君を聴かせて

亨珈

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踏み込まない関係

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 雪子と同じように、慎哉に興味を示さない、或いはわざと興味ないように振る舞う女性は他にもいる。
 けれど、大抵は慎哉が少しでも接触すれば、可能性を勝手に大きくして態度を変えてくる。
 そういうのに慣れていたから、苛々するんだろう。自分でそう解釈して、慎哉はいつものように、職員用の風除口の自動ドア脇に立ち、退出するスタッフたちに挨拶をしながら手荷物のチェックをしていた。
 あれから数日が経過して、遅番で雪子と会うのは久し振りだった。
 深夜スタッフは、バイト扱いらしく、時刻になればさっさと片付けをしてここを抜けていく。閉店寸前に来て、三時間ほどの作業で終わるから、皆最初から作業着だし手荷物もない。
 眠気が訪れる時間帯の目覚まし代わりに、いっそうにこやかに送り出し、しばらく経ってもまだ雪子が通らないので、思わずバックヤードに確認に行こうかと爪先が向く。
 その時、ようやくバックヤード側のドアがスライドして、雪子が現われた。
 互いに「お疲れさまです」と会釈をし、雪子がカードをリーダーに通す間にも後姿を見詰めてしまう。
 何故だか、いつもより顔色が優れないように見える。
 差し出すようにトートバッグを広げて、少し中を掻き混ぜるようにしてくれる。弁当箱と水筒、そして筆記用具。いつもと同じ手荷物を形だけ確認するのを、彼女は静かに待っている。
「水上さんは、買い物しないの?」
 ふと零れた問いに、雪子は怪訝そうにしながらも「ないですね」と短く答えた。
「そうなんだ」
 何故唐突に言葉が出てしまったのか、慎哉自身も解らない。ただ、簡素な答えの割にはすぐに立ち去ろうとしないで慎哉を見上げた瞳が揺らぐのを、とくんと胸を高鳴らせて見詰めていた。
「するときもあるけど……開店中に仕事を終えてから、客として買い物します」
 あまりにも硬い会話だったけれど、それでも雪子は補足情報をくれた。
 へえ、と僅かに唇を綻ばせると、そのまま雪子は頭を下げてドアの向こうへと去っていく。
 自動ドアが閉まる寸前に「おやすみなさい」と声だけが届いた。


 秋も深まり、日没が早くなっていた。
 駐車場の中央にある小さな公園では、今にも止まりそうになりながら虫たちが懸命に羽を擦り合わせて最後のラブコールを送っている。もう少ししたら、生き物のいない枯葉まみれの殺風景な時期が訪れ、そうかと思えばイルミネーションできらびやかに飾り付けられるのだ。
 一番切ない季節だよねえと思いながら、慎哉は木で作られた外階段からフードコートの脇にあるテラスに上って行く。
 過ごし易くなると、学校帰りにたむろする学生も増え、日が暮れたテラスは大人のカップルを取り巻くように制服を着崩した中高生で溢れ返る。いちいち全員注意していたらきりがない上、逆切れされると大変だ。つい最近も誠也が刃傷沙汰に巻き込まれて額を何針も縫う羽目になった。
 進んで巻き込まれたくはないけれど、警備員はそんな輩から他の大多数の無害な客を守るのが仕事だ。気を引き締めながら、階段にぺたりと座り込んでいちゃついている高校生カップルの間を抜けて上って行く。

 鉄製のテーブルセットの間を、雪子が灰皿の掃除などしながら歩いている。
「失礼します。吸い過ぎたら背が伸びないですよ~? 高い方がモテモテだと思うんだけどなあ」
「えー、おねえさん付き合ってくれんの。カラオケ行こうよカラオケー」
「あら残念、まだまだ仕事が終わらないんですよねえ」
 床に落とされている吸殻をダストパンに収める様子を見ては、ギャハハと品のない笑いを上げつつも、このくらいの子供たちは素直に次の吸殻は灰皿に落としている。
「火事になったら大変でしょ? あらありがとう」
 そう言いながら、差し出されたゴミを受け取っては巡回カートの下にあるビニール袋の中に押し込み、笑顔で男たちをかわしながら作業していく。
 流石だな、と思った。
 他のクルーが遣っている様子も見かけるが、勿論こんな風に会話したりはしない。嫌悪しているのを隠しているのが丸判りの無表情で、与えられた仕事だけこなしていく。
 それが当たり前だと思っているから、水上さんは面白いなと、自分は自分で床や植え込みをチェックしながら今度は店内へと向かうためにガラスドアの方へと歩き出す。
 その時、背後でガシャッと何かが落ちる音と驚愕の声があがった。
 反射的に振り向くと、誰かが雪子の腕を掴んでその足元にダストパンとブラシが倒れている。周囲の学生たちも色めき立っているが、腕を掴んでいるのは学生ではなく成人男性だった。
 色味こそ学生かと思うような白い開襟シャツに黒いパンツを身に着けているが、顔つきからは幼さが抜けている。身長はそれほど高くないけれど、きっと雪子と同年代だろうと判断した。
「ユキ、なんで電話に出ない」
「離してください。仕事中です」
 少しだけ狼狽しているようだが、雪子は冷静を装い男を見返した。
「なんだよ、その他人行儀な言い方は! わざわざ会いに来てやってんだろうが」
「誰も頼んでいません。あなたと私は他人でしょう」
 この、と男が手を振り上げた瞬間も、雪子は目を逸らさなかった。
 少しずつ距離を詰めていた慎哉は、背後から男の手首の関節を取りわざと痛むように後ろに捻った。
「店内での暴力行為は認められませんね、お客様」
 上背のある慎哉に背後を取られて低い声で咎められ、男は慌てて振り向こうとしたが痛みで叶えられなかった。
 俺は客だぞ、お客様は神様だろうが、いてえよ、訴えるぞ。こんな時にいう台詞は決まりきっている。それをシラッと聞き流しながら、慎哉は雪子を目で促した。
 今の内に戻れ。
 時間的に、そろそろバックヤードに引き上げる筈だった。そのまま店内を突っ切り業務用エレベーターで下へ降りれば良い。
 いつの間にか離されていた手でダストパンセットを巡回カートの横に挟むと、雪子は強張った笑みで会釈をしてから足早に店内に消えた。
 それを目で追い姿が見えなくなってからようやく男を解放する。
 これもまたありきたりの捨て台詞を残して外階段を下りていくのを見送りながら、一昨日きやがれ、と心の中で毒づいたのだった。


 翌日、夕方に外回りの巡回から帰るとモニタールームで待機していた誠也が腕組みをして渋い顔をしていた。
 慎哉は前日に残業したから今日は定時で上がるつもりである。
 後もう少しだなあと、この後友達と会う約束をしているのを楽しみに鼻歌を歌いながら制帽を脱ぎ、「嫌なことでもあったのか」と何の気なしに軽く尋ねながら、持参しているスポーツ飲料を水筒から飲んだ。
 誠也は腕を解くと、片手を頭の後ろに回して背を反らせた。
「嫌っていうか、まあ腹立ってるけどな」
 ふうんと相槌を打つと、「水上さんが」と眉を顰めて声を落とす。
「さっき出勤してきた時、珍しく眼鏡掛けてて」
 雪子が十六時からのシフトを主にしているのは知っているため、頷いて続きを促した。
「彼女、目ぇ悪いのか」
「いや、多少は近視あるけど差し障りないから普段は掛けてないみたいで。だから、そんなの顔隠すために決まってんだろ」
「顔? 隠れないだろ眼鏡くらいで」
 サングラスなら別だけど、と慎哉が首を傾げると、そうだけど、と誠也は続ける。
「気持ちの問題だよ。外の世界と、レンズ一枚でも隔てていたいっていうかさ、隠れないって判ってても、少しでも隠したいっていうかさ」
 残念ながら、慎哉にはその気持ちが解らない。誠也はといえば、自分で悟ったわけではなくて雪子の上司である市村祐次が説明してくれたらしい。休憩室での一件のように、ふたりは業務外でも親しくしているようだ。
「目がさ、腫れぼったくて」
 昨日何かあったのは確実なのに、と誠也は項垂れている。
 それでようやく不機嫌のわけを悟り、なるほど、と慎哉は頷いた。
 誠也と慎哉は、もうひとり植田沙良という女性スタッフとチームを組んでいる。彼女は雪子と友人関係で、たまに祐次も交えて四人で食事や飲みに行くような仲らしい。だから腫れぼったい目で出勤してきて理由も語られないとなれば心配して不機嫌にもなろうというものだ。
「あれかなー。あの男と、あの後何かあったのかもな」
 昨夜のテラスでの出来事を思い出しながらぽろっと漏らすと、「あぁ?」と誠也の目が据わって下から胡乱に見上げられる。
「やー、昨日ちょっとした愁嘆場? テラスでな~元彼らしいやつに殴られそうだったから止めたんだけど、終業後のことまではしらねえし」
 だって痴情の縺れに仕事以外で関わりたくないじゃん、とあっけらかんというと、しばらく歯を食いしばって唸っていた誠也も諦めて嘆息した。
「わかった。じゃあ今度またそいつ見掛けたら俺か植田さんに知らせてくれよ。メールでいいから」
「はいはい。物好きだなあ、お前ら」
 人の恋路なんか首を突っ込んでもいいことなんて一つもないのに。
 感心と呆れと半々で軽く応えると、誠也は戸惑いながらもまた慎哉をじっと見詰めた。
 切れ長の澄んだ黒い眼差しが、心の中を覗こうとでもいうかのようにしんと微動だにしない。
「小野は、今好きな奴はいないのか?」
 吸い込まれそうで、ちょっとだけどきりとした。
「いねえよ。それに、水上さんはタイプじゃないし。しっかりしてるから、男なんて適当にあしらえるだろ」
 誰も私に近付かないで。そう言っている様な、素っ気無い背中を思い出す。
 女同士でも、沙良くらいしか砕けた口調で話す相手を見たこともない。ましてや男性では、上司の祐次くらいだろう。そう、確かに雪子は彼に対しては特に親愛の情を示していると慎哉は感じている。
 けれどその他の男性に対しての線の引き方は徹底している。あくまでもここが職場であると、働く仲間でありプライベートには一切踏み込むなと、そんなオーラを纏い続けているのだ。
 そうでもないんだけどな、との呟きに、慎哉は脳裏に浮かんだ背中を吹っ切った。
「情熱的な人だと思うよ、俺は。そこまで踏み込むのが大変だろうけど」
 淡々と言うから、本気なのか冗談なのか判らない。
「だったら木村がそっちにいけばいいんじゃね」
 慎哉、と名を呼ばれてどきりとする。
 職場では互いに名字で呼び合っているから、それはプライベートでの呼び方だ。
「俺には、大切な人がいるから。実際水上さんにも惹かれたし、もしもって何回も考えた。それでもやっぱり他の未来は考えられない。もう、決めてるから」
 ごめんな、ありがとう。長い睫毛が震えて、目線が下がった。それを追いながら、「そ」と軽く応えて、誠也の隣の椅子に腰を下ろした。
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