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cherish
突然の呼び出し
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「やあ市村くん、留守番ありがとう」
人好きのする優しげな風貌の大田は、やはり祐次より頭一つ大きくて体格もしっかりしている。いつも微笑を浮かべているのは誠也と同じなのに、何処か卑屈な感じに取れてしまうのは何故なんだろうと思いながら、ぺこりと頭を下げた。
「おかえりなさい。いい休暇でしたか?」
「久し振りにたっぷりマナちゃんと遊んできたよ。うっかりしてると顔を忘れられてしまうからなあ」
頂きますと言って外郎の袋を開けている隣に座って、見て見てと携帯電話の写真を開いて目の前に掲げてくる。まだ二歳の誕生日が来ていない一人娘は、母親似なのか大田のように目元が垂れていない。仕方ないので、鼻の形が係長と似ていますねと言うと、そうかなあとますます脂下がった表情で次々と写真を開いては見せて行った。
正直祐次にはどうでも良いのだったが、可愛いですねと適当に相槌を打ちながら、外郎も美味しいですねと褒めておくのを忘れない。大田は特に褒められると何処までも機嫌が良くなるタイプだから話を合わせるのは簡単だった。
けれど、頼りになる上司だとは思えない。ただ、一代でのし上がった現役社長がとても尊敬できる人物で、その人の次男だから無碍には出来ないのだ。
出世したいとは思わないけれど、こんな人でも少しずつ本社でのポジションが上がって行くんだろうなと少し悔しくならないわけではなかったが。
ひとしきり休暇中の娘の行動などを聞かされた後で、ようやく仕事の話になる。現場ではさして混乱が起きなかったものの、夜間スタッフの負傷の件だけはきっちりと報告した。長引くようなら一人補充しなければならない。夜間はアルバイトだから比較的人が集まりやすいのだけれど、即戦力にはならないから一週間以上誰かが付いて指導しなければならない。それはどの時間帯でも同じことなのだが、夜は特に作業時間が短くパッと出てサッと終わらせないとならないのがネックだった。モールのあちこちに降りるシャッターの閉まる時間に合わせて移動しながらの作業なのだ。
警備部がチェックしているけれど、閉じ込められると大変なことになる。
「一応募集掛けるか」
大田も首を捻っていたが、そこらの外交的なことは祐次はあまり関与していない。スタッフが足りない時には指導に出るが、面接や募集の事務仕事は係長と所長の役割と決めて、手をつけないことにしている。
ノックの音がして、挨拶と共に水上が出勤してきた。
昨日はありがとうと頭を下げる祐次ににこりと頷いてから、大田と交互に顔を見て戸惑いながら姿勢を正している。
「あの、ゼネラルマネージャーが、話があると。私と大田さんと市村さんと三人に来て欲しいとお待ちです」
途端に二人の顔が固まった。
ゼネラルマネージャーとは、日本各地にあるショッピングモールの現場においては、本社から配置される最高権力者である。そんな人から呼び出されるなど、余程のクレームでないと有り得ない。
緊張の冷や汗を垂らす二人の前でロッカーの方へと滑り込むと、水上はシャッと仕切りのカーテンを閉めた。
沈黙に包まれた控え室内に、着替えの衣擦れの音だけがささやかに響く。靴下と靴に至るまで制服に身を包んだ水上がカーテンを開けたとき、大田と祐次は揃って腰を上げた。
「長くないと良いんですが」
きっちりとシフトに組み込まれている水上は腕時計を気にしながらも、通路を挟んでの斜向かいにある事務室の扉をノックして失礼しますと入って行く。そうしてからようやく入る順を間違えたと足を止めて、ドアを押さえてから上司二人の入室を待ち静かに閉めてから後に続いた。
殆どの職員が自分の席に着いて仕事をしている中、椅子と椅子の合間をすり抜けて一番奥へと向かう。応接室は別に存在しているけれど、今回はそこまで改まってもいないしその他の職員の耳に入っても差し支えない内容なのだろう。
奥のデスクの手前で他の職員と立ったまま話をしていたマネージャーの須脇が三人に目を留めて会釈した。五十を越えたところで気力体力貫禄と十分に兼ね備えた人物である。きっちりと三つ揃えを着こなし腹も出ていない。店内でもバックヤードでも誰にでも挨拶をして颯爽と歩く姿はトップたるに相応しいと周りに示しているかのようだ。
「単刀直入に言うが、水上さんを日勤の常駐には出来ないのかね」
大田も市村もてっきりクレームだと構えていただけに、予想外の問い合わせにぽかんと口を開けて返答に詰まってしまった。そんな上司二人を情け無さそうに横目で一瞥して、水上が口を開く。
「それは色々な面で不可能かと思われます。そして、急にそのようなことを仰られる理由を教えていただけませんか」
不可能、とキッパリ言い切る水上に瞠目し、須脇は苦笑した。
「あの所長という人物だがね、ワックスの工程や見積もりすら出来ないじゃないかね。こちらも平日の方が時間があるから出向いているのに、お話にならない。後日後日と先延ばしにされて困っている。水上さんなら即日でも作業に入れるだろう。まあ他にも色々あるが、兎に角自分には出来ない判らないの一点張りの人を平日の常駐にしておくのはどうかと思うよ」
腕組みして見下ろされている水上は、それでも臆すことなく目を合わせていた。
「それは大変申し訳ないことをしました。今後は、私が当日チェックして書類を提出してから退出致します。当面それで勘弁して頂けませんか。申し訳ないのですが、スタッフが引継ぎで待機していると思うのでお先に失礼させて頂きます。店内に出ますので、決定事項は後程お知らせ頂けると助かります」
「ああ、時間を取らせて悪かったね」
挑むような瞳を見つめ返して、須脇は鷹揚に頷いた。深く腰を折ってから踵を返して去って行く水上の背は、何かに憤っているのは確かだった。
残された二人は、彼女が去った後に明らかに機嫌を損ねた様子の須脇に戦慄していた。
「あの、失礼な言葉の数々お許し下さい」
大田が俯きがちに上目遣いで須脇の顔色を窺うと、須脇は口元を歪めた。
「私が気分を損ねているのは、彼女のせいではないよ」
祐次は得心して心の中でだけそっと溜息をついた。これはきっと会社のシステム自体に言及しているのだと悟ったのだ。
須脇のような全体のまとめ役であっても、椅子にふんぞり返って指示だけしているわけではない。毎日モール中を歩き回り、店内及びバックヤードでの従業員たちの様子をつぶさに観察しているのだ。その辺りをぼっちゃん育ちの係長は理解していない。
「時に大田くんは、休暇明けのようだが」
はい、と姿勢を正したものの、大田は不思議そうな表情をしている。
「市村くんや水上さんの勤務時間数と連勤日数は把握しているのかね。いくらパートで勤務時間が平日は少ないとしても、休日は必要だろう。それは正社員の市村くんにも言えることだと思うけれどね。まあ、提携していると言うだけで別会社なわけだから、これはただの雑談なんだがね」
ちくりちくりと刺すような声音が、果たしてどれほど大田に届いているだろうかと祐次は俯いていた。
自分が言えない事を言ってくれたと感謝する気持ちもあるのだが、室内で静かに仕事をしている他の従業員たちも聴くともなしに聞いているだろう。きっと呆れられている。
しっかりしろと、須脇の眼差しが告げている。
肩を竦ませて黙って立っている祐次と、曖昧に頷いている大田を交互に見遣り、
「働きに見合うだけの手当てはつけないと、いずれ会社は淘汰されるよ」
そう付け加えてから、ご足労でしたともう一つ奥の部屋へと消えて行った。
黙ったまま退出する大田に従い控え室に戻ると、ここ二ヵ月分のシフト表と出勤簿を事務机に載せて、祐次は未決の箱に入ったままの書類を手に取りテーブルの丸椅子に腰を下ろした。
気付くか、気付かないか、ただそれだけの話だ。タイムカードが無いから、スタッフに関しては両方を見なければ把握できない。トータルの勤務時間はフルタイムの正社員が残業するより少ないかもしれないが、実働時間以外の待機時間と準備の時間、そして通勤時間だって拘束されていると考えるならば、実際の水上と祐次の休日は月に二日程である。
勿論有給休暇など毎年消えてなくなっている。本社がいくら使え使えと書面で催促してきても、週休二日の大前提すら覆されているのだからどうしようもない。
未だにアナログで認印を押すタイプの出勤簿を眺め、大田は溜息をついた。
「そうか、これは酷いな」
改めて言うまでもなく、連勤の水上は真っ赤で、平日の一番暇な開店後二時間ほどしか出ていない人も出勤簿だけなら週に五つ判がある。大学生は二人しか居らず、土日祝にしか判がなくても、フルで昼から閉店まで、朝が埋まらなければ朝から閉店までと過酷な勤務状況だった。十二時間も働き続けのアルバイトなど早々ないだろうと思われる。
「僕は男だからまだいいんですが」
そっと口を開く祐次に、大田が視線を移す。
背凭れのある事務椅子を回転させて肘を突き、シフト表をひらひらとやって先を促しているようだ。
「こないだも、水上さんは昼から入って閉店で終わりの筈だったのに、夜間に休みが出て急遽残ってくれて……。片付けて帰って、早朝の搭乗式洗浄機を扱える人が来れなくなったので、また出て来てくれて」
帰宅したのは深夜一時を過ぎていただろう。
それから仮眠を取って五時にはまた家を出た筈だ。その時にはモニタールームにいた夜勤の警備員たちも驚いていたのを憶えている。
「正直、今のままでは破綻します。水上さんが現場に出られなくなればここは回りません」
そう、いくら若くとも二十代後半なのはお互い様で。こんな勤務の仕方をしていて体調を崩せばそれだけで全体に大打撃だ。
転職前の職場は、有休は取れずに捨てることはあっても、週休二日は会社自体が休みだったから必ず取れていたという。それなのに業務内容に不満が出てこちらに転職した彼女は、今心の中ではどのように考えているのだろうと思う。
体調云々よりも、不満が爆発して辞められる事も視野に入れておかねばならないというのに、大田は無頓着すぎるのだ。
とはいえ、それは自分も指摘されても仕方が無いことなのだ。
昨夜の誠也の態度を思い出すと、自分も無頓着で情けない男と認識されているだろうとがっかりしてしまう。虚勢を張りたいわけじゃないけれど、呆れて見放されたらもう立ち直れない気がした。
「青木さんには、僕からも言っておくよ」
何をどう伝えるのかは知らないが、白いマスの多い出勤簿を見ながら大田が言った。
水上は先刻書類の件は自分がと言っていたが、シフトに入っているのにそんな手間まで掛けさせられない。少し前までは持ち帰ってシフトを作成してくれていて、それだけは備品管理と同じように出勤時間に組み込めるように改善したばかりだ。そんなことにすら文句を言うスタッフがいるのも確かで、だから余計に彼女は見えないところでこっそりと済ませようとしてしまうのだろう。何も言わず巡回に出て行った背中を思い出し、祐次は居た堪れなくなる。
せめて大田も同じように感じてくれていたら良いのだけれど。
人好きのする優しげな風貌の大田は、やはり祐次より頭一つ大きくて体格もしっかりしている。いつも微笑を浮かべているのは誠也と同じなのに、何処か卑屈な感じに取れてしまうのは何故なんだろうと思いながら、ぺこりと頭を下げた。
「おかえりなさい。いい休暇でしたか?」
「久し振りにたっぷりマナちゃんと遊んできたよ。うっかりしてると顔を忘れられてしまうからなあ」
頂きますと言って外郎の袋を開けている隣に座って、見て見てと携帯電話の写真を開いて目の前に掲げてくる。まだ二歳の誕生日が来ていない一人娘は、母親似なのか大田のように目元が垂れていない。仕方ないので、鼻の形が係長と似ていますねと言うと、そうかなあとますます脂下がった表情で次々と写真を開いては見せて行った。
正直祐次にはどうでも良いのだったが、可愛いですねと適当に相槌を打ちながら、外郎も美味しいですねと褒めておくのを忘れない。大田は特に褒められると何処までも機嫌が良くなるタイプだから話を合わせるのは簡単だった。
けれど、頼りになる上司だとは思えない。ただ、一代でのし上がった現役社長がとても尊敬できる人物で、その人の次男だから無碍には出来ないのだ。
出世したいとは思わないけれど、こんな人でも少しずつ本社でのポジションが上がって行くんだろうなと少し悔しくならないわけではなかったが。
ひとしきり休暇中の娘の行動などを聞かされた後で、ようやく仕事の話になる。現場ではさして混乱が起きなかったものの、夜間スタッフの負傷の件だけはきっちりと報告した。長引くようなら一人補充しなければならない。夜間はアルバイトだから比較的人が集まりやすいのだけれど、即戦力にはならないから一週間以上誰かが付いて指導しなければならない。それはどの時間帯でも同じことなのだが、夜は特に作業時間が短くパッと出てサッと終わらせないとならないのがネックだった。モールのあちこちに降りるシャッターの閉まる時間に合わせて移動しながらの作業なのだ。
警備部がチェックしているけれど、閉じ込められると大変なことになる。
「一応募集掛けるか」
大田も首を捻っていたが、そこらの外交的なことは祐次はあまり関与していない。スタッフが足りない時には指導に出るが、面接や募集の事務仕事は係長と所長の役割と決めて、手をつけないことにしている。
ノックの音がして、挨拶と共に水上が出勤してきた。
昨日はありがとうと頭を下げる祐次ににこりと頷いてから、大田と交互に顔を見て戸惑いながら姿勢を正している。
「あの、ゼネラルマネージャーが、話があると。私と大田さんと市村さんと三人に来て欲しいとお待ちです」
途端に二人の顔が固まった。
ゼネラルマネージャーとは、日本各地にあるショッピングモールの現場においては、本社から配置される最高権力者である。そんな人から呼び出されるなど、余程のクレームでないと有り得ない。
緊張の冷や汗を垂らす二人の前でロッカーの方へと滑り込むと、水上はシャッと仕切りのカーテンを閉めた。
沈黙に包まれた控え室内に、着替えの衣擦れの音だけがささやかに響く。靴下と靴に至るまで制服に身を包んだ水上がカーテンを開けたとき、大田と祐次は揃って腰を上げた。
「長くないと良いんですが」
きっちりとシフトに組み込まれている水上は腕時計を気にしながらも、通路を挟んでの斜向かいにある事務室の扉をノックして失礼しますと入って行く。そうしてからようやく入る順を間違えたと足を止めて、ドアを押さえてから上司二人の入室を待ち静かに閉めてから後に続いた。
殆どの職員が自分の席に着いて仕事をしている中、椅子と椅子の合間をすり抜けて一番奥へと向かう。応接室は別に存在しているけれど、今回はそこまで改まってもいないしその他の職員の耳に入っても差し支えない内容なのだろう。
奥のデスクの手前で他の職員と立ったまま話をしていたマネージャーの須脇が三人に目を留めて会釈した。五十を越えたところで気力体力貫禄と十分に兼ね備えた人物である。きっちりと三つ揃えを着こなし腹も出ていない。店内でもバックヤードでも誰にでも挨拶をして颯爽と歩く姿はトップたるに相応しいと周りに示しているかのようだ。
「単刀直入に言うが、水上さんを日勤の常駐には出来ないのかね」
大田も市村もてっきりクレームだと構えていただけに、予想外の問い合わせにぽかんと口を開けて返答に詰まってしまった。そんな上司二人を情け無さそうに横目で一瞥して、水上が口を開く。
「それは色々な面で不可能かと思われます。そして、急にそのようなことを仰られる理由を教えていただけませんか」
不可能、とキッパリ言い切る水上に瞠目し、須脇は苦笑した。
「あの所長という人物だがね、ワックスの工程や見積もりすら出来ないじゃないかね。こちらも平日の方が時間があるから出向いているのに、お話にならない。後日後日と先延ばしにされて困っている。水上さんなら即日でも作業に入れるだろう。まあ他にも色々あるが、兎に角自分には出来ない判らないの一点張りの人を平日の常駐にしておくのはどうかと思うよ」
腕組みして見下ろされている水上は、それでも臆すことなく目を合わせていた。
「それは大変申し訳ないことをしました。今後は、私が当日チェックして書類を提出してから退出致します。当面それで勘弁して頂けませんか。申し訳ないのですが、スタッフが引継ぎで待機していると思うのでお先に失礼させて頂きます。店内に出ますので、決定事項は後程お知らせ頂けると助かります」
「ああ、時間を取らせて悪かったね」
挑むような瞳を見つめ返して、須脇は鷹揚に頷いた。深く腰を折ってから踵を返して去って行く水上の背は、何かに憤っているのは確かだった。
残された二人は、彼女が去った後に明らかに機嫌を損ねた様子の須脇に戦慄していた。
「あの、失礼な言葉の数々お許し下さい」
大田が俯きがちに上目遣いで須脇の顔色を窺うと、須脇は口元を歪めた。
「私が気分を損ねているのは、彼女のせいではないよ」
祐次は得心して心の中でだけそっと溜息をついた。これはきっと会社のシステム自体に言及しているのだと悟ったのだ。
須脇のような全体のまとめ役であっても、椅子にふんぞり返って指示だけしているわけではない。毎日モール中を歩き回り、店内及びバックヤードでの従業員たちの様子をつぶさに観察しているのだ。その辺りをぼっちゃん育ちの係長は理解していない。
「時に大田くんは、休暇明けのようだが」
はい、と姿勢を正したものの、大田は不思議そうな表情をしている。
「市村くんや水上さんの勤務時間数と連勤日数は把握しているのかね。いくらパートで勤務時間が平日は少ないとしても、休日は必要だろう。それは正社員の市村くんにも言えることだと思うけれどね。まあ、提携していると言うだけで別会社なわけだから、これはただの雑談なんだがね」
ちくりちくりと刺すような声音が、果たしてどれほど大田に届いているだろうかと祐次は俯いていた。
自分が言えない事を言ってくれたと感謝する気持ちもあるのだが、室内で静かに仕事をしている他の従業員たちも聴くともなしに聞いているだろう。きっと呆れられている。
しっかりしろと、須脇の眼差しが告げている。
肩を竦ませて黙って立っている祐次と、曖昧に頷いている大田を交互に見遣り、
「働きに見合うだけの手当てはつけないと、いずれ会社は淘汰されるよ」
そう付け加えてから、ご足労でしたともう一つ奥の部屋へと消えて行った。
黙ったまま退出する大田に従い控え室に戻ると、ここ二ヵ月分のシフト表と出勤簿を事務机に載せて、祐次は未決の箱に入ったままの書類を手に取りテーブルの丸椅子に腰を下ろした。
気付くか、気付かないか、ただそれだけの話だ。タイムカードが無いから、スタッフに関しては両方を見なければ把握できない。トータルの勤務時間はフルタイムの正社員が残業するより少ないかもしれないが、実働時間以外の待機時間と準備の時間、そして通勤時間だって拘束されていると考えるならば、実際の水上と祐次の休日は月に二日程である。
勿論有給休暇など毎年消えてなくなっている。本社がいくら使え使えと書面で催促してきても、週休二日の大前提すら覆されているのだからどうしようもない。
未だにアナログで認印を押すタイプの出勤簿を眺め、大田は溜息をついた。
「そうか、これは酷いな」
改めて言うまでもなく、連勤の水上は真っ赤で、平日の一番暇な開店後二時間ほどしか出ていない人も出勤簿だけなら週に五つ判がある。大学生は二人しか居らず、土日祝にしか判がなくても、フルで昼から閉店まで、朝が埋まらなければ朝から閉店までと過酷な勤務状況だった。十二時間も働き続けのアルバイトなど早々ないだろうと思われる。
「僕は男だからまだいいんですが」
そっと口を開く祐次に、大田が視線を移す。
背凭れのある事務椅子を回転させて肘を突き、シフト表をひらひらとやって先を促しているようだ。
「こないだも、水上さんは昼から入って閉店で終わりの筈だったのに、夜間に休みが出て急遽残ってくれて……。片付けて帰って、早朝の搭乗式洗浄機を扱える人が来れなくなったので、また出て来てくれて」
帰宅したのは深夜一時を過ぎていただろう。
それから仮眠を取って五時にはまた家を出た筈だ。その時にはモニタールームにいた夜勤の警備員たちも驚いていたのを憶えている。
「正直、今のままでは破綻します。水上さんが現場に出られなくなればここは回りません」
そう、いくら若くとも二十代後半なのはお互い様で。こんな勤務の仕方をしていて体調を崩せばそれだけで全体に大打撃だ。
転職前の職場は、有休は取れずに捨てることはあっても、週休二日は会社自体が休みだったから必ず取れていたという。それなのに業務内容に不満が出てこちらに転職した彼女は、今心の中ではどのように考えているのだろうと思う。
体調云々よりも、不満が爆発して辞められる事も視野に入れておかねばならないというのに、大田は無頓着すぎるのだ。
とはいえ、それは自分も指摘されても仕方が無いことなのだ。
昨夜の誠也の態度を思い出すと、自分も無頓着で情けない男と認識されているだろうとがっかりしてしまう。虚勢を張りたいわけじゃないけれど、呆れて見放されたらもう立ち直れない気がした。
「青木さんには、僕からも言っておくよ」
何をどう伝えるのかは知らないが、白いマスの多い出勤簿を見ながら大田が言った。
水上は先刻書類の件は自分がと言っていたが、シフトに入っているのにそんな手間まで掛けさせられない。少し前までは持ち帰ってシフトを作成してくれていて、それだけは備品管理と同じように出勤時間に組み込めるように改善したばかりだ。そんなことにすら文句を言うスタッフがいるのも確かで、だから余計に彼女は見えないところでこっそりと済ませようとしてしまうのだろう。何も言わず巡回に出て行った背中を思い出し、祐次は居た堪れなくなる。
せめて大田も同じように感じてくれていたら良いのだけれど。
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