曖昧サディスティック

亨珈

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胸を苛むもの

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 夕方になると、仕事帰りに片山が立ち寄って、前日にも差し入れてくれた栄養補助のパウチと飲み物を補充してレトルトの粥も用意してくれた。

「食べられそうなら、一緒にここで食ってもいい?」

 唇の端や口の中も傷めている様子の孝也を見守り、ゼリータイプのパウチの蓋を取り持たせてくれる。過保護だなあと目元を綻ばせたものの、そんな風に甘やかされるのが少しも嫌じゃない。
 今日は無理だけど明日ならと頷くと、「朝迎えに来るよ」と強く言われた。



 健吾と三村のことが気になりつつも、孝也にもどうにも出来ない。なによりもう、なるべく健吾には関わらないようにしようと思っていた。
 何度も揺さぶられながら突きつけられたのは、自分はセックスフレンドですらなかったという事実。
 言葉と優しい態度では駄目になったから、暴力で従わせようとした。挙句に、身動きすら出来ない孝也をガンガンに冷房の効いた室内に放置し、手当てすらしなかった。きっと壊れた人形くらいの感覚なのだろう。

 もう、嫌だ。
 もう、終わったんだ……。
 いや、終わるも何も、勝手に好意を抱いていたのは俺だけで、健吾からすればテレビゲームと同じで、ただその時したかったから、身近な俺の体を使っただけで。始まってもいなかったんだ──

 玄関まで片山を見送ってから、ぼうっと窓の外を眺めながら、孝也は物思いに沈んでいた。



 翌日出勤すると、前日の欠勤と噂の尾鰭背鰭のお陰もあるのか大体察してくれているようで、殆どの者はちらりと気の毒そうに見るだけで放置しておいてくれた。
 ただ、びっこではないがぎくしゃくと辛そうに歩く孝也を見咎めて、配達区域が隣り合っている同僚たちが声を掛けてくれた。

 朝礼ギリギリに出勤してきた健吾が驚いて孝也を見て物問いたげにしていたが、反射のように細かく震えた孝也を庇って他の者が間に入って視線を遮ってくれた。

 山浦のパーティーグループが今のメンバーに定着する前、同期や年の近い同僚にも声を掛け捲り、かなりの人数に膨れ上がっていた時期もあった。その時に割と仲良くなった人は何となく察してくれたのだろう。山浦の二面性に気付き離れていった人たちだったから、思うところがあるのかもしれない。

 勿論孝也が健吾と同室だったことも知っていたから、怖くなったから部屋を変えてもらったんだと言えば、それだけでピンときたようだった。何しろ、少し落ち着いたとは言え、誰が見ても孝也の顔は殴られた様相を隠せないものだったのだから。

 配達前の戸別仕分けをしているときにも、常に両脇に誰かが付いて匿ってくれた。
 外に出てしまえば皆自分のノルマをこなさねばならないから散ってしまうが、それだけでも十分有り難かった。
 少しずつ負担の少ないように分けて受け持ってくれたお陰で、どうにか時間内に局に戻ることが出来た。

 片山と待ち合わせて、昇降口で職員証を見せながら外に出ると、道路を挟んで隣の喫茶店の敷地と歩道の間で立ち話をしている健吾の背が目に入ってきた。
 向かい合って笑っているのは三村で、片山は「またいる」と呆れたように零した。
 間にあるのは一車線の細い道路だから、すぐ駆け寄れる距離だ。それだけで足が竦む孝也に気付き、片山が声を顰めた。

「俺がいるから。吉木には触れさせない」

 軽く背中を叩かれて、孝也はぎこちなく頷いて、そろそろと並んで歩き出した。


 駐車場は、建物沿いに回って別の道路を渡らねばならない。二人からは離れる方向なのが幸いしたのか、少なくとも健吾が気付く様子はなく、無事に車に乗れたときには、孝也はびっしょりと冷や汗を掻いていた。
 さり気なく様子を窺っていた片山が、サンバイザーに引っ掛けていた眼鏡を掛けながら、あの女知ってる? と問うた。

「一度、山ちゃんと六人でテニスして、その時に一緒に遊んだよ。なんかその前に健吾に一目惚れしてたみたいで、その時からあんな感じでべたべたしてる」

 思えば、決定的に何かが変わってしまったのはあの時なのだろう。表情が曇った孝也を確認しながら、片山は車を出した。

「へえ、じゃあ付き合ってるのはホントなんだな」

 うん、と首肯する孝也を横目で見ながら、意識は前方に。

「それなのに祭で水上さんと一緒に居たからって、帰ったらボコられたのか」

 何拍か待っても孝也は声を出さず、ただ何処か痛むように顔を歪めるのを見て、最低だな、と片山は吐き捨てた。

 片山も、健吾が誰かや何かに執着が薄いのは知っている。片山も水上を狙っていたが、健吾もそんな感じであわよくばという程度なのだと思っていた。
 だから、まさかそんな暴挙に出るとは夢にも思っていなかったのだ。

 正直、そこまで好きだったんなら他の女と付き合う前にちゃんと告白しろ、と思っていた。
 片山は、山浦や中田のように相手を見て態度を変える人間を嫌悪している。
 中田の方は、同族嫌悪なのか、山浦とは行動を共にしない上、もっと言うなら男とつるむのも嫌いなようで、仕事の付き合い以外は必ず誰か一人の女性と共に居る。いっそそれくらいきっぱりしていればそれなりにしか付き合わなくて済むので、中田のことは皆そういうやつなのだと割り切っているのだ。

 だが、山浦は違う。
 きっと一人でいるのが耐えられないのだろうというくらい、時間があれば約束を取り付け大人数で集まるのを好む。目的は中田と同じ癖に、手段として見目の良い男で釣って集めようとするところが片山は大嫌いだった。

 孝也もそうだが、誰だって初めての場所で孤独になるのは辛い。だから最初は誰彼なしに群れて遊んでいたし、暫くはそれで楽しかった。けれど、数ヶ月も経たないうちに山浦の魂胆を見抜いた片山は、少しずつ距離を置きいつのまにか完全に出入りしなくなった。その頃はまだメンバーの入れ替わりも激しくて、毎回は参加しない人も多かったから、目立つことなく抜けられたのだ。

 だが、いつの間にかメンバーは固定され、女性は年上が三人と同期が二人、そして山浦の他には孝也と健吾。女性が毎回全員集まるわけではないので、男の人数はそれで十分なようだった。

 現場を見なくとも、以前の様子から彼らの力関係は手に取るように解っていた。だが、気にはなりつつも、孝也がそれで良いと割り切っているなら口は出すまいと思っていたのだ。
 何より、山浦はともかく健吾はちゃんと孝也のことはルームメイトとして大事にしているようだった。だから二人とも出汁に使われているとしても、楽しんでいるならそれでいいと思っていた。

 それなのに。

 今、隣でぼうっと車外の景色を眺めている孝也を見て、胸の奥にちくりと棘が刺さっているかのように痛む。
 確かに、山浦は口は出しても手は出さないだろうと軽んじていた。しかし、健吾が暴力に訴えるとも、また思わなかったのだ。

 もしかしたら、官舎を出てから片山の見えないところで関係が変わっていたのかもしれない。それは自分にも防げたかもしれないことだと思うと、ちくちくと胸が痛むのだった。
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