君を聴かせて

亨珈

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コール

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 また、携帯電話の端末が振動した。
 ブブブブブブ、ブブブブブブ、と同じリズムで繰り返し、十回ほどのコールの後に止まり、また数秒後に振動する。
 ここのところ毎日で、雪子はノイローゼになりそうだった。
 それでも、職場や知人からの連絡があると困るから、電源は落とせない。特定の番号を着信拒否にしても、公衆電話から掛けられてくるそれ。
 相手は判っている。
 そうして暫くすると、携帯ではなく固定電話が鳴り始めることも。
 腕時計を見て、ダイニングテーブルに置きっぱなしだった端末をハンドバッグにしまうと、壁からモジュラージャックを引き抜いた。
 元々留守番電話の機能は使っていない。本当に在宅のときだけ、相手の番号によっては取るようにしている。留守の間に鳴り続けるのも近所迷惑だろうと、抜いておくのだ。
 二階建てのアパートは一応鉄筋造りだけれど、壁は厚くない。夕方から夜にかけてが主な勤務時間の雪子は、近所への配慮も怠らない。隣の幼い子供たちの睡眠妨害にはしたくなかった。
 バッグの中で振動を続ける端末の充電はもつだろうか。それだけを気にするようにしながら、雪子は静かに靴を履き、住み慣れた我が家を後にした。




 目の前でしきりに頭を下げる若い母親が、自分を見た途端に今までの母親の顔から女の顔になったのを認識して、慎哉は内心苦笑する。勿論そんなことは匂わせたりしない。職務ですからと、お決まりの言葉で濁して、それでも爽やかで甘い笑顔は眼前の女性を含め比較的若い年齢層の女性全てを魅了する。
 幼い子供を抱いたままぽうっと背中を見つめられているのを感じながら、交代のために慎哉はショッピング・モールの通路からバックヤードへと抜けるスイングドアをくぐった。
 カラカラと乾いた音を立てながら、曲がり角から巡回カートを押した女性が現れる。女性にしては短めの、少年のようなショートヘアに赤いタータンチェックのベレー帽。袖と襟も同柄の半袖シャツに、同柄のキュロットパンツが色白の肌を引き立てている。
 清掃部門サブマネージャーの水上雪子みずかみゆきこだった。
「おつかれさまです」
 にこやかにどちらからともなく会釈し、挨拶を交わす。それは従業員として当たり前のたしなみで。誰にでも一定の親しみを込めているそのたおやかな笑顔が、擦れ違いざまにすうっと消えることも、慎哉は気付いていた。
 ――美人なのに、勿体ねえの。いや、美人だからとっつきにくいのか。
 先刻の慎哉のように、店内に出れば雪子は男性の視線を釘付けにする。若者は勿論のこと、それには初老男性が多いことだって慎哉は知っていた。
 セクハラまがいのタッチすら巧みに受け流す器量。作業をしながら、それとなくきちんと聞いていることを示しながらの会話。それでもシフトに響かないよう、傍から見て職務怠慢と見られないような、ごく自然な立ち退き方も心得ている。
 何百人もの従業員がいて、非番の日以外毎日顔を合わせる人のひとり。
 そして、自分に色目を使わない稀有な存在。
 ドアの揺れが治まり、もう雪子の背中が見えない。いつも通りにお辞儀をして、颯爽とメイン通路に出た筈だ。
 制帽の鍔に指を掛けて位置を直してから、慎哉はバックヤード側のスイングドアを静かに押した。丁度店内に戻る様子のどこかの店員の姿が目に入り、ドアを押さえたまま体をずらす。
 にこりと微笑んで、どうぞというように白手を嵌めた手で示すと、自分よりやや若いその女性はぱあっと顔を輝かせ、後ろ髪を引かれるようにしながら曲がって行った。
 普段見慣れている光景。大抵の女性が示す態度。それに慣れっこになっている慎哉にとっては、先刻の雪子のような素っ気無さが際立って感じられるのだ。
 万人にもてるなんて有り得ないことだけれど、一般的な基準からすれば、出来ればお近づきになりたい部類の男であると、慎哉は自負している。
 また、慎哉の属する警備部門の採用基準でもある――心身ともに健康で、ひとを不快にさせない、そして格闘技をある程度修めている者、これら全てを満たすため警備スタッフは常日頃から鍛錬を欠かさない。それなのに、カート整理をしているシルバーのひとたちと同じように接せられるなんて、慎哉には噴飯ものなのである。
 しかし、慎哉は特に気にしていないが、世の中には職場恋愛をしないよう予防線を張る人がいるのも知っている。雪子がそのタイプなのか、もしかしたらとてつもなく特殊な恋愛思考なのか、はたまた慎哉よりも魅力的な恋人がいるのかのいずれかなのだろう。
 その内容を知りたいなと少し思いながらも、深くは追求しないことにしている。元々、どちらかといえば慎哉の好みは守ってやりたくなるような可愛い系である。それでも、今までは付き合いが数ヶ月しか続いたことがない。付き合っていても、他の女性よりも大事にはしても、だからといって彼女以外に冷たくしたり素っ気無くしたりするわけではないから、大抵はそれが不満で離れてしまうのだ。
 慎哉にしてみれば、一番の座があるのだから良いじゃないかと思うのだが、それは許されないらしい。それを許容できる寛容な女性か、もしくは自分自身が周りに目もくれなくなるくらい夢中になることが出来る、そんな女性がいずれ現れるのだろう。
 まだ二十代半ばなのだから、ゆっくりやればいい。慎哉はそう思っていた。


 ある日、店内巡回を終えた慎哉が二階のスイングドアを抜けてバックヤードに入ると、休憩室の長テーブルで談笑している誠也が目に留まった。業務中は木村と名字で呼ぶが、採用が同じの同期で同じチームだから、勤務外では名前で呼び会う仲である。慎哉より短くすっきりと整えた黒髪で、品のある綺麗な顔立ちをしている。割と年輩にも受けの良い辺りが、雪子と同じタイプの美形だと思う。人気を二分するライバル的存在でもあるのだが、ふたりは好みが被らないため、就職して二年と少し、今のところそれらしい喧嘩もしたことがない。
 そんな誠也が、いつになく上機嫌で笑っている。周りのテーブルの女性スタッフたちが、そわそわと誠也を伺い、同席している女性に剣呑な視線を向けている。間に一人挟んで腰掛けているのは雪子だった。
 雪子も、慎哉が初めて見る笑顔だった。仕事で、客やスタッフに向けるものではない。くすぐったそうに、思わず漏れたというような、本物の笑顔だった。
 ちりりと胸の奥が疼くが、ふたりの間にいるもうひとりの男性を見て、納得した。
 雪子と同じくらいの身長で、誠也と慎哉よりひとつ年上の、雪子の上司である。誠也は以前からそのひとには格別に気を使っていた。いつも今にも倒れそうなくらいに疲れていて、まさに会社に尽くす犬のような働き方をしている。
 放っておけずになにかと声を掛けたりしているが、慎哉は全く興味がない。何が悲しくて業務に含まれない部分で男に気を使わねばならないのか。
 しかし、雪子にとっては上司で、そういうわけにもいかないのだろう。それでも、きっと雪子の手製なんだろうなと思う弁当箱の中身をふたり掛かりでせっせとその男に食べさせるなんて、やっぱり常軌を逸しているとは思う。
 当の本人も居たたまれない様子で身を縮こまらせて、顔を真っ赤にして。とても自分より年上になんて見えない。けれどふたりの好意を無にするのもいけないと思っているのか、口を開けては料理を突っ込まれている。
 そんな変な三人をどう見れば良いのか、周囲も測りかねているようだ。
 天井から吊されている鉄の台に固定されたテレビでは、昼の人気番組が終わるところだった。そろそろテーブルの上を片付け始めるスタッフも出始めて、そんな中を慎哉は三人のテーブルに近付いて、軽く握った拳でコンコンと天板を小突いた。
「きーむーらーくん、かーわって」
 わざと間延びした声で小学生のように呼ばうと、ハッと顔を上げた誠也が左腕を上げて時刻を確認した。
「お、悪い。すぐ降りる」
 一応一階の警備員室で軽く引継をするのと、休憩中には制帽を脱いでいるため、どちらにしても一度慎哉も戻らねばならない。
 居心地悪そうにぺこりと頭を下げる上司の横で、雪子が「お疲れさまです」と慎哉にも笑みを向けた。
 その笑顔が、自分が声を掛けるまでのものと全く違っていることに何故か苛々してしまう。
 雪子の周囲に残っている女性スタッフたちは、誠也と慎哉のツーショットに色めき立ち、誰憚ることなく堂々と歓声を上げているというのに。
 制帽の鍔に指を掛けて同じ挨拶を返してから、誠也と前後して休憩室を後にしたのだった。
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