鍵を胸に抱いたまま

亨珈

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十年前の別れ

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 十年前、行き場のない思いを抱えていた実は、職場の人たちと隣の市内で忘年会の二次会をしていた。
 初めて入るバーのようなスナックのような、男の店。モノトーンの制服に蝶ネクタイを締めた新汰はなんだか七五三のようでいて、でも数分見ればそれがこの上もなく似合っているようで、何だか不思議な存在だった。
 カウンターの上に置いた携帯電話を時折ぱくんと開いては溜め息を付く実に気付いていたのだろう。なんだかんだと話し掛けてくれたことだけは憶えているのだが、会話の内容はさっぱりだった。
 ただ、その時に「モダン盆栽って知ってる?」と言われたのだけは強烈に残っている。
 デカイ図体に冬でも日焼けした肌、そして顎鬚。このご面相でモダンだ盆栽だ、苔玉だ、そんな話題が出たことに呆気に取られ、いつの間にやら教室に体験入学することに決まっていたのだった。
 もうじき終電ということで、仲間が一斉に席を立ち会計を済ませた。その時にようやく待ちわびていたメールが入り、顔つきの変わった実に新汰は驚いていた。
 おや、こんな顔もするのかと、そんな感じだったのだろう。
 その後店の外まで見送りに出て、実以外が駅へと向かった。意識して無表情にさっと踵を返して反対方向へと歩いていく実の後ろ姿を、角を曲がるまで新汰は眺めていたのだった。

 その夜のことは、実は良く憶えていないのだ。
 指定された川沿いの公園に着くと、相手はもう来ていて、ブランコの柵に尻を載せて長い足を持て余していた。
「わったん、久し振り」
「お~みのっちも元気だったか?」
 新汰よりも更にがっしりした体格の渡部哲朗(わたなべてつろう)は、長距離専門のドライバーだ。荷物の積み下ろしも自分でやるから、当然筋肉が付いている。
 実の幼馴染みに遊び仲間だと紹介されて、最初はグループで遊んでいたのだが、なかなか全員の都合が合わず途中からは二人でドライブに行くことが増えた。
 実は県南部に居住しているが、哲朗は北部である。町民全員が顔見知りのような、かなりの田舎に暮らしているらしい。
 遠距離の移動で疲れているだろうに、たまの休暇にこうして車を飛ばして会いに来てくれるのも苦にはならないようで、運転もいつも哲朗がすると言って譲らない。
 実は任せきりで申し訳なく思っているのだった。
 近くに路駐したままのセダンに乗り、いつも通り何処へとも言わずに車は走り出す。
 運転しながら近況報告をしあい、大抵は実の方が沢山喋らされる羽目になった。
 高校の事務員をしている実は、毎日さまざまな年齢の人たちと接触がある。特に生徒たちの話は哲朗に受けが良かった。大声で笑ってストレスが消えると喜ばれるから、もっともっとと頭の中からエピソードを引っ張り出しては紹介した。
 その日もそんな話をしていたのだったが、いつもより哲朗の表情が硬いのは気付いていた。
「あのな、みのっち」
 不意に、トーンが低くなり、びくりと実の肩が震えた。
 色々なパターンを想定済みだった。そのどれだろうと思いながら、道端にすうっと寄せて停車した哲朗が、自分を見詰めるのを黙って迎えた。
 瞬きをして、それから数回口を開閉させて、ようやく哲朗は声を出した。
「俺、多分今年中に結婚する」
 今年、という言葉を除けば、それはパターンの中の一つだった。だから、一瞬息を呑んだものの、実は強張った笑みを浮かべることに成功したのだった。
「そ……おめでとう」
 蚊の鳴くような声だったけれど。
 割と出会ってすぐの頃、地元の友達の話をしていたのをいつまでも憶えている。田舎だから、長男は出来るだけ早目に結婚して嫁を迎えるように言われている。哲朗自身は働きに出ていて割と高給取りだが、農家の家が多いから繁忙期には人手が必要だ。その時期だけは何処に勤めている者でも、町中が田畑に出て野良仕事をする。そんなだから、いつまでも一人身ではいられないのだと、その頃は笑って話していた。
 そんなものかと感心しながら、それでも実の記憶に残っていたのは、いつか自分にとって哲朗がかけがえのない存在になり、そうして今日みたいな日を迎える日が来ることまでも予感していたのかもしれなかった。
「じゃあ、あんまり遊べなくなるね」
 ひょこ、と首を傾げた拍子に、頬を伝い落ちる感触がして、慌ててそっぽを向いた。
 ただでさえ休日が少ないというか、県外に出ていることの多い哲朗だ。妻が出来れば、もう休日はその相手で忙しく、男同士で遊びに行くなど許してはもらえない。近隣の同年代の話をする時、これこそが年貢の納め時だと苦笑していた。
 その時が来てしまったのだ。
 窓の方へと顔を背ける実の背に、哲朗が額を押し付けた。
「みの……なんで泣く?」
 震える声を脊髄で感じて、実はもう堪えきれなくなった。ぎゅうっと両の拳を握り膝で腕を突っ張って声を押し殺している実を、哲朗は長い腕で引き寄せた。
 この時まで、二人はただの友人だった。
 少なくとも実は、自分が格別の思いを抱いていることには気付いていた。
 なかなか返信の来ないメール。いつ掛けても圏外か運転モードの携帯電話。
 いつ鳴るかと、週末の夜は何度も何度も電話機を確認した。待ち続けて苦しくて涙が溢れる夜もあった。
 こんなのは友達じゃない。そう、気付いたのはいつだったか。
 ずっと女性だけが恋愛対象だと信じていたのに、それでも友情にしては行き過ぎていると、自覚したのだ。
「悔しいんじゃない、かな」
 精一杯、なんでもないことのように、友達だから、男同士だから、先を越されてただ悔しいだけだと、そう言おうとした。
 でも、その先は続けられなかった。
「みのる」
 切なく呼び掛ける声に振り向いて、ただ押し当てるだけの、それでも十分に熱が伝わる口付けをされた。
 苦しくなるほどに抱き締められて、その後どんな会話をしたのかも憶えていない。
 その晩の記憶は、そこで途切れてしまっていた。
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