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亨珈

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この想いが溢れてしまわないように

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 言葉にならず、アスファルトから立ち上る白い煙にも微動だにしない。見開かれた切れ長の眼が、動揺を隠せずに俺を見つめて、詰っている。
 あの約束を、もしも豪が憶えていなくても。そう、少しだけそんな可能性もあった。アイデンティティーに関わることだから、まずそれはないと踏んでいたから、今の豪を見て俺は確信する。
 憶えている。俺と豪の、最初の約束。
 絶交だ。そう言った自分のことも憶えているなら、俺の意志は伝わったはずだ。
 もう、何も言わなくていい。
 もう、何もくれなくていい。
 お前との思い出だけあればきっと生きていけるから。今はまだ誰も好きになれる気がしないけど、恋愛なんてしなくてもひとは生きていけるんだから。
 最後に微笑んだつもりだったけど、実際はどんな顔になったか判らない。それから懸命に奥歯を噛みしめて、車に乗り込んだ。
 泣きたいのは、俺の方だ。


 月曜は夜間だけ入り、火曜に夕方から夜間のシフトをこなした。夏休み前までに、ワックスが薄くなっている箇所を全て塗り直すつもりで、シフト外のことをやっている。
 火曜に顔を合わせたとき、小野さんに問われて、豪とは食事して話をしたからと伝えた。少し気になることがあるようだったけれど、一応安心してくれたようだ。
 水曜に引っ越し業者が来て、俺と山根の荷物を入れ替えていった。その整理をしながら、水木の休みを過ごし、ちょっとだけ調理の真似事をしてみた。一通りの調味料を揃えただけで、まだ味噌汁と目玉焼きくらいしか挑戦していない。
 市村も自宅で炊事をすることがあるらしく、作ったときには写メして送り会う約束をしてしまった。最初こそ付き合い方に戸惑ったけれど、だんだんと打ち解けて、タメ口で話してくれるようになってきた。
 勤務時間が重なっているのは短時間だし、多くは仕事のことしか話さないから、そんなに苦痛は感じない。無言の時間が厳しい相手もいるものだけれど、俺はそういうところが鈍感らしく、割と誰とでも平気だ。
 逆に取ると、誰に嫌われようが構わないと思っているから、特段に好かれようと努力していない。仕事する上で円滑な人間関係が必要だと感じるから、ぎすぎすしないように、嫌味にとられないようにと気配りするけど、根本的にはどうでもいいと思っている。
 自分で言うのも変だけど、薄情なんだろうな……。
 豪のいない週末。ベッドを共にする機会の方が少なかったけど、あれから睡眠が浅くて、なんだか疲れている。
 赴任先ではいないのが当たり前なのに、突然やってきてあんな風に俺を惑わせるから――地元では見せたことがない顔で見つめて。もの問いたげにしているくせに、何も訊かなくて。
 嵐が去った後の俺は、かき乱された心の中を片付ける余裕もない。
 ただ、蓋をして、この想いが外に溢れてしまわないようにするので精一杯だ。
 土曜も夕方から入り、在庫管理をする小野さんと同じ倉庫内で、台車に道具を積み込んでいた。
「安原さん、良かったら今度食事でもどうですか」
 ノートとペンを所定の位置に戻して、ペール缶を載せたばかりの俺に話しかけてくる。ちょっと驚いた。
「市村さんに聞きました。食事を作ったりして頑張ってるって。なので、たまには外食しませんか。大衆居酒屋ですけど」
 勿論割り勘ですよ、と微笑んでいる。
「歓迎会みたいな? まさかふたりきりじゃないんでしょ」
 おどけて言うと、当然です、と面白そうに眼を細めている。
「夫と、それから警備の植田さん。たまには独身女性とも同席したら気が晴れますよ、きっと」
 どの時間帯でも、俺と市村が同時に休むことはまずない。だからそういうメンバーなんだろう。
「鬱々としてるかな、俺」
 気が晴れていないように見えているってことは、俺の仮面は巧く機能していないらしい。その事実にへこむ。
「警備は繁忙日とか関係なくシフトが組まれているから、ふたりが日勤の平日でいいですよね」
 腰を伸ばした俺を少し離れた場所から見上げて、俺の問いには答えずに了解を待っている。
 夜間スタッフたちがやってくる声がして、俺は「よろしく」とだけ伝えた。

 通路の続きを封鎖して、通行禁止区間を作っていると、携帯端末が振動した。
 ポケットから出してみると、豪だった。
 おい、絶交はどうなったんだよ。顔をしかめながらも、何処かほっとしている自分がいるのが困ったものだ。指が自然に通話ボタンを押してしまう。
「仕事中なんだけど」
 開口一番に先制パンチをするが、「琉真!」と怒鳴られて思わず端末を耳から離した。
『この部屋、なんで!』
 変わらず大声を出しているから、スピーカー状態だ。でも恥ずかしいから止めて欲しい。閉店してるとはいえ、従業員は皆作業したり帰り支度をして通路を行き交ったりしているんだ。
「ちょっと静かにしゃべれよ。切るぞ。仕事中だって言ってんだろ」
 端末を口元に持ってきて囁くと、何か言い掛けていた豪が唾を飲む気配がした。
『引っ越したのか? 出張じゃなくて――』
「そうだよ。だからもう鍵いらねえから処分しといて」
『なんで』
「もうそっちに戻らないかもしれないから」
 なんだ、おふくろからはそこまで伝わらなかったのか。それにしてはこの間の豪の突飛な行動が不思議でならない。てっきり、知っているからこそのあの態度だと思っていたのに。
 片手でダストコントロールしながら、なんとなく話に付き合う気になった。長話は差し障るけど、まあ少しだけなら。
『どうして』
 しばらく黙り込んでいた豪の声が、震えているような気がする。或いはそれは、俺の願望なのかもしれない。別れを惜しんで欲しいんだ。
「そういう仕事だからだよ。用はそれだけか?」
『それだけって……そんな大事なこと』
「変わらないよ」
 詰る口調の豪を制する。
「今までと、そんなに変わらない。ただ、帰省先が実家になるだけだ。盆暮れは忙しいから無理だけど、まあ気が向いたら帰るよ」
 その時に、連絡するかどうかは判らない。
 俺にとっては、豪が待っているかもしれない自分のアパートと実家では、天地の差がある。豪にとってはどうだろう。両親は、今までと差異はないと言った。豪にとってもそうなんじゃないか? 俺じゃなくても、金を出してくれる奴らがいて。俺が居なくても、ほかの男が抱いてくれるだろう。
 実家の工場を手伝いながらガソリンスタンドでバイトをして、その金で車をチューンナップして、チームの仲間とサーキットで走る。
 そこに、俺は居なくてもいいだろう?
 万感の想いを籠めて、囁いた。
「じゃあな、豪」
 愛してる。
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