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〈前日譚〉恋に打たれて【前編】
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元彼との出会いのエピソードです。
---・---・---・---・---
これが「ビビビ」というやつか。確かに師走で、冬場には静電気が発生し易くてもそれとは違う。触れた瞬間にからだを貫いたちりちりとしたもの。
カウンターのスツールに腰掛けて雪子の白魚のような手を取った男性も瞠目し、動きを止めたふたりは目を交わし合った。
稲妻に打たれるような、という表現がある。これがそうなのだろうか。本物には打たれたことがないから判らない。だけどこんなことが有りうるのか、いや、たった今経験したばかりのことを否定するわけではない。
それでも。
細く整えた眉をぴくりと跳ねさせ、眠そうだった甘く垂れた眼差しがそうっと雪子を上目に見る。止まっていたときが動き始めた。
「あ、手相、だったよね。どうかな」
やんわりと握られていた手が返されて、掌を上にして、よしくんと名乗った店員は視線を落とした。柔らかな肉の上を、親指がさする。薄ぼんやりとセピア色に染まった店内で、細かな皺など見えるのだろうかと首を傾げて見守った。
ナンパの手管。営業トークの一つ。そんなことは百も承知だ。ここは駅近くの飲み屋街で、数軒有るボーイズバーのひとつなのだから。常連客を得るためにいかようにも気を引く素振りをしてみせるだろう。
そうと知っていても、信じたかったのかもしれない。恋に落ちる瞬間の、その衝撃を。
これは運命の出会いだと、かたくなに縋り付きたかったのかもしれない。
深夜近くなってようやく思い出したかのように名刺を差し出された。
「エフ 義浩」店名と名前のみのシンプルなカードの裏を返すと、手書きで数字が書いてある。
しっ、と義浩が人差し指を唇に当てた。
「ゆきちゃんには特別な」
ウインクして、さも秘密のことのように、薄い唇が 雪子の耳朶に寄せられる。
「語呂合わせで覚えやすいだろ」
言われてしげしげと数字を見て、あ、と雪子は息を飲んだ。ポケベル世代だから、数字を文章にするのは苦ではない。じとりと睨み上げると、イタズラが成功した子供のように歯を見せて笑われた。
「試してみる?」と。
ばか、えっち。小さく文句を言いながら、両手の指でバツを作り、チェックと告げる。じきにマスターがペンで書き付けて、手元に金額のメモが滑り込む。ちらりと見て、ハンドバッグから取り出した財布から紙幣を抜くと義浩に渡した。小さな店だからレジなどはない。相場を知らなければ、この辺りの店に一見では入りにくいものだ。
「タクシー呼ばなくていいの」
中で一度断っているが、扉の外に出てからもう一度義浩が問いかけた。
「いいよ。近いから、歩いて帰る」
「閉店までいるなら送ってくのに」
下がり気味の眉を寄せて、義浩は心配そうにしている。それが本音でなくとも、なんとなく嬉しい。
「遠回りになるけど、地下道通らずになるべく人通りのあるとこ歩くから」
黒いパンプスの爪先で石畳をつつきながら、雪子は鞄を持ち直し、じゃあと首を傾げた。
凄く、キスしたい気分だった。男性にしては細い顎を両手で包んで顔を寄せれば、自分より一つ年下のこの青年はいったいどんな顔をするだろう。
もの言いたげに小さな唇が開き、それを見下ろす義浩の瞳が揺れている。
きっと、気持ちは伝わっている。そうしたとして、出会った数時間後にそんなことをする女なんだと軽く見られるんだろうなと思う。すんと鼻を鳴らして、潤み始めた目を逸らせてから「じゃあ」と足を踏み出した。
「電話」と義浩の声が追いかけてくる。
「家に着いたら、掛けてきて。心配だから」
寂れた飲み屋街に、少し高めの声が大きく響いた。
酔客とはそれなりにすれ違ったが、雪子自身はさほど酔っていないから大股で歩き続けているうちにあっと言う間にアパートに到着した。一階の自室に入りサムターンを二つとも回すと、ようやく肩の力が抜けて大きく吐息が漏れる。
この番号、本物かなあ。パンプスを揃えて端に寄せてから、短い廊下を歩きダイニングテーブルに鞄を置いた。その中から取り出した名刺を指先で弄びながら、すでに暗記してしまった番号を携帯電話に入力してみる。
シックスナインしっぱなし。まさか指定して取ったわけでもあるまいが、確かに印象深い並びの数字だ。
『もしもーし、こちら義浩』
ワンコールで繋がった。本物らしい。
「雪子です。着いたから」
『おう、そっか。良かった何事もなくて』
「うん、ありがと」
店内に居るのか、背後がわずかにさざめいている。何か喋っていたい気もするけれど、仕事中だから迷惑かと逡巡した。そのわずかな間合いを義浩は黙ってやり過ごし、雪子が「じゃあ」と言うと「おやすみ」と返される。
当然こちらから切るのを待っているのだろう。雪子は客なのだから。
そろりと耳元から離し、しっかりと左手の本体を持ち直してからもう片方の手で終了ボタンを押した。
腰が抜けたように、クッションフロアにへなへなと座り込む。
なんてことだろう。電話一本で、終業後にリフレッシュされた筈の精神が疲労し、なんだかよく判らない達成感に包まれている。
「なにやってんの、私」
小さく呟いて、握り締めていた端末に目を落とした。履歴を出してから電話帳に登録する。ふざけ半分に店内で見せてくれた免許証に記されていた本名を入力する指先は、まだ震えていた。
しっかりしろ、生娘でもあるまいに。自分を叱咤して、登録ボタンを押してからフリップを閉じる。
ふうと大きく息を吐いてから立ち上がる頃には、震えは治まっていた。高鳴っていた胸も落ち着き、代わりに全身にじんわりとした温もりが広がっている。
こんな気分は久しぶりかもと、レースになっているドレスシャツの裾に爪が掛からないように気を配りながら、黒いスカートのホックを外す。そのまま浴室で湯張りしながら、うっとりと瞼を落とした。
八時前には出勤して、制服に着替えてから清掃する。ビルの一階に入っている郵便局が雪子の職場だ。雑巾で中の様々なものを拭き上げてから外回りに移る。自動ドアのガラスを背伸びしながら清めていると、背後から声が掛かった。
「おはよ」
反射的に「おはようございます」と笑顔で振り向くと、ハーフコートを羽織った義浩が立っていた。一昨日とは違う色のスラックスに白いシャツを開襟して着て、コートのポケットに手を入れて、やや驚き顔だ。
「本当にここに勤めてるんだ」
雪子の鼓動は、外にも聞こえそうなくらいに速まり、呼吸が止まりそうだった。
「もしかして、今帰りなの」
ごまかすように話し掛けると、ドアをやめて郵便差し出し箱を拭き清めていく。これなら背を向けなくて済む。
住所までは覚えていないから、ここを通って電車で帰宅するのかと思った。
「うん、そう」
「こんな時間まで大変だね」
予約がなければ十九時くらいから開けるのが普通らしいが、日曜はきっと早めに開けているだろうと、長い時間大変だなと素直にそう告げてみる。
すると、義浩は若干バツが悪そうに肩を竦めた。あー、と言葉を濁し、二時間ほど仮眠していたと言う。
少し休んでから帰るものなのか、そう頷きながら手を動かしていると、一旦口を閉じた義浩が片手で前髪をかきあげた。
「飲み屋トークだからさ、半信半疑だったんだけど。もし本当だったら、会えるのかなと思って」
え、と手が止まる。四角い赤い箱に両手を載せたままの雪子と視線が絡んだ。
「ごめん、仕事の邪魔になるから、またね」
今し方出勤してきた他の職員が訝しげに義浩を見ながら、手動でしか開かない扉をぐいと押している。軽く会釈して、義浩は駅とは逆方向に歩いていく。
まさか、と雪子は息を飲んでからまた手を動かし始めた。意識しなくても一通りのことをこなせるルーティンワークで幸いだ。頭の中は先刻の義浩の言葉と表情でいっぱいになっている。
私に会うためにわざわざ時間を潰したってこと。仕事帰りにたまたま通りかかったわけじゃないんだよね。
そんなに都合良く解釈してもいいのかと戒める気持ちもある。けれどもう、走り始めた想いは止まりそうにない予感がしていた。
金曜の夜、一旦帰宅してから〈エフ〉へと向かう。最初にこの店を紹介してくれた友人に誘われたからだけれど、そうでなくとも来るつもりだった。
入り口から最奥のカウンター席をひとつ空けてスツールに腰を下ろす。友人の美和はまだ着いていないようだ。
「いらっしゃいませ」
熱いおしぼりを広げて、カウンターの向こうからにっこりと笑い掛けられる。青いカラーコンタクトを入れた青年は、確か店内ではほっしーと呼ばれていた。
礼を言って受け取り拭いていると、ナッツと一緒に名刺を差し出される。
「こないだ渡しそびれて。よしくん今日はボックスに付いてるからラッキー」
名刺には「エフ ☆」とある。雪子はぷっと吹き出してから、初めて青年の顔を正面から見上げた。しっとりとした黒髪の義浩とは逆に明るめの茶に染めていて、肌の色もかなり濃い。シャツの上からでも、胸筋がしっかりついているのが判り、身長は義浩と大差なく見えるがパッと見た印象がまるで異なる二人だった。
「星くんって呼べばいいの」
指先で名刺を裏返すと、やはり手書きで携帯ナンバーが書いてある。こちらは語呂合わせはなさそうな数字だった。
「いいよ、なんでも」
「ふうん。んで、ラッキーってなにが」
そのままバッグに名刺をしまおうとすると、今すぐ登録してと強請られる。えー、と声には出しつつも携帯端末を持つと、
「こないだ、なんか雰囲気有りすぎて声掛けらんなかったし」
と唇を尖らせた。
「よしくんが好みなの」
率直に問われて、視線が画面から上へと戻る。微笑しているが、目が笑っていない気がした。
ちらりと、入り口横のボックス席に視線を遣る。義浩はこちらに背を向けていて、女性三人グループの相手をしているところだ。
曖昧に頷くと、おれはと訊かれる。
「タイプは全然違うけどさ、おれフリーだよ。本当は客には内緒だけど、よしくん女居るよ」
そう、と囁くように答えて、改めて星くんとやらを見た。
確かに、飲み屋関係の仕事で、恋人が居たっていないふりをするのが当たり前だ。浮かれて失念していた自分に驚いたけれど、それをわざわざ知らせて大丈夫なのかと心配になる。
店員に会いに来させるのが仕事のはずなのに、どうしてと。この店はホストクラブのようにノルマ制じゃないから、誰目当てだろうと客が金を落としてくれればそれで良いはずなのに。
「そんなに負けてるとは思わないんだけど」
ぶっきらぼうな低い声で言われて、真実かどうかはともかく、ああ好意を持たれているんだな、と雪子は淡く笑みを浮かべた。
ふふふ、と漏れる声を手の甲で押さえる。
「情報ありがとう。杏露酒ある?」
基本的にウイスキーのボトルを下ろすのは判っているが、その時の客筋によっては他の酒も仕入れている場合がある。前回梅酒を用意してもらっていたので試しに言ってみると、星の背後からマスターが一升瓶を掲げるのが見えた。
「ほい、杏露酒はいりまーす」
ありがとうございまーす、と店員たちの声が重なった。
大きくて表の棚には置けないけれど、名札は必要らしい。油性ペンで名前を書いて星に渡すと「何か歌う?」と唄本を差し出された。
ボックス席からリクエストが入ったらしく、義浩が歌いはじめ、雪子にロックグラスを給仕してから星がタンバリンを叩き始める。その優雅な腕の動きを見ながら、アップテンポな恋の歌に包まれてやるせなくなってきた。
美和ってば、ホント時間にルーズ。
ランプが点滅していないのは承知で、ぱくんとフリップを開いて無意味にボタンをいじる。
画面を見たまま反対の手でグラスを運び、まだちっとも氷の溶けていない中身を飲み干すと「お」と星が目を見開いた。
「飲みっぷりいいなあ」
「少ないよこれ。お代わり」
居酒屋でサワーを出すときのような大きなグラスでも構わないくらいだ。家で飲むときでも原酒でぐいぐい飲んでいる。
その後もお代わりを繰り返す雪子に手いっぱいになり、星はタンバリンを諦めて、しかし嬉しそうにさかんに話を振ってきた。タレントなら誰が好きか、どんなドラマを見るのか、遊びに行くなら何処がいいか。
どの店でも、誰が相手でも、似たようなことの繰り返しだ。ナンパよりタチが悪い。好みじゃなくても引き留めておきたいから、店員の口から出る言葉なんて何処まで信じればよいのかまるで判らない。
それなのに。
なんて間抜けなんだろうと、前髪をかき上げながら吐息した。ここは疑似恋愛を楽しむ場所だ。ホストクラブほど高額にならないだけで、会話で楽しませてもらってひとときの安らぎを得る。それでまた次の週からの仕事も頑張れる。そう心得ていたはずなのに。
いらっしゃいませーという元気な声と共に寒風が吹き込み、待ち人のご登場だ。
「ゆっこ、ごめーん」
綺麗にネイルを塗った長い爪先の両手を合わせ、美和が奥のカウンターにブランドのバッグを放り投げるように置く。ひらひらといかにも寒そうなミニのワンピースにピンヒール。前を全開にしたコートを羽織っているだけのその服装は、いかにもお洒落を意識した女性のものだ。雪子も最低限の身だしなみには気を付けているものの、そこまで暑さ寒さを我慢した格好はごめん被りたい。
「別にいいけど」
子供の頃から色々とルーズな美和に付き合うのは慣れている。ふと、薄い半透明のピンクで短めに整えている自分の爪を見て、それを隠すように膝に両手を下ろした。
「あー、寒かったー」
金髪に近いくらいに脱色したロングヘアを肩口で払いのけながら腰を下ろす美和に、星がおしぼりを差し出す。見えそうなくらいに大きく開いた胸元に視線が行くのを見て、失笑した。
「コートの下ってワンピ一枚とか。薄着過ぎるだろ」
「えーだって店内暑いじゃん。飲みだしたらもっと暑くなるしー」
笑い方がいやらしいなと思って、そんな自分に首を傾げる。
美和は自分のボトルがあるから水割りを頼んだようで、それを用意する星と楽しそうにきゃぴきゃぴ話している。ああそうか、と気付いた。彼女の好きなタレントと似ているんだ。前に来たときはろくに顔を見ていないからなんとも思わなかったけれど、今までの美和の彼氏の系統から言っても、義浩のような細くしっとりしたタイプより、星のようながっしりめが好きなのだ。声が低めのハスキーボイスなのもきっと好みなはずだ。
あほらし。下ろしていた手をカウンターに載せ、またグラスの中身を干した。美和との会話が盛り上がっている星が気付かないので、そのまま少し視線をずらしてボックス席を見遣る。
何かのゲームをしているらしく、たいそう盛り上がっているようだ。カントリークッキーを口に含んだ義浩が、隣の女性に口移しをしている。ポッキー程度なら経験があるがさすがにそれは初めてで、ぎょっとして見入ってしまった。
いつの間にかお代わりを入れにマスターが来ていて「やりたい?」と上目に下から見つめられる。マスターと言っても、従業員同様二十代の青年だ。
とんでもない、と首を振ると、にやりと笑われてしまった。本当はよしくんとしたいでしょと言われているようで、狼狽えた心中が顔に出ていませんようにと祈りながらグラスを受け取った。
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これが「ビビビ」というやつか。確かに師走で、冬場には静電気が発生し易くてもそれとは違う。触れた瞬間にからだを貫いたちりちりとしたもの。
カウンターのスツールに腰掛けて雪子の白魚のような手を取った男性も瞠目し、動きを止めたふたりは目を交わし合った。
稲妻に打たれるような、という表現がある。これがそうなのだろうか。本物には打たれたことがないから判らない。だけどこんなことが有りうるのか、いや、たった今経験したばかりのことを否定するわけではない。
それでも。
細く整えた眉をぴくりと跳ねさせ、眠そうだった甘く垂れた眼差しがそうっと雪子を上目に見る。止まっていたときが動き始めた。
「あ、手相、だったよね。どうかな」
やんわりと握られていた手が返されて、掌を上にして、よしくんと名乗った店員は視線を落とした。柔らかな肉の上を、親指がさする。薄ぼんやりとセピア色に染まった店内で、細かな皺など見えるのだろうかと首を傾げて見守った。
ナンパの手管。営業トークの一つ。そんなことは百も承知だ。ここは駅近くの飲み屋街で、数軒有るボーイズバーのひとつなのだから。常連客を得るためにいかようにも気を引く素振りをしてみせるだろう。
そうと知っていても、信じたかったのかもしれない。恋に落ちる瞬間の、その衝撃を。
これは運命の出会いだと、かたくなに縋り付きたかったのかもしれない。
深夜近くなってようやく思い出したかのように名刺を差し出された。
「エフ 義浩」店名と名前のみのシンプルなカードの裏を返すと、手書きで数字が書いてある。
しっ、と義浩が人差し指を唇に当てた。
「ゆきちゃんには特別な」
ウインクして、さも秘密のことのように、薄い唇が 雪子の耳朶に寄せられる。
「語呂合わせで覚えやすいだろ」
言われてしげしげと数字を見て、あ、と雪子は息を飲んだ。ポケベル世代だから、数字を文章にするのは苦ではない。じとりと睨み上げると、イタズラが成功した子供のように歯を見せて笑われた。
「試してみる?」と。
ばか、えっち。小さく文句を言いながら、両手の指でバツを作り、チェックと告げる。じきにマスターがペンで書き付けて、手元に金額のメモが滑り込む。ちらりと見て、ハンドバッグから取り出した財布から紙幣を抜くと義浩に渡した。小さな店だからレジなどはない。相場を知らなければ、この辺りの店に一見では入りにくいものだ。
「タクシー呼ばなくていいの」
中で一度断っているが、扉の外に出てからもう一度義浩が問いかけた。
「いいよ。近いから、歩いて帰る」
「閉店までいるなら送ってくのに」
下がり気味の眉を寄せて、義浩は心配そうにしている。それが本音でなくとも、なんとなく嬉しい。
「遠回りになるけど、地下道通らずになるべく人通りのあるとこ歩くから」
黒いパンプスの爪先で石畳をつつきながら、雪子は鞄を持ち直し、じゃあと首を傾げた。
凄く、キスしたい気分だった。男性にしては細い顎を両手で包んで顔を寄せれば、自分より一つ年下のこの青年はいったいどんな顔をするだろう。
もの言いたげに小さな唇が開き、それを見下ろす義浩の瞳が揺れている。
きっと、気持ちは伝わっている。そうしたとして、出会った数時間後にそんなことをする女なんだと軽く見られるんだろうなと思う。すんと鼻を鳴らして、潤み始めた目を逸らせてから「じゃあ」と足を踏み出した。
「電話」と義浩の声が追いかけてくる。
「家に着いたら、掛けてきて。心配だから」
寂れた飲み屋街に、少し高めの声が大きく響いた。
酔客とはそれなりにすれ違ったが、雪子自身はさほど酔っていないから大股で歩き続けているうちにあっと言う間にアパートに到着した。一階の自室に入りサムターンを二つとも回すと、ようやく肩の力が抜けて大きく吐息が漏れる。
この番号、本物かなあ。パンプスを揃えて端に寄せてから、短い廊下を歩きダイニングテーブルに鞄を置いた。その中から取り出した名刺を指先で弄びながら、すでに暗記してしまった番号を携帯電話に入力してみる。
シックスナインしっぱなし。まさか指定して取ったわけでもあるまいが、確かに印象深い並びの数字だ。
『もしもーし、こちら義浩』
ワンコールで繋がった。本物らしい。
「雪子です。着いたから」
『おう、そっか。良かった何事もなくて』
「うん、ありがと」
店内に居るのか、背後がわずかにさざめいている。何か喋っていたい気もするけれど、仕事中だから迷惑かと逡巡した。そのわずかな間合いを義浩は黙ってやり過ごし、雪子が「じゃあ」と言うと「おやすみ」と返される。
当然こちらから切るのを待っているのだろう。雪子は客なのだから。
そろりと耳元から離し、しっかりと左手の本体を持ち直してからもう片方の手で終了ボタンを押した。
腰が抜けたように、クッションフロアにへなへなと座り込む。
なんてことだろう。電話一本で、終業後にリフレッシュされた筈の精神が疲労し、なんだかよく判らない達成感に包まれている。
「なにやってんの、私」
小さく呟いて、握り締めていた端末に目を落とした。履歴を出してから電話帳に登録する。ふざけ半分に店内で見せてくれた免許証に記されていた本名を入力する指先は、まだ震えていた。
しっかりしろ、生娘でもあるまいに。自分を叱咤して、登録ボタンを押してからフリップを閉じる。
ふうと大きく息を吐いてから立ち上がる頃には、震えは治まっていた。高鳴っていた胸も落ち着き、代わりに全身にじんわりとした温もりが広がっている。
こんな気分は久しぶりかもと、レースになっているドレスシャツの裾に爪が掛からないように気を配りながら、黒いスカートのホックを外す。そのまま浴室で湯張りしながら、うっとりと瞼を落とした。
八時前には出勤して、制服に着替えてから清掃する。ビルの一階に入っている郵便局が雪子の職場だ。雑巾で中の様々なものを拭き上げてから外回りに移る。自動ドアのガラスを背伸びしながら清めていると、背後から声が掛かった。
「おはよ」
反射的に「おはようございます」と笑顔で振り向くと、ハーフコートを羽織った義浩が立っていた。一昨日とは違う色のスラックスに白いシャツを開襟して着て、コートのポケットに手を入れて、やや驚き顔だ。
「本当にここに勤めてるんだ」
雪子の鼓動は、外にも聞こえそうなくらいに速まり、呼吸が止まりそうだった。
「もしかして、今帰りなの」
ごまかすように話し掛けると、ドアをやめて郵便差し出し箱を拭き清めていく。これなら背を向けなくて済む。
住所までは覚えていないから、ここを通って電車で帰宅するのかと思った。
「うん、そう」
「こんな時間まで大変だね」
予約がなければ十九時くらいから開けるのが普通らしいが、日曜はきっと早めに開けているだろうと、長い時間大変だなと素直にそう告げてみる。
すると、義浩は若干バツが悪そうに肩を竦めた。あー、と言葉を濁し、二時間ほど仮眠していたと言う。
少し休んでから帰るものなのか、そう頷きながら手を動かしていると、一旦口を閉じた義浩が片手で前髪をかきあげた。
「飲み屋トークだからさ、半信半疑だったんだけど。もし本当だったら、会えるのかなと思って」
え、と手が止まる。四角い赤い箱に両手を載せたままの雪子と視線が絡んだ。
「ごめん、仕事の邪魔になるから、またね」
今し方出勤してきた他の職員が訝しげに義浩を見ながら、手動でしか開かない扉をぐいと押している。軽く会釈して、義浩は駅とは逆方向に歩いていく。
まさか、と雪子は息を飲んでからまた手を動かし始めた。意識しなくても一通りのことをこなせるルーティンワークで幸いだ。頭の中は先刻の義浩の言葉と表情でいっぱいになっている。
私に会うためにわざわざ時間を潰したってこと。仕事帰りにたまたま通りかかったわけじゃないんだよね。
そんなに都合良く解釈してもいいのかと戒める気持ちもある。けれどもう、走り始めた想いは止まりそうにない予感がしていた。
金曜の夜、一旦帰宅してから〈エフ〉へと向かう。最初にこの店を紹介してくれた友人に誘われたからだけれど、そうでなくとも来るつもりだった。
入り口から最奥のカウンター席をひとつ空けてスツールに腰を下ろす。友人の美和はまだ着いていないようだ。
「いらっしゃいませ」
熱いおしぼりを広げて、カウンターの向こうからにっこりと笑い掛けられる。青いカラーコンタクトを入れた青年は、確か店内ではほっしーと呼ばれていた。
礼を言って受け取り拭いていると、ナッツと一緒に名刺を差し出される。
「こないだ渡しそびれて。よしくん今日はボックスに付いてるからラッキー」
名刺には「エフ ☆」とある。雪子はぷっと吹き出してから、初めて青年の顔を正面から見上げた。しっとりとした黒髪の義浩とは逆に明るめの茶に染めていて、肌の色もかなり濃い。シャツの上からでも、胸筋がしっかりついているのが判り、身長は義浩と大差なく見えるがパッと見た印象がまるで異なる二人だった。
「星くんって呼べばいいの」
指先で名刺を裏返すと、やはり手書きで携帯ナンバーが書いてある。こちらは語呂合わせはなさそうな数字だった。
「いいよ、なんでも」
「ふうん。んで、ラッキーってなにが」
そのままバッグに名刺をしまおうとすると、今すぐ登録してと強請られる。えー、と声には出しつつも携帯端末を持つと、
「こないだ、なんか雰囲気有りすぎて声掛けらんなかったし」
と唇を尖らせた。
「よしくんが好みなの」
率直に問われて、視線が画面から上へと戻る。微笑しているが、目が笑っていない気がした。
ちらりと、入り口横のボックス席に視線を遣る。義浩はこちらに背を向けていて、女性三人グループの相手をしているところだ。
曖昧に頷くと、おれはと訊かれる。
「タイプは全然違うけどさ、おれフリーだよ。本当は客には内緒だけど、よしくん女居るよ」
そう、と囁くように答えて、改めて星くんとやらを見た。
確かに、飲み屋関係の仕事で、恋人が居たっていないふりをするのが当たり前だ。浮かれて失念していた自分に驚いたけれど、それをわざわざ知らせて大丈夫なのかと心配になる。
店員に会いに来させるのが仕事のはずなのに、どうしてと。この店はホストクラブのようにノルマ制じゃないから、誰目当てだろうと客が金を落としてくれればそれで良いはずなのに。
「そんなに負けてるとは思わないんだけど」
ぶっきらぼうな低い声で言われて、真実かどうかはともかく、ああ好意を持たれているんだな、と雪子は淡く笑みを浮かべた。
ふふふ、と漏れる声を手の甲で押さえる。
「情報ありがとう。杏露酒ある?」
基本的にウイスキーのボトルを下ろすのは判っているが、その時の客筋によっては他の酒も仕入れている場合がある。前回梅酒を用意してもらっていたので試しに言ってみると、星の背後からマスターが一升瓶を掲げるのが見えた。
「ほい、杏露酒はいりまーす」
ありがとうございまーす、と店員たちの声が重なった。
大きくて表の棚には置けないけれど、名札は必要らしい。油性ペンで名前を書いて星に渡すと「何か歌う?」と唄本を差し出された。
ボックス席からリクエストが入ったらしく、義浩が歌いはじめ、雪子にロックグラスを給仕してから星がタンバリンを叩き始める。その優雅な腕の動きを見ながら、アップテンポな恋の歌に包まれてやるせなくなってきた。
美和ってば、ホント時間にルーズ。
ランプが点滅していないのは承知で、ぱくんとフリップを開いて無意味にボタンをいじる。
画面を見たまま反対の手でグラスを運び、まだちっとも氷の溶けていない中身を飲み干すと「お」と星が目を見開いた。
「飲みっぷりいいなあ」
「少ないよこれ。お代わり」
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その後もお代わりを繰り返す雪子に手いっぱいになり、星はタンバリンを諦めて、しかし嬉しそうにさかんに話を振ってきた。タレントなら誰が好きか、どんなドラマを見るのか、遊びに行くなら何処がいいか。
どの店でも、誰が相手でも、似たようなことの繰り返しだ。ナンパよりタチが悪い。好みじゃなくても引き留めておきたいから、店員の口から出る言葉なんて何処まで信じればよいのかまるで判らない。
それなのに。
なんて間抜けなんだろうと、前髪をかき上げながら吐息した。ここは疑似恋愛を楽しむ場所だ。ホストクラブほど高額にならないだけで、会話で楽しませてもらってひとときの安らぎを得る。それでまた次の週からの仕事も頑張れる。そう心得ていたはずなのに。
いらっしゃいませーという元気な声と共に寒風が吹き込み、待ち人のご登場だ。
「ゆっこ、ごめーん」
綺麗にネイルを塗った長い爪先の両手を合わせ、美和が奥のカウンターにブランドのバッグを放り投げるように置く。ひらひらといかにも寒そうなミニのワンピースにピンヒール。前を全開にしたコートを羽織っているだけのその服装は、いかにもお洒落を意識した女性のものだ。雪子も最低限の身だしなみには気を付けているものの、そこまで暑さ寒さを我慢した格好はごめん被りたい。
「別にいいけど」
子供の頃から色々とルーズな美和に付き合うのは慣れている。ふと、薄い半透明のピンクで短めに整えている自分の爪を見て、それを隠すように膝に両手を下ろした。
「あー、寒かったー」
金髪に近いくらいに脱色したロングヘアを肩口で払いのけながら腰を下ろす美和に、星がおしぼりを差し出す。見えそうなくらいに大きく開いた胸元に視線が行くのを見て、失笑した。
「コートの下ってワンピ一枚とか。薄着過ぎるだろ」
「えーだって店内暑いじゃん。飲みだしたらもっと暑くなるしー」
笑い方がいやらしいなと思って、そんな自分に首を傾げる。
美和は自分のボトルがあるから水割りを頼んだようで、それを用意する星と楽しそうにきゃぴきゃぴ話している。ああそうか、と気付いた。彼女の好きなタレントと似ているんだ。前に来たときはろくに顔を見ていないからなんとも思わなかったけれど、今までの美和の彼氏の系統から言っても、義浩のような細くしっとりしたタイプより、星のようながっしりめが好きなのだ。声が低めのハスキーボイスなのもきっと好みなはずだ。
あほらし。下ろしていた手をカウンターに載せ、またグラスの中身を干した。美和との会話が盛り上がっている星が気付かないので、そのまま少し視線をずらしてボックス席を見遣る。
何かのゲームをしているらしく、たいそう盛り上がっているようだ。カントリークッキーを口に含んだ義浩が、隣の女性に口移しをしている。ポッキー程度なら経験があるがさすがにそれは初めてで、ぎょっとして見入ってしまった。
いつの間にかお代わりを入れにマスターが来ていて「やりたい?」と上目に下から見つめられる。マスターと言っても、従業員同様二十代の青年だ。
とんでもない、と首を振ると、にやりと笑われてしまった。本当はよしくんとしたいでしょと言われているようで、狼狽えた心中が顔に出ていませんようにと祈りながらグラスを受け取った。
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