16 / 26
まるで人形のような
しおりを挟む
最初のラインは十二時間。そう説明してくれる看護師に、そうですかと慎哉は頷くしかなかった。
十二時間以内に服用すれば、まず妊娠は防げますから安心してと言われても、何が安心なのか考えられるほどに心が回復していないのだ。
付き添っている間に、病院に来ていることだけは誠也と沙良にメールで知らせた。詳細が解らず気を揉んでいるだろうが、慎哉だとて己の目で見たことしか解ってはいない。
薬を飲んだ後ようやく目蓋を閉じた雪子は蒼白な顔のまま口を開かず、婦人科の通路という場所で居た堪れない思いをしながら慎哉は待機していた。
入院するほどの怪我もなく、連れ帰って欲しいと言われている。実家には警察から連絡が行っているから誰かが来るまで待っていようとベンチに腰掛け、頭を抱えて俯いていた。
証拠は十分出揃った。
体液も採取されて、刑事でも民事でも訴えることが可能と説明をされている。それは雪子次第ではあるのだけれど、時効はないからゆっくりとすればいいと慰めるように言われ、調書も巡査が書ける部分は全部仕上げておくからという厚意に甘えて、ぐったりしたままただ時を過ごしていた。
訴えたとして、何が変わるのか。
今傷付いている雪子を救うことは出来ない。
ただ、あの男が他の女性に同様の事をするのを防ぐためにも、出来れば刑事に持ち込んで欲しいとは言われている。間違いなく禁固刑になるからと。
名誉毀損で訴えを起こされても、それを覆せるだけの状況、物的証拠があり、隣人の証言もある。弁護を受けてくれる人も見つからないだろうというくらい、裁判では有利だという。
それは、救いになるのだろうか。
雪子が憎しみを糧に生きる気力を取り戻すなら、それも良いと思う。
だが、今の雪子は慎哉すら拒否して、世界の全てを目蓋の向こうに追いやり、一言も発しない。
どうすれば──。
ストレッチャーに載せられて運ばれる間も、目は見開いたまま微動だにしなかった雪子。
陶器のように滑らかな肌が、この時ばかりは恨めしくなる。無機質な人形のように、時折瞬くことと微かな呼吸音以外に、生を感じるものがない。
まだしも気を失っていた方が、慎哉にとっては楽だっただろう。
震える声で、何度も名前を呼んだ。触れても反応しない、視線を合わせてもくれない瞳に、周囲の者たちは、余程慎哉の方を痛ましそうに視界の隅に置いていた。
痛みも訴えない。笑うことはおろか、安堵した様子もなく、泣くでもなく、ただ診察台に寝転び、促されれば身を起こした。
そう、まるでロボットか人形のように――
ギュッと目を瞑り拳で自分の太腿を殴りつけていると、「小野さん?」と頭上から声が降って来た。
聞き覚えのない声音に、ゆっくりと慎哉は顔を上げた。
雪子より更に短く髪を揃えている年嵩の女性が、スーツ姿で少し前屈みになっていた。目元くらいしか皺はないけれど、五十代以上だろうなと思わせる、何処か雪子と似た雰囲気の女性に、慌てて慎哉は腰を上げた。
「はい、小野です。あの、」
言い掛けた慎哉を微笑みで制して、「隣いいかしら」と女性はすうっとベンチシートに腰掛けた。
「改めまして、雪子の母です。この度はご尽力頂きまして、ありがとうございました」
会釈を返しながら恐る恐る座り直すと、拳一つ分ほど空いた絶妙な間合いの取り方に感心する。ここが病院でなければ、もう少し空けているのだろうと思われた。
「ごめんなさいね、さっき警察の方に事情を聞くまで、本当に何も知らなかったの。うちを出て一人暮らしを始めて数年経つけど、たまに電話で話すくらいで……。
あなたのような方に想われて幸せね、あの子」
前方の壁に視線を向けたまま、雪子の母親は微笑んでいた。
「私のこと、少しは聞いているかしら」
静かに問われ、いいえと慎哉は答えた。
そう言われてみて初めて、雪子から家族の話を聞いたことがないと気付く。
「隠すほどの家庭でもないけれど、訊かれなければ話さないところあるでしょう、あの子。
全部自分で決めちゃうの。私に似ちゃったんだろうけど、ね」
苦笑しながら、母親はハンドバッグの中から手帖を取り出し、さらさらと書き付けていく。
「今日のところは、私が連れて帰るわね。これが住所、とついでに合鍵」
え、え、と動揺している慎哉の手に破ったページと鍵を押し付けて、母親は腰を上げた。
「あの部屋はしばらく放っておくわ。あの子が帰りたいと言えば帰すし、もう嫌だと言えば私と一緒に暮らすか新しい部屋を探すかすればいい。それともあなたが引き取ってくれてもいいし」
最後の一言だけは冗談だったのか、くすりと声を出し、診察室の脇にある小部屋へと消えて行った。
もうここで待つのも意味がないからと、慎哉も腰を上げる。
正直なところ、先程のままの雪子に会うのが辛かった。
親しくなる前に、礼儀正しく僅かな笑みを浮かべて挨拶を交わしたのを思い出す。それから誠也たちと談笑している姿を見て、どうすればあの笑顔を自分にくれるのかと悔しくなった。
ようやく、他の男たちとは一線を画す表情を見せてくれるようになり、今までに悦びを知らなかったらしき体も手に入れて、これからもっともっと、いくらでも笑わせられるとそう思っていた。
勿論、だからといって、元彼について気を抜いていたわけじゃなかったのに、それでもこんな事態を招いてしまった。
己が不甲斐なく、雪子に対しても、その母親に対しても、礼を言われるような筋合いじゃない。土下座して謝っても足りないくらいだと思っていた。
雪子が年を取るとあんな雰囲気になるのかとふと思い出す。結局母親も言わなかったけれど、普通の家庭ではないのだろうか。
帰宅してベッドに倒れこむと、携帯電話にメールの着信があった。気付かない間に何通か入っていて、沙良からの最後のメールなど「とにかく連絡して来い」と怒りマークの絵文字が付いていた。
心配かもしれないけど、俺だって傷心まっただ中だっつーの。
面倒だなあと思いながら、誠也と沙良宛てにまた短くメールする。それからのそのそとベッドを降りて、部屋の隅にあるデスクトップパソコンを立ち上げた。
十二時間以内に服用すれば、まず妊娠は防げますから安心してと言われても、何が安心なのか考えられるほどに心が回復していないのだ。
付き添っている間に、病院に来ていることだけは誠也と沙良にメールで知らせた。詳細が解らず気を揉んでいるだろうが、慎哉だとて己の目で見たことしか解ってはいない。
薬を飲んだ後ようやく目蓋を閉じた雪子は蒼白な顔のまま口を開かず、婦人科の通路という場所で居た堪れない思いをしながら慎哉は待機していた。
入院するほどの怪我もなく、連れ帰って欲しいと言われている。実家には警察から連絡が行っているから誰かが来るまで待っていようとベンチに腰掛け、頭を抱えて俯いていた。
証拠は十分出揃った。
体液も採取されて、刑事でも民事でも訴えることが可能と説明をされている。それは雪子次第ではあるのだけれど、時効はないからゆっくりとすればいいと慰めるように言われ、調書も巡査が書ける部分は全部仕上げておくからという厚意に甘えて、ぐったりしたままただ時を過ごしていた。
訴えたとして、何が変わるのか。
今傷付いている雪子を救うことは出来ない。
ただ、あの男が他の女性に同様の事をするのを防ぐためにも、出来れば刑事に持ち込んで欲しいとは言われている。間違いなく禁固刑になるからと。
名誉毀損で訴えを起こされても、それを覆せるだけの状況、物的証拠があり、隣人の証言もある。弁護を受けてくれる人も見つからないだろうというくらい、裁判では有利だという。
それは、救いになるのだろうか。
雪子が憎しみを糧に生きる気力を取り戻すなら、それも良いと思う。
だが、今の雪子は慎哉すら拒否して、世界の全てを目蓋の向こうに追いやり、一言も発しない。
どうすれば──。
ストレッチャーに載せられて運ばれる間も、目は見開いたまま微動だにしなかった雪子。
陶器のように滑らかな肌が、この時ばかりは恨めしくなる。無機質な人形のように、時折瞬くことと微かな呼吸音以外に、生を感じるものがない。
まだしも気を失っていた方が、慎哉にとっては楽だっただろう。
震える声で、何度も名前を呼んだ。触れても反応しない、視線を合わせてもくれない瞳に、周囲の者たちは、余程慎哉の方を痛ましそうに視界の隅に置いていた。
痛みも訴えない。笑うことはおろか、安堵した様子もなく、泣くでもなく、ただ診察台に寝転び、促されれば身を起こした。
そう、まるでロボットか人形のように――
ギュッと目を瞑り拳で自分の太腿を殴りつけていると、「小野さん?」と頭上から声が降って来た。
聞き覚えのない声音に、ゆっくりと慎哉は顔を上げた。
雪子より更に短く髪を揃えている年嵩の女性が、スーツ姿で少し前屈みになっていた。目元くらいしか皺はないけれど、五十代以上だろうなと思わせる、何処か雪子と似た雰囲気の女性に、慌てて慎哉は腰を上げた。
「はい、小野です。あの、」
言い掛けた慎哉を微笑みで制して、「隣いいかしら」と女性はすうっとベンチシートに腰掛けた。
「改めまして、雪子の母です。この度はご尽力頂きまして、ありがとうございました」
会釈を返しながら恐る恐る座り直すと、拳一つ分ほど空いた絶妙な間合いの取り方に感心する。ここが病院でなければ、もう少し空けているのだろうと思われた。
「ごめんなさいね、さっき警察の方に事情を聞くまで、本当に何も知らなかったの。うちを出て一人暮らしを始めて数年経つけど、たまに電話で話すくらいで……。
あなたのような方に想われて幸せね、あの子」
前方の壁に視線を向けたまま、雪子の母親は微笑んでいた。
「私のこと、少しは聞いているかしら」
静かに問われ、いいえと慎哉は答えた。
そう言われてみて初めて、雪子から家族の話を聞いたことがないと気付く。
「隠すほどの家庭でもないけれど、訊かれなければ話さないところあるでしょう、あの子。
全部自分で決めちゃうの。私に似ちゃったんだろうけど、ね」
苦笑しながら、母親はハンドバッグの中から手帖を取り出し、さらさらと書き付けていく。
「今日のところは、私が連れて帰るわね。これが住所、とついでに合鍵」
え、え、と動揺している慎哉の手に破ったページと鍵を押し付けて、母親は腰を上げた。
「あの部屋はしばらく放っておくわ。あの子が帰りたいと言えば帰すし、もう嫌だと言えば私と一緒に暮らすか新しい部屋を探すかすればいい。それともあなたが引き取ってくれてもいいし」
最後の一言だけは冗談だったのか、くすりと声を出し、診察室の脇にある小部屋へと消えて行った。
もうここで待つのも意味がないからと、慎哉も腰を上げる。
正直なところ、先程のままの雪子に会うのが辛かった。
親しくなる前に、礼儀正しく僅かな笑みを浮かべて挨拶を交わしたのを思い出す。それから誠也たちと談笑している姿を見て、どうすればあの笑顔を自分にくれるのかと悔しくなった。
ようやく、他の男たちとは一線を画す表情を見せてくれるようになり、今までに悦びを知らなかったらしき体も手に入れて、これからもっともっと、いくらでも笑わせられるとそう思っていた。
勿論、だからといって、元彼について気を抜いていたわけじゃなかったのに、それでもこんな事態を招いてしまった。
己が不甲斐なく、雪子に対しても、その母親に対しても、礼を言われるような筋合いじゃない。土下座して謝っても足りないくらいだと思っていた。
雪子が年を取るとあんな雰囲気になるのかとふと思い出す。結局母親も言わなかったけれど、普通の家庭ではないのだろうか。
帰宅してベッドに倒れこむと、携帯電話にメールの着信があった。気付かない間に何通か入っていて、沙良からの最後のメールなど「とにかく連絡して来い」と怒りマークの絵文字が付いていた。
心配かもしれないけど、俺だって傷心まっただ中だっつーの。
面倒だなあと思いながら、誠也と沙良宛てにまた短くメールする。それからのそのそとベッドを降りて、部屋の隅にあるデスクトップパソコンを立ち上げた。
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる