君を聴かせて

亨珈

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まるで人形のような

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 最初のラインは十二時間。そう説明してくれる看護師に、そうですかと慎哉は頷くしかなかった。
 十二時間以内に服用すれば、まず妊娠は防げますから安心してと言われても、何が安心なのか考えられるほどに心が回復していないのだ。
 付き添っている間に、病院に来ていることだけは誠也と沙良にメールで知らせた。詳細が解らず気を揉んでいるだろうが、慎哉だとて己の目で見たことしか解ってはいない。
 薬を飲んだ後ようやく目蓋を閉じた雪子は蒼白な顔のまま口を開かず、婦人科の通路という場所で居た堪れない思いをしながら慎哉は待機していた。
 入院するほどの怪我もなく、連れ帰って欲しいと言われている。実家には警察から連絡が行っているから誰かが来るまで待っていようとベンチに腰掛け、頭を抱えて俯いていた。

 証拠は十分出揃った。
 体液も採取されて、刑事でも民事でも訴えることが可能と説明をされている。それは雪子次第ではあるのだけれど、時効はないからゆっくりとすればいいと慰めるように言われ、調書も巡査が書ける部分は全部仕上げておくからという厚意に甘えて、ぐったりしたままただ時を過ごしていた。

 訴えたとして、何が変わるのか。
 今傷付いている雪子を救うことは出来ない。
 ただ、あの男が他の女性に同様の事をするのを防ぐためにも、出来れば刑事に持ち込んで欲しいとは言われている。間違いなく禁固刑になるからと。
 名誉毀損で訴えを起こされても、それを覆せるだけの状況、物的証拠があり、隣人の証言もある。弁護を受けてくれる人も見つからないだろうというくらい、裁判では有利だという。

 それは、救いになるのだろうか。
 雪子が憎しみを糧に生きる気力を取り戻すなら、それも良いと思う。
 だが、今の雪子は慎哉すら拒否して、世界の全てを目蓋の向こうに追いやり、一言も発しない。

 どうすれば──。
 ストレッチャーに載せられて運ばれる間も、目は見開いたまま微動だにしなかった雪子。
 陶器のように滑らかな肌が、この時ばかりは恨めしくなる。無機質な人形のように、時折瞬くことと微かな呼吸音以外に、生を感じるものがない。
 まだしも気を失っていた方が、慎哉にとっては楽だっただろう。
 震える声で、何度も名前を呼んだ。触れても反応しない、視線を合わせてもくれない瞳に、周囲の者たちは、余程慎哉の方を痛ましそうに視界の隅に置いていた。
 痛みも訴えない。笑うことはおろか、安堵した様子もなく、泣くでもなく、ただ診察台に寝転び、促されれば身を起こした。
 そう、まるでロボットか人形のように――

 ギュッと目を瞑り拳で自分の太腿を殴りつけていると、「小野さん?」と頭上から声が降って来た。
 聞き覚えのない声音に、ゆっくりと慎哉は顔を上げた。
 雪子より更に短く髪を揃えている年嵩の女性が、スーツ姿で少し前屈みになっていた。目元くらいしか皺はないけれど、五十代以上だろうなと思わせる、何処か雪子と似た雰囲気の女性に、慌てて慎哉は腰を上げた。
「はい、小野です。あの、」
 言い掛けた慎哉を微笑みで制して、「隣いいかしら」と女性はすうっとベンチシートに腰掛けた。
「改めまして、雪子の母です。この度はご尽力頂きまして、ありがとうございました」
 会釈を返しながら恐る恐る座り直すと、拳一つ分ほど空いた絶妙な間合いの取り方に感心する。ここが病院でなければ、もう少し空けているのだろうと思われた。
「ごめんなさいね、さっき警察の方に事情を聞くまで、本当に何も知らなかったの。うちを出て一人暮らしを始めて数年経つけど、たまに電話で話すくらいで……。
 あなたのような方に想われて幸せね、あの子」
 前方の壁に視線を向けたまま、雪子の母親は微笑んでいた。
「私のこと、少しは聞いているかしら」
 静かに問われ、いいえと慎哉は答えた。
 そう言われてみて初めて、雪子から家族の話を聞いたことがないと気付く。
「隠すほどの家庭でもないけれど、訊かれなければ話さないところあるでしょう、あの子。
 全部自分で決めちゃうの。私に似ちゃったんだろうけど、ね」
 苦笑しながら、母親はハンドバッグの中から手帖を取り出し、さらさらと書き付けていく。
「今日のところは、私が連れて帰るわね。これが住所、とついでに合鍵」
 え、え、と動揺している慎哉の手に破ったページと鍵を押し付けて、母親は腰を上げた。
「あの部屋はしばらく放っておくわ。あの子が帰りたいと言えば帰すし、もう嫌だと言えば私と一緒に暮らすか新しい部屋を探すかすればいい。それともあなたが引き取ってくれてもいいし」
 最後の一言だけは冗談だったのか、くすりと声を出し、診察室の脇にある小部屋へと消えて行った。
 もうここで待つのも意味がないからと、慎哉も腰を上げる。
 正直なところ、先程のままの雪子に会うのが辛かった。

 親しくなる前に、礼儀正しく僅かな笑みを浮かべて挨拶を交わしたのを思い出す。それから誠也たちと談笑している姿を見て、どうすればあの笑顔を自分にくれるのかと悔しくなった。
 ようやく、他の男たちとは一線を画す表情を見せてくれるようになり、今までに悦びを知らなかったらしき体も手に入れて、これからもっともっと、いくらでも笑わせられるとそう思っていた。
 勿論、だからといって、元彼について気を抜いていたわけじゃなかったのに、それでもこんな事態を招いてしまった。
 己が不甲斐なく、雪子に対しても、その母親に対しても、礼を言われるような筋合いじゃない。土下座して謝っても足りないくらいだと思っていた。
 雪子が年を取るとあんな雰囲気になるのかとふと思い出す。結局母親も言わなかったけれど、普通の家庭ではないのだろうか。


 帰宅してベッドに倒れこむと、携帯電話にメールの着信があった。気付かない間に何通か入っていて、沙良からの最後のメールなど「とにかく連絡して来い」と怒りマークの絵文字が付いていた。
 心配かもしれないけど、俺だって傷心まっただ中だっつーの。
 面倒だなあと思いながら、誠也と沙良宛てにまた短くメールする。それからのそのそとベッドを降りて、部屋の隅にあるデスクトップパソコンを立ち上げた。
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