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五分間だけ過去に戻ることができるチケット
きみがいるから
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幅二メートルほどしかないアスファルトの道の脇を、同じくらいの幅の用水路が流れている。その両脇に田んぼと民家が点在するのを眺めながら進んでいくと、住宅地の中に入っていた。
まわりの家よりも比較的古い平屋と赤い点滅が重なっている。下半分が磨りガラスになっている懐かしいデザインの掃き出し窓から中が見えないかと窺う。
錆のある黒いフェンスは腰より低く、その向こうには少しだけ花壇がある。あいにく花が咲いているものもなく、疎い僕が葉っぱだけで種類が判別できるはずもない。
可能性として、考えていなかったわけじゃない。
もしかしたら、誰かに助けられているのじゃないかと。そうあってくれたらと願ったのは確かだ。
だけど、こうしていざエリと再会できるかもという段階になると、どうして届け出てくれなかったのかと恨みがましい気にもなってくる。
いや、まだ分からないぞ。もしかしたら、ミサンガが外れてそれだけここにあるのかもしれない。子どもとか、ともかく誰かが拾って持っているだけかも。
金目のものじゃないから、落とし物として届けるほどじゃないと思われたのかも。
家と家が密集していて、間には小道などがない。こちらは裏のようだから、道が繋がっているところまで行き反対側に回らないと玄関には辿り着けないようだ。
「エリ」
分かっていても、どうにかしてエリの存在がはっきりしないものかと声がこぼれてしまう。
「エリ?」
窓は閉まっているけど、ペアガラスじゃないから、中にも声は届くはず。
「――エリっ」
いつの間にかフェンスに手を置いて、大きな声を出してしまっていた。
これじゃ完全に不審者だ。客観的に自分を判断する意識もあるのに、玄関から訪問すべきだと理性は訴えているのに、足が動かない、口は勝手に動く。
「エリ! いたら答えて!」
その瞬間、磨りガラスの向こうで白い影が動いた。
少しずつガラスに近付いてくる白い塊は、カクンカクンとたどたどしい動きをしている。それでもついにガラスにペタリとくっついたそのシルエットは、白の中に少しだけ茶色のラインが入っていて。
ああ、エリに間違いないと確信した。
その後、エリの後を追って窓辺にやってきた年配の女性に話を伺うことができた。
エリは、あの日から一週間ほど経ったある日、婦人の知人が所有する農機具の倉庫で発見されたそうだ。
左の前足と尻尾を骨折しており、尻尾の方は断尾するしかない状態だった。体長ほどもあるすんなりとした尻尾は、もう根元の辺りで少しこんもりしているだけとなってしまった。それはそれで可愛いけど、バランスは取りにくいだろうなと思う。
前足はなんとか手術してボルトで繋いでいるが、ジャンプできるほど回復するかどうかは判らないという。
縁側で正座して話す婦人の膝の上で、エリは目を細めて喉を鳴らしている。
婦人はひとり暮らしで、車にも自転車にも乗らない生活をしている。それでも、エリ(チーちゃんと呼んでいるが)を見つけてすぐに動物病院に連れて行って、安くはない手術費を払って助けてくれた。
感謝しかない。
エリもそれを分かっているのか、僕に再会の挨拶として頭を擦り付けたあとは、ずっと婦人に寄り添っている。
僕は、あの日のことをポツポツと話しながらエリの全身を撫で、それから室内を見回した。
布団の掛かっていないコタツ。ご主人らしき遺影のある仏壇には、果物と和菓子が供えてある。その和菓子から一つ饅頭を勧められて、緑茶と一緒にいただいた。
少し腰は曲がっているけれど、杖なしで買い物に行くという。息子はいるけれど、独身だから孫はいないと。
それから、女学校で薙刀を習った話。ピアノの話。今はご近所から苦情がくるので弾けないと軽く流していたけれど、残念さが滲む口調。
気付けば、エリも婦人も茜色に染まっていた。
窓から入ってきたアキアカネを目で追い、それが住宅の向こうにすうっと隠れていく太陽に向かっていくときに僕はギュッと目を閉じた。
「そう、あなたエリっていう名前なのね。素敵。ご主人が迎えに来てくれてよかったわねぇ……」
僕が手を引いてから、婦人がエリを撫でながら話しかけている。
目を開けると、エリと視線が絡んだ。
エリは、もう決めてるんだな――
抱いてケージに入れてしまえば、エリは大人しく帰るんだろうと思った。
でも、それはエリの意思じゃない……。
僕も、腹を括るよ。
だって、僕はいつでもここに来ることができる。ひとりで留守番するのも嫌いじゃないだろうけど、ここで一日二人で過ごす方がどんなにか楽しいだろう。
あのチケットがなければ、僕がここにくることはなかった。生死が左右されることはなくても、本来のエリはここにいるのが正常なんだ。
これは、別れじゃない。
エリは生きていた。それだけ判ればいいと、最初に決めていたじゃないか。
エリを見つめたまま、ゆっくりと二度瞬きをする。エリも瞬きをして、耳を僕に向けた。
さよなら、エリ。
またね、エリ。
僕の心臓は、雑巾みたいにぎゅっと絞られている心地だったけれど。
視線を上げて、婦人に向けて口を開く。
「あの、もしよろしければ――」
家路についたとき、僕はやっぱり一人のままだったけれど。
あのチケットを買って良かったと、心から思った。
了
まわりの家よりも比較的古い平屋と赤い点滅が重なっている。下半分が磨りガラスになっている懐かしいデザインの掃き出し窓から中が見えないかと窺う。
錆のある黒いフェンスは腰より低く、その向こうには少しだけ花壇がある。あいにく花が咲いているものもなく、疎い僕が葉っぱだけで種類が判別できるはずもない。
可能性として、考えていなかったわけじゃない。
もしかしたら、誰かに助けられているのじゃないかと。そうあってくれたらと願ったのは確かだ。
だけど、こうしていざエリと再会できるかもという段階になると、どうして届け出てくれなかったのかと恨みがましい気にもなってくる。
いや、まだ分からないぞ。もしかしたら、ミサンガが外れてそれだけここにあるのかもしれない。子どもとか、ともかく誰かが拾って持っているだけかも。
金目のものじゃないから、落とし物として届けるほどじゃないと思われたのかも。
家と家が密集していて、間には小道などがない。こちらは裏のようだから、道が繋がっているところまで行き反対側に回らないと玄関には辿り着けないようだ。
「エリ」
分かっていても、どうにかしてエリの存在がはっきりしないものかと声がこぼれてしまう。
「エリ?」
窓は閉まっているけど、ペアガラスじゃないから、中にも声は届くはず。
「――エリっ」
いつの間にかフェンスに手を置いて、大きな声を出してしまっていた。
これじゃ完全に不審者だ。客観的に自分を判断する意識もあるのに、玄関から訪問すべきだと理性は訴えているのに、足が動かない、口は勝手に動く。
「エリ! いたら答えて!」
その瞬間、磨りガラスの向こうで白い影が動いた。
少しずつガラスに近付いてくる白い塊は、カクンカクンとたどたどしい動きをしている。それでもついにガラスにペタリとくっついたそのシルエットは、白の中に少しだけ茶色のラインが入っていて。
ああ、エリに間違いないと確信した。
その後、エリの後を追って窓辺にやってきた年配の女性に話を伺うことができた。
エリは、あの日から一週間ほど経ったある日、婦人の知人が所有する農機具の倉庫で発見されたそうだ。
左の前足と尻尾を骨折しており、尻尾の方は断尾するしかない状態だった。体長ほどもあるすんなりとした尻尾は、もう根元の辺りで少しこんもりしているだけとなってしまった。それはそれで可愛いけど、バランスは取りにくいだろうなと思う。
前足はなんとか手術してボルトで繋いでいるが、ジャンプできるほど回復するかどうかは判らないという。
縁側で正座して話す婦人の膝の上で、エリは目を細めて喉を鳴らしている。
婦人はひとり暮らしで、車にも自転車にも乗らない生活をしている。それでも、エリ(チーちゃんと呼んでいるが)を見つけてすぐに動物病院に連れて行って、安くはない手術費を払って助けてくれた。
感謝しかない。
エリもそれを分かっているのか、僕に再会の挨拶として頭を擦り付けたあとは、ずっと婦人に寄り添っている。
僕は、あの日のことをポツポツと話しながらエリの全身を撫で、それから室内を見回した。
布団の掛かっていないコタツ。ご主人らしき遺影のある仏壇には、果物と和菓子が供えてある。その和菓子から一つ饅頭を勧められて、緑茶と一緒にいただいた。
少し腰は曲がっているけれど、杖なしで買い物に行くという。息子はいるけれど、独身だから孫はいないと。
それから、女学校で薙刀を習った話。ピアノの話。今はご近所から苦情がくるので弾けないと軽く流していたけれど、残念さが滲む口調。
気付けば、エリも婦人も茜色に染まっていた。
窓から入ってきたアキアカネを目で追い、それが住宅の向こうにすうっと隠れていく太陽に向かっていくときに僕はギュッと目を閉じた。
「そう、あなたエリっていう名前なのね。素敵。ご主人が迎えに来てくれてよかったわねぇ……」
僕が手を引いてから、婦人がエリを撫でながら話しかけている。
目を開けると、エリと視線が絡んだ。
エリは、もう決めてるんだな――
抱いてケージに入れてしまえば、エリは大人しく帰るんだろうと思った。
でも、それはエリの意思じゃない……。
僕も、腹を括るよ。
だって、僕はいつでもここに来ることができる。ひとりで留守番するのも嫌いじゃないだろうけど、ここで一日二人で過ごす方がどんなにか楽しいだろう。
あのチケットがなければ、僕がここにくることはなかった。生死が左右されることはなくても、本来のエリはここにいるのが正常なんだ。
これは、別れじゃない。
エリは生きていた。それだけ判ればいいと、最初に決めていたじゃないか。
エリを見つめたまま、ゆっくりと二度瞬きをする。エリも瞬きをして、耳を僕に向けた。
さよなら、エリ。
またね、エリ。
僕の心臓は、雑巾みたいにぎゅっと絞られている心地だったけれど。
視線を上げて、婦人に向けて口を開く。
「あの、もしよろしければ――」
家路についたとき、僕はやっぱり一人のままだったけれど。
あのチケットを買って良かったと、心から思った。
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