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Endress Happiness
恐慌のきっかけ
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今更だが、林は勿論のこと山根もカジュアルな普段着の装いだ。祐次が作業着で職場に通っていたから、山根は今日休みなのだろうか。
尋ねると、きょとんと頷かれてしまった。
「それがどうか?」
「いや、祐次は日祝に休んだことがないから、てっきり正社員は休めないんだと」
誠也の返答に、山根は苦笑した。
「用事があれば休みますよ。大田だって現場が大変な日には本社に行かなくたっていいんです。こいつが要領悪いだけ」
肩を竦める隣では、わらび餅に噛み付きながら林もうんうんと頷いている。
「なんでも引き受けてくれて自分が楽になるから大田が市村と組みたがるんですよ。いくら上司だからって全部従う義理なんてないし。あの人基本的に奥さんと子供のことしか見えてないから、こっちから請求しないとまともに休みなんか取れないんで。遠慮するだけバカを見るんです。責任者は大田なんだから、いざとなればあの人だってどうにかするんですよ」
さらりと言ってのけているが、それが出来ない性分の祐次は視線が泳いでしまっている。
「それにしてもここの現場は酷いなあ。二年経ってこれじゃあもう改善無理でしょって」
これは誠也に向けたものではないのか、口調が砕けて、げんなりした表情になっている。
「そりゃあ必要だから夜間とかワックスや剥離には入るけどさ、シフトが埋まらないなんて有り得ねえだろ」
「だなー。聞いたときしまかしたわ~」
林の言に、山根が「驚いた、だろう」と注釈を付けてくれる。なかなか気の利く人だったらしい。
ここのモールしか知らない誠也は、そうですかとしか言いようがなかった。
「大田は認めないだろうけど、今度本社行ったら常務にチクってやる。ヒラ社員舐めんなよ」
「ははッ。俺も改善提案書いといちゃるわ」
「だから改善は無理だって。ここだけ正社員の常駐増やすなら別だけどさあ。つか、他の現場は本社の常駐なしで回ってんだから、撤退だろ撤退」
ぽんぽん言い合う山根と林の間に、思わず誠也は口を挟んでしまった。
「撤退なんてあるんですか」
半分冗談で話していたのだろうが、真剣そのものの誠也を見て、山根は訝しげに眉を寄せた。
「ないとは言い切れないですね。ここだけです。色々と後手後手になって、SC側からクレームも来ているのは。よそは穏便にやってますよ」
それも解っているのか、口を噤んだままの祐次は俯いてしまった。
そんな祐次を励まそうと、誠也は自分の前にある手をそっと包み込んだ。二人からも見えているだろうが、どう思われようと構わない。
「なあ、市村。大田に強く出られないなら、治った後に現場に戻るのは止めとけよ。俺だって長居したくない。アパートは会社名義で借りて数ヶ月ごとに社員を交代させるのが差し当たってはいいと思う」
表情を引き締めて諭すように言う山根に、祐次は目を合わせずに頷いた。
祐一と話したときにはまだ皮算用だと感じたことが、現実になろうとしているのかもしれない。
まだはっきりとはしない未来の形に、それでも誠也は茫洋たる不安を抱えていた。
残った分は備え付けの冷蔵庫に仕舞い、腕時計を見て林が山根を促す。
「そろそろ御暇しようや。ランチ行こうランチ~」
「おお、もうそんな時間か」
腰を上げながら、「木村さんも一緒にどう?」と林が気さくに声を掛けてくる。
誠也は自分用にはサンドイッチを持参している。休日にはここで一緒に食事を済ませて歩行訓練に付き合っているからだ。
林は休暇でこちらに来ていて、見舞いがてら観光して帰ると言っている。土地勘のない山根と二人よりも、誠也が居る方が良い場所に案内してくれそうだと考えているらしい。
一瞬だけ、食事がてらもう少し詳しく会社のことを聞きたいと思ってしまった。そしてそれを祐次に見抜かれてしまった。
あ、あ、と声を漏らして、体を震わせて祐次が頭を抱え込む。
祐香の時にはまだ満足に声が出せていなかった。しかし、半端に回復していることが今は仇となった。
絶叫が、室内を震わせた。
立ち上がりベッド脇に居た林と山根は、引き攣った表情で恐怖交じりの眼差しを祐次に向けている。
「祐次!」
誠也だけが、躊躇なくベッドの上に膝を乗り上げて祐次を抱き締めていた。
はあはあと荒い息をつく頭と、ガクガク震え続ける肩を広い胸の中に抱きこんで外界から隔離する。
目配せで、二人には行ってくれと伝えながら、優しく優しく名を呼び続けた。
「ごめんな、行かないよ、何処にも行かないから。ここにいるから。一緒にご飯を食べよう、な?」
硬直が解けて、林と山根がそっと出て行った。それを確認してから、誠也は駄目押しのようにまた耳元で囁く。
「祐次、好きだよ。俺はここに居る。だから安心して」
出て行った二人と入れ替わるようにスタッフが駆け付けたが、その時にはもう祐次の震えは治まっていて、誠也は小さな声で「後で説明しますから」と告げた。
鮎原ではなかったが、心得ているのだろう。踵を返すスタッフの向こうから、台車に載せた昼食を配るスタッフが現れたのだった。
祐香の時と、先刻と。
誠也はもう確信していた。切っ掛けは自分だ。誠也が祐香と腕を組んでいたから、その相手が妹であると認識するより前に誠也を取られるという恐怖に支配された。そして今日は、通常ならば祐次と共に昼食を取る筈の誠也が同僚たちと行ってしまうのではという懸念から恐慌に陥った。
程度の差こそあれ、その感情は人間誰しもが持っているものだと思う。そして祐次の場合はきっと今までそれほどに執着する相手が居なかったのだ。
誠也と出会い、惹かれ合い、ようやく付き合いが始まり、これからというときに、ごく普通の生活を営むことすら不可能になった。そんな自分を嫌悪し、そうなれば今の自分から誠也が離れて行くのは想像するだけでかなりの苦痛を与える筈だ。
常ならば、それでも態度には出さなかったろう。もしも、あの時、呼吸が止まっていなかったならば。停止から三分以内に復活していれば。
激しい感情の発露は、多かれ少なかれ低酸素の影響を受けているのだと、誠也は感じていた。
術後せん妄、という言葉がある。調べ物をしていて見つけた。それは手術をきっかけに起こる急性の意識障害で、先程の祐次のように取り乱したりする行動も含まれる。だが、多くは一過性のもので、術後徐々に落ち着くものだという。
更に、せん妄の兆候が出た際に取ると良いと言われている対処は最初からされていて、当てはまらない。それでは足らないのだろうと言われればその通りなのだが、夜に悪化すると言われている症状も見られない。その辺りは、室外で鮎原に確認済みである。
責任感だけではない、好きだから大切だから傍に居るんだと、それだけは解っていて欲しくて、言葉と態度で示し続けるしかないと思った。
尋ねると、きょとんと頷かれてしまった。
「それがどうか?」
「いや、祐次は日祝に休んだことがないから、てっきり正社員は休めないんだと」
誠也の返答に、山根は苦笑した。
「用事があれば休みますよ。大田だって現場が大変な日には本社に行かなくたっていいんです。こいつが要領悪いだけ」
肩を竦める隣では、わらび餅に噛み付きながら林もうんうんと頷いている。
「なんでも引き受けてくれて自分が楽になるから大田が市村と組みたがるんですよ。いくら上司だからって全部従う義理なんてないし。あの人基本的に奥さんと子供のことしか見えてないから、こっちから請求しないとまともに休みなんか取れないんで。遠慮するだけバカを見るんです。責任者は大田なんだから、いざとなればあの人だってどうにかするんですよ」
さらりと言ってのけているが、それが出来ない性分の祐次は視線が泳いでしまっている。
「それにしてもここの現場は酷いなあ。二年経ってこれじゃあもう改善無理でしょって」
これは誠也に向けたものではないのか、口調が砕けて、げんなりした表情になっている。
「そりゃあ必要だから夜間とかワックスや剥離には入るけどさ、シフトが埋まらないなんて有り得ねえだろ」
「だなー。聞いたときしまかしたわ~」
林の言に、山根が「驚いた、だろう」と注釈を付けてくれる。なかなか気の利く人だったらしい。
ここのモールしか知らない誠也は、そうですかとしか言いようがなかった。
「大田は認めないだろうけど、今度本社行ったら常務にチクってやる。ヒラ社員舐めんなよ」
「ははッ。俺も改善提案書いといちゃるわ」
「だから改善は無理だって。ここだけ正社員の常駐増やすなら別だけどさあ。つか、他の現場は本社の常駐なしで回ってんだから、撤退だろ撤退」
ぽんぽん言い合う山根と林の間に、思わず誠也は口を挟んでしまった。
「撤退なんてあるんですか」
半分冗談で話していたのだろうが、真剣そのものの誠也を見て、山根は訝しげに眉を寄せた。
「ないとは言い切れないですね。ここだけです。色々と後手後手になって、SC側からクレームも来ているのは。よそは穏便にやってますよ」
それも解っているのか、口を噤んだままの祐次は俯いてしまった。
そんな祐次を励まそうと、誠也は自分の前にある手をそっと包み込んだ。二人からも見えているだろうが、どう思われようと構わない。
「なあ、市村。大田に強く出られないなら、治った後に現場に戻るのは止めとけよ。俺だって長居したくない。アパートは会社名義で借りて数ヶ月ごとに社員を交代させるのが差し当たってはいいと思う」
表情を引き締めて諭すように言う山根に、祐次は目を合わせずに頷いた。
祐一と話したときにはまだ皮算用だと感じたことが、現実になろうとしているのかもしれない。
まだはっきりとはしない未来の形に、それでも誠也は茫洋たる不安を抱えていた。
残った分は備え付けの冷蔵庫に仕舞い、腕時計を見て林が山根を促す。
「そろそろ御暇しようや。ランチ行こうランチ~」
「おお、もうそんな時間か」
腰を上げながら、「木村さんも一緒にどう?」と林が気さくに声を掛けてくる。
誠也は自分用にはサンドイッチを持参している。休日にはここで一緒に食事を済ませて歩行訓練に付き合っているからだ。
林は休暇でこちらに来ていて、見舞いがてら観光して帰ると言っている。土地勘のない山根と二人よりも、誠也が居る方が良い場所に案内してくれそうだと考えているらしい。
一瞬だけ、食事がてらもう少し詳しく会社のことを聞きたいと思ってしまった。そしてそれを祐次に見抜かれてしまった。
あ、あ、と声を漏らして、体を震わせて祐次が頭を抱え込む。
祐香の時にはまだ満足に声が出せていなかった。しかし、半端に回復していることが今は仇となった。
絶叫が、室内を震わせた。
立ち上がりベッド脇に居た林と山根は、引き攣った表情で恐怖交じりの眼差しを祐次に向けている。
「祐次!」
誠也だけが、躊躇なくベッドの上に膝を乗り上げて祐次を抱き締めていた。
はあはあと荒い息をつく頭と、ガクガク震え続ける肩を広い胸の中に抱きこんで外界から隔離する。
目配せで、二人には行ってくれと伝えながら、優しく優しく名を呼び続けた。
「ごめんな、行かないよ、何処にも行かないから。ここにいるから。一緒にご飯を食べよう、な?」
硬直が解けて、林と山根がそっと出て行った。それを確認してから、誠也は駄目押しのようにまた耳元で囁く。
「祐次、好きだよ。俺はここに居る。だから安心して」
出て行った二人と入れ替わるようにスタッフが駆け付けたが、その時にはもう祐次の震えは治まっていて、誠也は小さな声で「後で説明しますから」と告げた。
鮎原ではなかったが、心得ているのだろう。踵を返すスタッフの向こうから、台車に載せた昼食を配るスタッフが現れたのだった。
祐香の時と、先刻と。
誠也はもう確信していた。切っ掛けは自分だ。誠也が祐香と腕を組んでいたから、その相手が妹であると認識するより前に誠也を取られるという恐怖に支配された。そして今日は、通常ならば祐次と共に昼食を取る筈の誠也が同僚たちと行ってしまうのではという懸念から恐慌に陥った。
程度の差こそあれ、その感情は人間誰しもが持っているものだと思う。そして祐次の場合はきっと今までそれほどに執着する相手が居なかったのだ。
誠也と出会い、惹かれ合い、ようやく付き合いが始まり、これからというときに、ごく普通の生活を営むことすら不可能になった。そんな自分を嫌悪し、そうなれば今の自分から誠也が離れて行くのは想像するだけでかなりの苦痛を与える筈だ。
常ならば、それでも態度には出さなかったろう。もしも、あの時、呼吸が止まっていなかったならば。停止から三分以内に復活していれば。
激しい感情の発露は、多かれ少なかれ低酸素の影響を受けているのだと、誠也は感じていた。
術後せん妄、という言葉がある。調べ物をしていて見つけた。それは手術をきっかけに起こる急性の意識障害で、先程の祐次のように取り乱したりする行動も含まれる。だが、多くは一過性のもので、術後徐々に落ち着くものだという。
更に、せん妄の兆候が出た際に取ると良いと言われている対処は最初からされていて、当てはまらない。それでは足らないのだろうと言われればその通りなのだが、夜に悪化すると言われている症状も見られない。その辺りは、室外で鮎原に確認済みである。
責任感だけではない、好きだから大切だから傍に居るんだと、それだけは解っていて欲しくて、言葉と態度で示し続けるしかないと思った。
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