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亨珈

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合鍵なんて、渡すんじゃなかった

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 数ヶ月ぶりの我が家の玄関扉を開けて、室内と段差のないタタキに女性物のサンダルがあったら、大抵の人は驚くと思う。
 母親? そんなヒールの高い靴を履く年じゃない。俺みたいな三十路の息子が居ても履く人はいるだろうが、うちの母親は元々ぺたんこ靴大好きな人だ。姉も妹もいない。彼女だっていない。じゃあこれは一体誰の靴なんだ。
 はあ、と溜息の分だけ疲労感が増した気がする。小振りのボストンバッグを肩に掛け直して、点けたばかりのポーチライトを消すと、革靴を脱いでから足でそのまま端にぐいぐい寄せて廊下を進んだ。廊下といっても単身者向けのアパートだから、距離はない。
 通りすがりに浴室からシャワーの音が聞こえるのを無視して擦りガラスの内扉を開けると、ベッドに腰掛けて煙草を吸っている男がにやりと笑った。
「おかえり」
 あほか。何がおかえりだ。むかむかしつつ、ベランダに出る掃き出し窓を開けはなった。湿度の高い生ぬるい風が僅かずつだが吹き込み、煙の拡散した空気と入れ替わっていく。少し気が晴れた。
 足下にバッグを置く。
「その様子だと、済んだとこなのか?」
 問いに、我が幼なじみ殿は頷きながら手元の携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。我が家に灰皿はない。こいつ以外でここに来る奴は吸わないから、客用も必要ない。そもそも、匂いと汚れがイヤで禁煙にしているのに、こいつが我を通しているだけだ。
「そ。じゃあ帰れ」
 レースのカーテンを揺らす風の吹く方へと顔を向ける。ちらりちらりと視界に入る男前が忌々しい。なんで合い鍵なんか渡したんだろう。
「なんで。久しぶりに会ったのに、土産とかねえの?」
「ねえよ。あ、帰る前に鍵返せ。ホテル代わりにされるなんて最悪だ。今すぐ返せ、ほら」
 まっすぐに俺を見つめる二重の切れ長の眼が全く悪びれていなくて、また溜息が漏れる。それでも腕を伸ばすと、奴はにっこりと笑った。
「いや」
 ああ、目眩がする。
 仏頂面の俺と笑顔のままの奴の視線が交わったまま沈黙が落ちたとき、浴室のドアが開いてタオルを巻いた女が出てきた。
 当たり前だが、キャッと悲鳴を上げて固まっている。ちらりと視線を遣ると、いかにもこいつが好きそうな化粧ばっちりのイケイケ系。それはベッドの周りに散らかったままの服を見ても判っていた。
「だ、誰? え、まさかこれから三人でやるとか?」
 ちょっとイヤそうなのは、人数の問題じゃなくて俺が好みから外れているからだろう。舌打ちして、はあと吐息する。
「この部屋の主。ここにあるものぜーんぶ俺の、な。シーツ洗えとまでは言わねえから、服着たらこいつと一緒に出てってくれるかな。今すぐに」
 え、え、と俺と奴を見比べて、立ち尽くしている。
 さあて、状況を理解して消えてくれるまで何分掛かるだろう。言うべきことを全て言い終えた俺は、ネクタイを緩めながらクロゼットから着替えを取り出して洗面に向かった。

 春にグランドオープンした現場から自宅に戻れたのは半年ぶりになる。建物が完成次第スタッフの育成に入るから、そこからはノンストップほぼ休日返上の働きづめになる。今回はまあまあ早く軌道に乗ったという感じだ。
 他の現場に行っていて年単位で出張している同僚がいることを思えば、俺はまだ恵まれていると言えるだろう。
 少し熱めのシャワーを浴び、移動の際に汗ばんでいた肌を余すところなくボディタオルで擦り、石鹸の香りが懐かしいと感じていた。
 同じメーカーのものが見つからず、よく似たもので妥協していたのだが、やはり慣れた物がいい。家に帰ったんだなと安堵する。
 名も知らぬ女がバスタブまでは使わないでくれて良かった。ちょっと控えめに腰まで湯はりして、意識してゆっくり浸かって時間を潰す。そろそろ二人とも出ていってくれたろうか。
 鍵を開けていたらその部屋の住人だと思っても仕方ないけれど、見ず知らずの人間を勝手に上げてあれこれ使われたことに腹が立って仕方ない。今までだって迷惑なら沢山掛けられたけれど、流石にこれはないだろう。
 長期不在が多いから元々貴重品は銀行に預けてあるが、それだからいいなんて思えるわけがない。購入しているマンションや一軒家ではないものの、アパートの一室だって立派なパーソナルスペースで、不在だからって鍵を持っているからって、無断で使っていいわけがない。
 あの男は、そういうモラルが決定的に欠けている。
 苦々しい思いで風呂から上がる。洗面スペースの片隅に置いてある小さな引き出しから下着を引っ張りだして身に着けると、ざっと押さえただけだった頭を拭きながら部屋に戻る。
 開けたはずの窓が閉めてあり、エアコンが動いていた。
「なんでまだ居るんだよ、豪」
 げんなりした俺の声にも堪えた様子はなく、ただ手の中で携帯灰皿を弄んでいる。吸ってはいないということから、ニコチンよりも気温を優先したらしい。
「心配ねえよ。ちゃんと太い道まで送ってきたし」
「当たり前だ」
 そうじゃなくて、まだ深夜とはいかないまでも、夜中に女ひとりで外に放り出す豪の方がおかしい。
 おかしいって、理性では、正論では判っている。それなのに、俺を見てゆったりと微笑むこの痩身の男が、そんなのどうでもいいだろうって、俺の決意を揺るがそうとする。
「なあ、あんなのもういいから。お前が欲しいよ、琉真」
 ベッドから立ち上がり、壁際のミニコンポの上に携帯灰皿を置いて、豪が腕を回してくる。同じくらいの身長は、昔から抜きつ抜かれつ。今も、ちょっとだらけた姿勢をした方が低く見えるっていうだけで、殆ど差異はない。そんな男に抱き締められて、それだけでもう何もかも許してしまいそうになる。
 これだって、いつものやり口だ。ここで流されて、ほんの数時間も経たない内に失望させられるのは目に見えているのに。
 下唇を甘噛みされて、歯列を割りながら侵入してくる長い舌を拒めない。絡めて吸われて、今履いたばかりの下着越しに豪の股間と触れてすり合わせられたら駄目だ。
 自分の腕が細い腰を抱き寄せるのをどこか他人事に感じながらも、胸の奥が震えることに絶望してしまった。
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