振り返す。
今、哲朗はどんな顔をしているのだろう。
きっと笑っているなと、その朗らかな笑顔を記憶の泉から浮かび上がらせ、実の表情も和んでいた。
ふと、会話の合い間に視線を向けた新汰が、それを見咎めたのには気付かないままに。
日が落ちて、撤収作業を終えて車を自宅の車庫に戻してから、打ち上げと称したいつもの飲み会に参加した。
幌布製品や国産ジーンズなどの作り手は女性が多く、飲み会はかなり華やいだものとなる。意外にも、そういう場でモテるのは実の方だったが、それは愛玩動物を愛でているのとさして変わりはない。
まあまあとどんどん日本酒を注がれ、それをくぴくぴやりながらぼおっと会話に頷き、たまに返事をする。それだけで頭を撫でられたりして嬉しそうにされるので実は楽だった。
本当なら、今夜は参加したくはなかった。
正月に実が切り出した「もう恋人はやめる」という宣言に確たる返事をもらえないまま、曖昧な関係が続いている。
とはいえ、コンビは解消したくないのも本当だから、工房ではなるべく使用時間帯が被らないようにしたり、他の誰かが居る時にしたり、自宅で出来る部分はなるべく自宅で済ませるようにしていた。
小さな作業部屋も持っているから、工具で加工する程度のアクセサリーならば自宅でも作れるのだ。
新汰は、相変わらず会話を途切れさせることなく、主に男性陣と話に花を咲かせている。
皆、専門知識が豊富だから、それぞれがあちこちに話が飛んでも付いていくことが出来るのだろう。実などは、いつも耳で聴いて勉強させてもらうだけで、口を挟む隙もない。
今いるのは、呉服屋の跡取りが開放している多目的空間で、昔の蔵を改装しているから天井が高くて演奏会などにも向いている。
作り手が多く参加する今回のようなイベントの後には、必ずといっていいほど持ち込みでの飲み会が催される馴染みの場になっているのだ。
深夜が近くなり、さてどうしたものかと実は思案した。
いつものように新汰は朝まで飲むのかもしれないが、昨夜ぎりぎりまで展示品の追加を作ったり包装用品を揃えていた実は、そろそろ睡魔に負けそうになっていた。
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