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〈前日譚〉恋に打たれて【後編】
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義浩がボックス席の面々を送り出したのは、日付が変わってからだった。正直そろそろ帰ろうとタイミングを計っていた雪子は、一気に静かになった店内で小さく吐息して、隣でずっと星と喋り続けている美和を突付いた。
「そろそろ帰るね」
「あー、そうなの? ばいばーい」
何の為に来たんだろうと思わないでもない。開店してすぐの時間から居座っている雪子の前で、沢山の客が出入りするのを眺めつつ飲んでいただけで、結局歌いもしなかった。たまにマスターが話を振ってくれたものの、基本的に星は美和と話しているし手持ち無沙汰この上ない。三人で話しても良いのだが、そこは気を利かせて口を挟まなかったのだ。義浩の顔が見れたことに満足して、もっと早くに踏ん切りをつけるべきだったと後悔しながら、マスターに支払って席を立った。
雪子の目の前で重いドアが内側に開き、避ける為に足を止めたところに「さむっ」と肩を震わせた義浩が入って来る。
「あれ、帰るの」
疲れた顔を隠しもせずにきょとんと見詰められ、雪子はひとつ頷いてそのまま待った。
ようやく体が空いたのは素直に嬉しく思うが、胸の底の方にどろりと重いものがある。口移しの他にも、様々なゲームをしているのを目にしたし、かなり露骨に触り合ってもいた。ようやく現実に向き合うことが出来た。それだけが今日の収穫だと納得して、もう来ないくらいのつもりでいるのだ。
「夜はこれからなのに」
「そんな疲労困憊の顔で言われても説得力ない」
残念そうに言われたが、自分で羽織ったカシミヤのコートのボタンを雪子が留めるのを見て、義浩はまたドアを開けた。
一般客が引いて、この後の時間帯は近所のホステスたちがやってくるだろう。そのテンションも、普段なら微笑ましく見守っていられるのに、少なくとも今の雪子には無理だろうと思われた。
ひゅうっと寒風吹きすさぶ戸外に足を踏み出す。
「寒いから、見送りはいいよ」
じゃあねと微笑んで、前の週と同じように遠回りの道を選んだ。「また来てね」とお決まりの声が背中に届いたけれど、手だけ上げてひらひらと応じる。
あーあ。やっぱり、あの「ビビビ」もただの静電気だったのかな……。
あの時、確かにふたり揃って感じたと思ったのに。ショートヘアをかき上げて、カツカツと石畳を足早に歩き続ける。
今夜は、言葉すらも追っては来なかった。
枕元で振動する感触に意識を揺り動かされ、浮上する。細く目をすがめたままもぞもぞとまさぐりフリップを開けた。モーニングコールなんて頼んでいない。視界がぼやけているのは判っているから名前も確認しなかった。
「もしもし」
『あーやっぱ寝てた。ごめんごめん、起こしちゃったか』
ぱちりと一気に瞼が上がる。なんて現金な体だろう。
「よしくん、おつかれさま」
もにょもにょと目を擦って壁掛け時計を見ると、もう後数分で八時がこようとしている。寝付きが悪かったから、いつもなら起床している時間なのに目が覚めなかったんだろう。
『今日、予定有る?』
「えと、夜は今日は」
決心がぐらつきそうだ。九割方、もう店には行かないことにしようと思っていたのに。声を聞いただけでももう足元が揺らいでしまっている。
『ちゃうちゃう。これからデートしない』
あっけらかんと言われて、息を飲む。
え、今デートって言ったの。しかも今から。
肘を突いて電話機を耳に当てたまま、ごろんと仰向けになった。
「予定は、ないけど。よしくんは眠いんじゃない」
『あーうん。だからちょっとだけになっちゃうけど、会えないかなと思って。何処でもいいよ、待ち合わせ』
なんだか夢の中に居るみたい。ふわふわと現実感のないままに、ひと駅向こうの市民公園で約束をした。
どうしてと疑問ばかりが渦を巻く。自分の愚かさに愛想が尽き掛けたというのに、早くも期待してしまっている。
こんなの、昨夜私が素っ気なく帰ったから、ヤバイと思って引き留めようとしているだけなんだって。
顔を洗いながら涙が零れそうになった。
それでもいい。会いたい。少しでも、可能性があるのなら。
球場も含めて様々なスポーツ施設を備えた大型の公園は、駅舎から見える位置でも歩くと結構かかる。逸る足を諫めながらも、アスレチックの傍の芝生広場に着く頃には、はあはあと息が弾んでしまっていた。
緩く斜面になっている芝生に、トレーニングウエア姿の義浩が転がっている。長い前髪が目に掛かり、その瞼は今閉じられていた。静かに上下している薄い腹部からして、本当に眠っているのだろう。雪子は静かに歩み寄ると、そうっと隣に腰を下ろした。
場所が決まっていたから、デート向けのひらひらしたものでなくジーンズとハーフコートにして正解だった。朝露が乾いたばかりの草は、下の地面が少し湿っぽい。滲みるほどではないかなと、ちらりと一旦ボトムスを確認してしまった。
すうすうと寝息をたてている義浩を見下ろして、自然と口元が緩む。眠いなら、無理しなくても良かったのにと言ってしまいたい。
営業。そうこれは雪子が顧客の家まで時間外に顔を見せに行くのと同じ、仕事の延長なのだ。それ以上じゃないんだから、変に期待してはいけない。それでも、薄く開いた唇にキスを落としたいとか、目に掛かっている髪を払いのけたいとか、感じたままに動きたいという欲望は止まらない。
「だめだよ」
声に出してしまっていた。前髪をかき上げていた手でハッと口を押さえたが、ぽかりと義浩の目が大きく開いている。
「なにがだめなの」
欠伸を噛み殺しながらも、雪子の目を見つめたまま義浩は体を起こした。
「な、なんでもない」
言い訳が思いつかなくて、笑って誤魔化そうとする。意外にも、義浩の方が笑わなかった。店にいるときとは別人のように淡々とした表情で雪子をまっすぐに捉え、それに狼狽する。
あの、と雪子が口を開くと、うん、と促すように相槌を打たれた。何か言わないと義浩からは話を先に進める気がないらしい。
「今日は、どうして。いつも電話だけじゃなくてこういうことしてるの」
「こういうことって、ああ、デートか。うん、たまにね」
けだるげに髪を指で梳きながら答える義浩には悪びれたところなど微塵も見られない。やはり営業なんだと、雪子の笑みは強ばった。そ、と短く答え、まだ自分を見つめている義浩にぎこちなく笑い掛ける。
「あのね、私ひとつだけ嘘付いてた」
「嘘?」
「私、本当は二十三じゃないの。二十五だよ」
出会った日に、義浩が年下好きというのを聞いて、とっさに年齢を偽っていた。二歳くらいならなんとも判断が付けられないのも承知で、飲み屋トークで嘘が許容されるのも知っていて、内緒内緒と随分引っ張った上でぽろりと一回だけ口にしたのだ。
はあ、と義浩は長いため息を付いた。ぷいと横を向いて、膝の上で頬杖を突いている。
ああ、顧客の一人にしか過ぎなくても、やっぱり年上はダメなんだな。それとも、嘘を吐かれて怒っているのかも。戸惑ったものの、仕方ないやと腰をにじらせて、改めて頭を下げた。
「ごめんなさい、嘘吐いて。じゃあ」
こちらを向いていないのは承知できちんと頭を下げ、頭と一緒に腰も上げる。
最後に一度顔を見られただけでもいいか。そう思うことにして、ぱたぱたと尻を払ってから背を向けた。
「待ってよ。なんでそこでバイバイになるわけ」
声に引き留められて振り向くと、もう義浩は立ち直ったように雪子と視線を合わせてくる。雪子の方は、そのまま無言で終わると思っていたので、驚きをそのまま表してしまっていた。
「了解、まあ店での話だし、しょうがない。それはもういいや」
義浩も立ち上がって一度上着を脱ぐと、ばさりと草を払い落とした。
「大人っぽいからさ、ゆきちゃん。怪しいなあとは思ったけど、まあ追求しちゃダメでしょあそこじゃあ」
曖昧に頷く雪子に、また上着に袖を通しながら義浩が歩み寄る。ふっと笑みを浮かべられて、心臓が痛くなった。
良かったと安堵していいのか判らない。彼女候補ではなくてただの客だから、好みは関係ないのかもしれない。
「あの、それは助かるんだけど。それで、今日はその……」
これからどうするのと言おうとした。それを遮るように、義浩がきっぱりと口にした言葉に耳を疑う。
「会いたかったから。それだけ」
それは、と言葉を詰まらせて、雪子は横髪を耳に掛ける仕草をした。
「それって、昨日の帰り際の私が気になったってことでしょ。そりゃそうだよね、客一人減るかもしれないんだもんね」
「そんなに営業熱心じゃないよ、おれ。彼女以外に昼間に女誘わねえし」
笑みが消えて真顔になった義浩に戸惑いながらも、でも、と口にする。
「彼女、いるんでしょ」
「ほっしーか……うん、いるよ」
素直に肯定する義浩の瞳は曇りがない。そこは誤魔化さないのかと、雪子の方が苦笑してしまう。
「なに、それが一番気になる? 別れたらいい?」
「は、なに言って」
動揺して距離をとろうとする雪子に、義浩がぐいと体を寄せた。
「今一番気になってるのはゆきちゃんだから。それじゃダメだって思うなら、女の方と別れる。そしたら付き合ってくれるのか」
絶句した。これは夢かしらと、受け入れられない。そんな都合の良い展開があるんだろうかと思う。
「もう三年くらい付き合ってるし、一時期同棲もしてた。今でも結婚するなら彼女しかいないって思ってるくらい仲いいよ。それでも、ゆきちゃんが望むなら別れるから」
「なに、それ」
脳味噌を両手で掴まれて振り回されているかと思うくらいに混乱している。
結婚したい相手と別れてもいい。そんなの信用できるはずがない。ここまで率直に話されたのは初めてで、そんなこと言わずに隠しておけばいいのだからこれは真実なんだと思う。
だけどそんな都合良く進むはずがない。ここで誠意を示しておいて、きっとその彼女とも切れずに続いて二股状態になるんだろう。
ゆきちゃん、と呼ばれて、抱き寄せられる。トワレに混じって煙草の匂いがした。雪子の知らないところで吸っているのか。彼女はそんな義浩のことも当然全て知っているんだ。そう考えただけで、かあっと体が熱くなる。
もっと知りたい、この人のこと。
もしも本当に別れるつもりならどうする。私だって好きなのに、その気持ちに間違いはないのに、ここで決心しないと機会を逃してしまう。
義浩の気の迷いでも構わない。今掴まないと、きっともうこんなチャンスは巡ってこない。
タイミングを見定めている間に失ってしまった昔の恋を思い出す。好きと告げたときに、両片思いだったと知らされた。時間は戻せない。付き合っている彼女を大事にしたいと拒絶されて初めて遅すぎたことに気付いた。
もうあんな思いはイヤだ。
「本当に、私のために」
「別れるよ。今決めてくれるならここですぐに電話してもいい。一度は会うことになるけど、もうそれで終わらせるから」
義浩の胸元をぎゅっと握り締めて、目を閉じた。自分がその彼女だったら、どんなにか悔しいだろうと思う。円満に続いていたのに、突然に別れを切り出される。嫌だと言っても、もう終わらされてしまう。
きっと死にたくなるくらい悲しくて、どうしてと問いつめて、理由を知れば自分を恨むだろう。
ああ、それでも――
「好き、よしくん」
開いた眦から、涙が一筋零れ落ちた。
義浩の首に腕を回し、縋り付くように唇を重ねると、待っていたかのように迎えられ、人目も憚らずに貪り合う。
ジョギングの人たちはちらりと横目に嘲笑し、親子連れは子供たちの好奇の目を隠しつつも嫌悪の表情を浮かべているが、ふたりには最早関係ない世界の出来事だった。
息を継ぐ合間に愛を囁く雪子に、義浩は長い口付けで応える。
――ああ、きっと私は罰を受けるだろう。
雪子はまた確信めいた予感を抱いていた。
それでもいいと、義浩の背に回した腕に力を込める。
布越しに伝わってくる温度が、口内で絡み溶け合う熱が、今感じられる確かな鼓動が、これこそが望んでいたものだと確信させてくれていた。
Fin.
「そろそろ帰るね」
「あー、そうなの? ばいばーい」
何の為に来たんだろうと思わないでもない。開店してすぐの時間から居座っている雪子の前で、沢山の客が出入りするのを眺めつつ飲んでいただけで、結局歌いもしなかった。たまにマスターが話を振ってくれたものの、基本的に星は美和と話しているし手持ち無沙汰この上ない。三人で話しても良いのだが、そこは気を利かせて口を挟まなかったのだ。義浩の顔が見れたことに満足して、もっと早くに踏ん切りをつけるべきだったと後悔しながら、マスターに支払って席を立った。
雪子の目の前で重いドアが内側に開き、避ける為に足を止めたところに「さむっ」と肩を震わせた義浩が入って来る。
「あれ、帰るの」
疲れた顔を隠しもせずにきょとんと見詰められ、雪子はひとつ頷いてそのまま待った。
ようやく体が空いたのは素直に嬉しく思うが、胸の底の方にどろりと重いものがある。口移しの他にも、様々なゲームをしているのを目にしたし、かなり露骨に触り合ってもいた。ようやく現実に向き合うことが出来た。それだけが今日の収穫だと納得して、もう来ないくらいのつもりでいるのだ。
「夜はこれからなのに」
「そんな疲労困憊の顔で言われても説得力ない」
残念そうに言われたが、自分で羽織ったカシミヤのコートのボタンを雪子が留めるのを見て、義浩はまたドアを開けた。
一般客が引いて、この後の時間帯は近所のホステスたちがやってくるだろう。そのテンションも、普段なら微笑ましく見守っていられるのに、少なくとも今の雪子には無理だろうと思われた。
ひゅうっと寒風吹きすさぶ戸外に足を踏み出す。
「寒いから、見送りはいいよ」
じゃあねと微笑んで、前の週と同じように遠回りの道を選んだ。「また来てね」とお決まりの声が背中に届いたけれど、手だけ上げてひらひらと応じる。
あーあ。やっぱり、あの「ビビビ」もただの静電気だったのかな……。
あの時、確かにふたり揃って感じたと思ったのに。ショートヘアをかき上げて、カツカツと石畳を足早に歩き続ける。
今夜は、言葉すらも追っては来なかった。
枕元で振動する感触に意識を揺り動かされ、浮上する。細く目をすがめたままもぞもぞとまさぐりフリップを開けた。モーニングコールなんて頼んでいない。視界がぼやけているのは判っているから名前も確認しなかった。
「もしもし」
『あーやっぱ寝てた。ごめんごめん、起こしちゃったか』
ぱちりと一気に瞼が上がる。なんて現金な体だろう。
「よしくん、おつかれさま」
もにょもにょと目を擦って壁掛け時計を見ると、もう後数分で八時がこようとしている。寝付きが悪かったから、いつもなら起床している時間なのに目が覚めなかったんだろう。
『今日、予定有る?』
「えと、夜は今日は」
決心がぐらつきそうだ。九割方、もう店には行かないことにしようと思っていたのに。声を聞いただけでももう足元が揺らいでしまっている。
『ちゃうちゃう。これからデートしない』
あっけらかんと言われて、息を飲む。
え、今デートって言ったの。しかも今から。
肘を突いて電話機を耳に当てたまま、ごろんと仰向けになった。
「予定は、ないけど。よしくんは眠いんじゃない」
『あーうん。だからちょっとだけになっちゃうけど、会えないかなと思って。何処でもいいよ、待ち合わせ』
なんだか夢の中に居るみたい。ふわふわと現実感のないままに、ひと駅向こうの市民公園で約束をした。
どうしてと疑問ばかりが渦を巻く。自分の愚かさに愛想が尽き掛けたというのに、早くも期待してしまっている。
こんなの、昨夜私が素っ気なく帰ったから、ヤバイと思って引き留めようとしているだけなんだって。
顔を洗いながら涙が零れそうになった。
それでもいい。会いたい。少しでも、可能性があるのなら。
球場も含めて様々なスポーツ施設を備えた大型の公園は、駅舎から見える位置でも歩くと結構かかる。逸る足を諫めながらも、アスレチックの傍の芝生広場に着く頃には、はあはあと息が弾んでしまっていた。
緩く斜面になっている芝生に、トレーニングウエア姿の義浩が転がっている。長い前髪が目に掛かり、その瞼は今閉じられていた。静かに上下している薄い腹部からして、本当に眠っているのだろう。雪子は静かに歩み寄ると、そうっと隣に腰を下ろした。
場所が決まっていたから、デート向けのひらひらしたものでなくジーンズとハーフコートにして正解だった。朝露が乾いたばかりの草は、下の地面が少し湿っぽい。滲みるほどではないかなと、ちらりと一旦ボトムスを確認してしまった。
すうすうと寝息をたてている義浩を見下ろして、自然と口元が緩む。眠いなら、無理しなくても良かったのにと言ってしまいたい。
営業。そうこれは雪子が顧客の家まで時間外に顔を見せに行くのと同じ、仕事の延長なのだ。それ以上じゃないんだから、変に期待してはいけない。それでも、薄く開いた唇にキスを落としたいとか、目に掛かっている髪を払いのけたいとか、感じたままに動きたいという欲望は止まらない。
「だめだよ」
声に出してしまっていた。前髪をかき上げていた手でハッと口を押さえたが、ぽかりと義浩の目が大きく開いている。
「なにがだめなの」
欠伸を噛み殺しながらも、雪子の目を見つめたまま義浩は体を起こした。
「な、なんでもない」
言い訳が思いつかなくて、笑って誤魔化そうとする。意外にも、義浩の方が笑わなかった。店にいるときとは別人のように淡々とした表情で雪子をまっすぐに捉え、それに狼狽する。
あの、と雪子が口を開くと、うん、と促すように相槌を打たれた。何か言わないと義浩からは話を先に進める気がないらしい。
「今日は、どうして。いつも電話だけじゃなくてこういうことしてるの」
「こういうことって、ああ、デートか。うん、たまにね」
けだるげに髪を指で梳きながら答える義浩には悪びれたところなど微塵も見られない。やはり営業なんだと、雪子の笑みは強ばった。そ、と短く答え、まだ自分を見つめている義浩にぎこちなく笑い掛ける。
「あのね、私ひとつだけ嘘付いてた」
「嘘?」
「私、本当は二十三じゃないの。二十五だよ」
出会った日に、義浩が年下好きというのを聞いて、とっさに年齢を偽っていた。二歳くらいならなんとも判断が付けられないのも承知で、飲み屋トークで嘘が許容されるのも知っていて、内緒内緒と随分引っ張った上でぽろりと一回だけ口にしたのだ。
はあ、と義浩は長いため息を付いた。ぷいと横を向いて、膝の上で頬杖を突いている。
ああ、顧客の一人にしか過ぎなくても、やっぱり年上はダメなんだな。それとも、嘘を吐かれて怒っているのかも。戸惑ったものの、仕方ないやと腰をにじらせて、改めて頭を下げた。
「ごめんなさい、嘘吐いて。じゃあ」
こちらを向いていないのは承知できちんと頭を下げ、頭と一緒に腰も上げる。
最後に一度顔を見られただけでもいいか。そう思うことにして、ぱたぱたと尻を払ってから背を向けた。
「待ってよ。なんでそこでバイバイになるわけ」
声に引き留められて振り向くと、もう義浩は立ち直ったように雪子と視線を合わせてくる。雪子の方は、そのまま無言で終わると思っていたので、驚きをそのまま表してしまっていた。
「了解、まあ店での話だし、しょうがない。それはもういいや」
義浩も立ち上がって一度上着を脱ぐと、ばさりと草を払い落とした。
「大人っぽいからさ、ゆきちゃん。怪しいなあとは思ったけど、まあ追求しちゃダメでしょあそこじゃあ」
曖昧に頷く雪子に、また上着に袖を通しながら義浩が歩み寄る。ふっと笑みを浮かべられて、心臓が痛くなった。
良かったと安堵していいのか判らない。彼女候補ではなくてただの客だから、好みは関係ないのかもしれない。
「あの、それは助かるんだけど。それで、今日はその……」
これからどうするのと言おうとした。それを遮るように、義浩がきっぱりと口にした言葉に耳を疑う。
「会いたかったから。それだけ」
それは、と言葉を詰まらせて、雪子は横髪を耳に掛ける仕草をした。
「それって、昨日の帰り際の私が気になったってことでしょ。そりゃそうだよね、客一人減るかもしれないんだもんね」
「そんなに営業熱心じゃないよ、おれ。彼女以外に昼間に女誘わねえし」
笑みが消えて真顔になった義浩に戸惑いながらも、でも、と口にする。
「彼女、いるんでしょ」
「ほっしーか……うん、いるよ」
素直に肯定する義浩の瞳は曇りがない。そこは誤魔化さないのかと、雪子の方が苦笑してしまう。
「なに、それが一番気になる? 別れたらいい?」
「は、なに言って」
動揺して距離をとろうとする雪子に、義浩がぐいと体を寄せた。
「今一番気になってるのはゆきちゃんだから。それじゃダメだって思うなら、女の方と別れる。そしたら付き合ってくれるのか」
絶句した。これは夢かしらと、受け入れられない。そんな都合の良い展開があるんだろうかと思う。
「もう三年くらい付き合ってるし、一時期同棲もしてた。今でも結婚するなら彼女しかいないって思ってるくらい仲いいよ。それでも、ゆきちゃんが望むなら別れるから」
「なに、それ」
脳味噌を両手で掴まれて振り回されているかと思うくらいに混乱している。
結婚したい相手と別れてもいい。そんなの信用できるはずがない。ここまで率直に話されたのは初めてで、そんなこと言わずに隠しておけばいいのだからこれは真実なんだと思う。
だけどそんな都合良く進むはずがない。ここで誠意を示しておいて、きっとその彼女とも切れずに続いて二股状態になるんだろう。
ゆきちゃん、と呼ばれて、抱き寄せられる。トワレに混じって煙草の匂いがした。雪子の知らないところで吸っているのか。彼女はそんな義浩のことも当然全て知っているんだ。そう考えただけで、かあっと体が熱くなる。
もっと知りたい、この人のこと。
もしも本当に別れるつもりならどうする。私だって好きなのに、その気持ちに間違いはないのに、ここで決心しないと機会を逃してしまう。
義浩の気の迷いでも構わない。今掴まないと、きっともうこんなチャンスは巡ってこない。
タイミングを見定めている間に失ってしまった昔の恋を思い出す。好きと告げたときに、両片思いだったと知らされた。時間は戻せない。付き合っている彼女を大事にしたいと拒絶されて初めて遅すぎたことに気付いた。
もうあんな思いはイヤだ。
「本当に、私のために」
「別れるよ。今決めてくれるならここですぐに電話してもいい。一度は会うことになるけど、もうそれで終わらせるから」
義浩の胸元をぎゅっと握り締めて、目を閉じた。自分がその彼女だったら、どんなにか悔しいだろうと思う。円満に続いていたのに、突然に別れを切り出される。嫌だと言っても、もう終わらされてしまう。
きっと死にたくなるくらい悲しくて、どうしてと問いつめて、理由を知れば自分を恨むだろう。
ああ、それでも――
「好き、よしくん」
開いた眦から、涙が一筋零れ落ちた。
義浩の首に腕を回し、縋り付くように唇を重ねると、待っていたかのように迎えられ、人目も憚らずに貪り合う。
ジョギングの人たちはちらりと横目に嘲笑し、親子連れは子供たちの好奇の目を隠しつつも嫌悪の表情を浮かべているが、ふたりには最早関係ない世界の出来事だった。
息を継ぐ合間に愛を囁く雪子に、義浩は長い口付けで応える。
――ああ、きっと私は罰を受けるだろう。
雪子はまた確信めいた予感を抱いていた。
それでもいいと、義浩の背に回した腕に力を込める。
布越しに伝わってくる温度が、口内で絡み溶け合う熱が、今感じられる確かな鼓動が、これこそが望んでいたものだと確信させてくれていた。
Fin.
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