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得体の知れない不安
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あれよあれよと孝也の個室内の物は新しい部屋へと移され、冷蔵庫やキッチン用品、そして小さな水屋とその中身も殆どが孝也の私物だったため運び出された。
ダイニングセットに残っていた健吾のカップなどは流しの横の僅かなスペースに布巾を敷いて伏せる。妙に忌々しくて、片山はつい舌打ちしてしまった。
洗濯機とエアコンは官舎の備品だからそのままで良いのは幸いだった。流石にエアコンまでは即日に手を回せない。
最後にもう一度ゆっくりと全体を見回し、風呂の小物や靴箱の中身までチェックして、痕跡が残らないようにと目を凝らす。
帰宅したら、外からこの部屋を見上げるだろうか。
窓にカーテンが掛かっていないことに気付くだろうか。
どの時点で気付くか少し楽しみだと、片山は押入れも襖もきっちり閉め、玄関の鍵を掛けてからドア横にあるプレートの〈吉木〉と書かれた紙を抜いた。
どうにか日が落ちる前に全てが終わり、ガスは無理だが電気だけは通じるようにしてもらった。一つの建物内だからなのか、対応が速かった。
ただ、電話線はすぐには無理で、移動前に元の部屋から連絡をして簡単に事情を話し、官舎内で部屋を替わるだけだから翌週には何とかなると請け負ってくれた。
他に見落としはないかと必死になって考えながら、孝也の眠っている側で畳を拭いたり小物を並べ直したりして片山は部屋を整えて過ごした。
街路灯がぽつぽつと灯り始める頃、ようやく孝也が目を開けた。
木田夫婦の部屋から分けてもらった保冷剤で冷やしたお陰か、瞼と頬の腫れは少しはマシになっている。開口一番に「ありがとう」と言った孝也の手を握り、片山は泣きそうになりながら小さく首を振った。
「どうして庇うんだ……」
あんな奴、と口籠り、片山は孝也の手首にそっと唇を寄せた。布団のすぐ傍に、鋏と紙紐が転がっていた。抉れた皮膚にこびり付いた血は乾いていたけれど、桃色の肉が覗いている箇所すらある。
突然の凶行の理由が解らず、ただそれでも孝也をどうにかしなければと必死に部屋替えをした。冷静になってみれば、そこまでしなくとも、取り敢えず自分の部屋に連れ帰っても良かったのではないのかと思い、気が滅入っている。
それでも、これ以上健吾の傍に居させるのは危険だと、何かが告げていた。
孝也は不思議そうに片山の仕草を眺め、けれど嫌そうにはしていない。ゆっくりと呼吸しながら、ありがとうと重ねて微笑んだ。
ずっとうとうとしていたせいか、夜明けと共にきちんと意識が覚醒し、時折何かに掴まりながらなら歩き回れるほどに回復していた。
当日は自力では立つこともままならず、片山に手伝ってもらって用足しした。泊まろうかと心配していたが、翌日の仕事もあるからとなんとか帰ってもらったものの、正直言ってその後は大変だった。打撲の大半は上半身だから、無理矢理にされた下半身さえ回復すれば、仕事には復帰できるだろう。
だが、あらぬところが腫れて脱肛気味になっており、気付いた時には自分で中に戻しながら過ごさないと、何しろ普段は体内に収まっているものが突出して擦れるのだから痛くて堪らない。ついに痔の薬のお世話になるときが来たのかと嘆息してしまう。
今日は休むと片山が伝言してくれた筈だけれど、翌日、本当にバイクに乗れるのか、怪しいところだった。
昼になった頃、チャイムが鳴って驚いた。
一応隣の住人には片山が事情を話してくれているが、孝也の同期の窓口勤務の女性二人で、山浦グループとは別に水上が親しくしている人たちだから安心して良いと言われた。
しかし、水上を含め、現在は皆勤務時間内だろう。おそらく舎監だろうと一応覗き窓を見ると、なんと課長が立っていた。
慌てて内鍵を開けてドアを押すと、隙間から壮年の男性が滑り込んで来て、靴脱ぎに立ったまま後ろ手にドアを閉めた。
きっと人目を気にしてくれたのだろう。
そうして、孝也の顔をまじまじと見詰めて眉を顰めた。
「様子を見に来て良かったよ。片山の言っていた通り、とても大丈夫とは思えない」
立っているのも辛いだろう、少し上がらせてもらっていいかい。そう言って待っているから、どうぞと声を掛けてから、ひょこひょこと緩慢な動作で和室に戻る孝也の後を、課長の板谷は付いて行った。
寝ていてくれて良いからと言われても、流石に上司の手前それも出来ず、孝也は板谷と向き合ってダイニングセットの椅子に腰掛けた。
「隣接しているエリアの人にちょっとずつ分けて受け持ってもらって、僕も現場に出てみたんだよ。いやあ、久し振りに動いて筋肉痛になりそうだね」
そう言って声に出して笑い、夏期休暇を延長させてもう何日か休んで良いからと言ってくれる板谷。
「お気遣いは嬉しいんですが」
長引けば長引くほど、現場に戻り難くなる。それは孝也の心次第なのかもしれないが、休暇に入るシーズンなだけに他の局員に迷惑を掛けたくなかった。
「良かったら、手伝ってもらう分だけそのままで、残りは自分で配りたいと思います」
そうか、と板谷はくしゃりと申し訳無さそうに笑い、まああまり詮索したくはないんだけど、とそっと孝也を窺った。
「水上さんと、夏祭りに行っていたんだろう? その友人らしき凄い美人と三人で仲良く歩いているところなら何人も見ていて、祭りの後局に集まって打ち上げで話のネタにもなっていたんだよ。で、ああ吉木はこれからいじられるぞって言っていたんだが……まさかこんな」
語尾を濁し、見詰めるその瞳は「それだけでこうまで」と尋ねている。
「俺にも解らないんです……家に帰って、シャワー浴びて出たらいきなり殴られて、今朝になってようやく立ち歩くことが出来るようになって。
ただ、他の男もそうですけど、内林は俺に裏切られた気分だったのかもしれません。本当に、偶然あそこで会っただけで、俺はその前に図書館に居たんですよ。ずっと勉強してて、本当は昨日も片山と約束してて」
まだ掠れて辛そうに喋る孝也を、板谷は「約束してて、良かったと思うよ」と押し留めた。
「それは片山も言ってたよ。図書館で待ち合わせしてて、時間になって探してみたけれど見つからなくて、それで家に電話を掛けたらなかなか出ない上にようやく出ても喋らなくて、挙句に死にそうな声で助けてと」
「ベルの音で意識が戻ったんです」
はあ、と板谷は大きく吐息した。
官舎に残っていたものも若干名いて、片山の呼び声や舎監たちがうろうろする姿も見咎められている。その後は家財を運ぶ男たちが行ったり来たりしているわで、何事があったのかと噂になっているらしい。
「朝礼の後、内林は色々訊かれていたみたいだけどね。まあ僕も呼び寄せようかと思っていたけど、まずは君の意志を尊重しようと思って。処分させたくはないんだろう?」
緑のスラックスを履いた足で胡坐を組み、その足首を持って板谷は不満そうに口をへの字にしている。
「はい。カッとなって手を出しちゃったけど、でも後悔していると思うんです。それだけでいいです。でも……」
言葉を切って俯いた孝也に、板谷は気の毒そうに頷いた。そうだな、わかるよ。
「怖いよな、また同じようなことされるかもしれないし。うん、だから部屋を変えてもらったのは正解だよ。仕事が速くて驚いたよ、流石片山だねえ」
特に社交的なわけではないが、片山は同僚としてはとても信頼できる存在だ。一度聞けば憶えるし、ミスもしない上トラブルの対処も迅速だ。だから上司にも受けが良い。
内林といえば、と板谷はハッと手を打った。
思い出した思い出した、と続ける。
「割と最近だけど、出待ちっていうか、ロングヘアのちっさい子が局の周りで待ってるようだね。人待ち顔だから誰かが声を掛けたらしくて、内林の婚約者だとか言ってて、それ聞いた皆驚いてたよ」
「婚約者、ですか」
外見からして三村に思えるのだが、少し前ならまだ付き合っても居なかった筈で、それでどうして婚約者だなんて名乗るのだろう。
首を傾げる孝也に、やっぱりと板谷は眉を顰めた。
「僕が直接見ているわけじゃないけど、複数から聞いたから事実は事実だと思うよ。だけど同室だった吉木がそんな顔するんじゃ、言っている内容はでまかせっぽいな」
それから腕時計を見て、板谷は腰を上げた。
ゆっくり休んで、明日出勤後にやっぱり無理だと思ったらすぐに言ってくれ。対応できるように準備しておくから。
そう言って去った後に、孝也の胸の中には得体の知れない不安が膨らんできていたのだった。
ダイニングセットに残っていた健吾のカップなどは流しの横の僅かなスペースに布巾を敷いて伏せる。妙に忌々しくて、片山はつい舌打ちしてしまった。
洗濯機とエアコンは官舎の備品だからそのままで良いのは幸いだった。流石にエアコンまでは即日に手を回せない。
最後にもう一度ゆっくりと全体を見回し、風呂の小物や靴箱の中身までチェックして、痕跡が残らないようにと目を凝らす。
帰宅したら、外からこの部屋を見上げるだろうか。
窓にカーテンが掛かっていないことに気付くだろうか。
どの時点で気付くか少し楽しみだと、片山は押入れも襖もきっちり閉め、玄関の鍵を掛けてからドア横にあるプレートの〈吉木〉と書かれた紙を抜いた。
どうにか日が落ちる前に全てが終わり、ガスは無理だが電気だけは通じるようにしてもらった。一つの建物内だからなのか、対応が速かった。
ただ、電話線はすぐには無理で、移動前に元の部屋から連絡をして簡単に事情を話し、官舎内で部屋を替わるだけだから翌週には何とかなると請け負ってくれた。
他に見落としはないかと必死になって考えながら、孝也の眠っている側で畳を拭いたり小物を並べ直したりして片山は部屋を整えて過ごした。
街路灯がぽつぽつと灯り始める頃、ようやく孝也が目を開けた。
木田夫婦の部屋から分けてもらった保冷剤で冷やしたお陰か、瞼と頬の腫れは少しはマシになっている。開口一番に「ありがとう」と言った孝也の手を握り、片山は泣きそうになりながら小さく首を振った。
「どうして庇うんだ……」
あんな奴、と口籠り、片山は孝也の手首にそっと唇を寄せた。布団のすぐ傍に、鋏と紙紐が転がっていた。抉れた皮膚にこびり付いた血は乾いていたけれど、桃色の肉が覗いている箇所すらある。
突然の凶行の理由が解らず、ただそれでも孝也をどうにかしなければと必死に部屋替えをした。冷静になってみれば、そこまでしなくとも、取り敢えず自分の部屋に連れ帰っても良かったのではないのかと思い、気が滅入っている。
それでも、これ以上健吾の傍に居させるのは危険だと、何かが告げていた。
孝也は不思議そうに片山の仕草を眺め、けれど嫌そうにはしていない。ゆっくりと呼吸しながら、ありがとうと重ねて微笑んだ。
ずっとうとうとしていたせいか、夜明けと共にきちんと意識が覚醒し、時折何かに掴まりながらなら歩き回れるほどに回復していた。
当日は自力では立つこともままならず、片山に手伝ってもらって用足しした。泊まろうかと心配していたが、翌日の仕事もあるからとなんとか帰ってもらったものの、正直言ってその後は大変だった。打撲の大半は上半身だから、無理矢理にされた下半身さえ回復すれば、仕事には復帰できるだろう。
だが、あらぬところが腫れて脱肛気味になっており、気付いた時には自分で中に戻しながら過ごさないと、何しろ普段は体内に収まっているものが突出して擦れるのだから痛くて堪らない。ついに痔の薬のお世話になるときが来たのかと嘆息してしまう。
今日は休むと片山が伝言してくれた筈だけれど、翌日、本当にバイクに乗れるのか、怪しいところだった。
昼になった頃、チャイムが鳴って驚いた。
一応隣の住人には片山が事情を話してくれているが、孝也の同期の窓口勤務の女性二人で、山浦グループとは別に水上が親しくしている人たちだから安心して良いと言われた。
しかし、水上を含め、現在は皆勤務時間内だろう。おそらく舎監だろうと一応覗き窓を見ると、なんと課長が立っていた。
慌てて内鍵を開けてドアを押すと、隙間から壮年の男性が滑り込んで来て、靴脱ぎに立ったまま後ろ手にドアを閉めた。
きっと人目を気にしてくれたのだろう。
そうして、孝也の顔をまじまじと見詰めて眉を顰めた。
「様子を見に来て良かったよ。片山の言っていた通り、とても大丈夫とは思えない」
立っているのも辛いだろう、少し上がらせてもらっていいかい。そう言って待っているから、どうぞと声を掛けてから、ひょこひょこと緩慢な動作で和室に戻る孝也の後を、課長の板谷は付いて行った。
寝ていてくれて良いからと言われても、流石に上司の手前それも出来ず、孝也は板谷と向き合ってダイニングセットの椅子に腰掛けた。
「隣接しているエリアの人にちょっとずつ分けて受け持ってもらって、僕も現場に出てみたんだよ。いやあ、久し振りに動いて筋肉痛になりそうだね」
そう言って声に出して笑い、夏期休暇を延長させてもう何日か休んで良いからと言ってくれる板谷。
「お気遣いは嬉しいんですが」
長引けば長引くほど、現場に戻り難くなる。それは孝也の心次第なのかもしれないが、休暇に入るシーズンなだけに他の局員に迷惑を掛けたくなかった。
「良かったら、手伝ってもらう分だけそのままで、残りは自分で配りたいと思います」
そうか、と板谷はくしゃりと申し訳無さそうに笑い、まああまり詮索したくはないんだけど、とそっと孝也を窺った。
「水上さんと、夏祭りに行っていたんだろう? その友人らしき凄い美人と三人で仲良く歩いているところなら何人も見ていて、祭りの後局に集まって打ち上げで話のネタにもなっていたんだよ。で、ああ吉木はこれからいじられるぞって言っていたんだが……まさかこんな」
語尾を濁し、見詰めるその瞳は「それだけでこうまで」と尋ねている。
「俺にも解らないんです……家に帰って、シャワー浴びて出たらいきなり殴られて、今朝になってようやく立ち歩くことが出来るようになって。
ただ、他の男もそうですけど、内林は俺に裏切られた気分だったのかもしれません。本当に、偶然あそこで会っただけで、俺はその前に図書館に居たんですよ。ずっと勉強してて、本当は昨日も片山と約束してて」
まだ掠れて辛そうに喋る孝也を、板谷は「約束してて、良かったと思うよ」と押し留めた。
「それは片山も言ってたよ。図書館で待ち合わせしてて、時間になって探してみたけれど見つからなくて、それで家に電話を掛けたらなかなか出ない上にようやく出ても喋らなくて、挙句に死にそうな声で助けてと」
「ベルの音で意識が戻ったんです」
はあ、と板谷は大きく吐息した。
官舎に残っていたものも若干名いて、片山の呼び声や舎監たちがうろうろする姿も見咎められている。その後は家財を運ぶ男たちが行ったり来たりしているわで、何事があったのかと噂になっているらしい。
「朝礼の後、内林は色々訊かれていたみたいだけどね。まあ僕も呼び寄せようかと思っていたけど、まずは君の意志を尊重しようと思って。処分させたくはないんだろう?」
緑のスラックスを履いた足で胡坐を組み、その足首を持って板谷は不満そうに口をへの字にしている。
「はい。カッとなって手を出しちゃったけど、でも後悔していると思うんです。それだけでいいです。でも……」
言葉を切って俯いた孝也に、板谷は気の毒そうに頷いた。そうだな、わかるよ。
「怖いよな、また同じようなことされるかもしれないし。うん、だから部屋を変えてもらったのは正解だよ。仕事が速くて驚いたよ、流石片山だねえ」
特に社交的なわけではないが、片山は同僚としてはとても信頼できる存在だ。一度聞けば憶えるし、ミスもしない上トラブルの対処も迅速だ。だから上司にも受けが良い。
内林といえば、と板谷はハッと手を打った。
思い出した思い出した、と続ける。
「割と最近だけど、出待ちっていうか、ロングヘアのちっさい子が局の周りで待ってるようだね。人待ち顔だから誰かが声を掛けたらしくて、内林の婚約者だとか言ってて、それ聞いた皆驚いてたよ」
「婚約者、ですか」
外見からして三村に思えるのだが、少し前ならまだ付き合っても居なかった筈で、それでどうして婚約者だなんて名乗るのだろう。
首を傾げる孝也に、やっぱりと板谷は眉を顰めた。
「僕が直接見ているわけじゃないけど、複数から聞いたから事実は事実だと思うよ。だけど同室だった吉木がそんな顔するんじゃ、言っている内容はでまかせっぽいな」
それから腕時計を見て、板谷は腰を上げた。
ゆっくり休んで、明日出勤後にやっぱり無理だと思ったらすぐに言ってくれ。対応できるように準備しておくから。
そう言って去った後に、孝也の胸の中には得体の知れない不安が膨らんできていたのだった。
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