上 下
32 / 37

第32話 実家

しおりを挟む
「ただいま~……」



 小さく呟いて玄関を開けると、靴のたくさん並んだ玄関まで明るく暖かい。奥の方からテレビの音やら話し声やらが聞こえるが、勇気の声に反応は無いから、きっと気付いていないのだろう。勇気は靴を脱いで、ボストンバッグを玄関に置いたまま、お土産の入った紙袋だけを持って廊下を進んだ。



「ああ、おかえりなさい、勇気」



 優しく穏やかな母が、いつものように微笑んで迎えてくれる。「ただいま」と静かに返事をして、「これ、お土産」と紙袋を渡すと、「あら嬉しいわ、みんなで食べましょうね」といつもの反応。



「おお、帰ったか、勇気!」



 兄の勇一郎も、いつもと変わらずの大きな声で明るい。3つ年上で体育会系の兄が、勇気は少し苦手だ。嫌いとかそういうのではなくて、人種が違うという意味で。



「おかえり、勇気」



 そして、定年を間近に控えた、父が静かに呟いた。何もかも、いつも通りだった。

















 実家を出てからも変わっていない自室に入って。タンスから部屋着を引っ張り出す。持ち主はいないのに、洗濯もしてくれているのかいい匂いがした。実家の空気と香りに包まれながら、勇気はベッドに寝転がる。子供の頃からずっと使っていたそれは、少し軋んだ音を立てた。



 社会人になって初めての正月休みだ。最後の三ヶ月は怒涛だったな、色んな事で……。勇気はそんなことを考えながら、天井を見上げる。部屋の外で、家族が話している。勇気は子供の頃から一人で部屋にいることが多かったから、特段気にかけられてもいないようだ。



 兄が苦手なのは、3つ離れているからでもある。勇気の人生の転機は、兄の転機でもあり、兄の方が重要だった。放り出されていた、とまでは思わない。ただ自分の高校受験の時には兄は大学受験。大学受験の時には就職活動と、兄に重点が移っていたのは事実だと思う。だからといって、恨んではいない。それでも、なんとなく心がモヤモヤとするから、できればあまり顔を合わせたくないと思っていただけだ。



 それがどうしてなのか。社会人となった勇気には、実家を離れたからこそわかることも少しある。要するに、寂しかった。愛されていなかったとは思わない。それでも、手のかからない大人しい子であった勇気は、確かに寂しかったのだ。



 それで中学時代には少し方向性がズレた。長くは続かなかったが。自分が何を求めて、何をしたいのかわからなかったから。



 ぼんやり、天井を見つめる。リビングからは相変わらず、楽しげな兄の声が聞こえる。兄は何も悪くない。母も、もちろん、父だって。なのにどうして、彼らのことが苦手なんだろう。



 ふいに、エリスのことを思い出した。



 周りが自分によそよそしいのが、嫌われているからだと信じていた彼。本当は寂しいけれど、周りが怖くて自分を包み隠して、蝋人形みたいになっていたエリスの、長年にわたる思い込み、勘違い。



 エリスのことを考えていて、勇気は、はたと気付いた。



 なにも、勘違いして、思い込んでいるのはエリスだけではないのかもしれない。

















 リビングに向かうと、兄がテレビを見ながらビール片手に随分大きな独り言を言っていた。隣で父は黙ってテレビを見ている。昔から寡黙な人だったから、この光景はいつもと変わらない。



 キッチンへ向かうと、母の姿があった。母は勇気に気付くと、「あら、勇気。おやつ?」と微笑みながら、キッチンシンクの中で食器を洗っている。



「……なんか、手伝うよ」



「あらあら。勇気は偉い子ね、帰ったばっかりなのに。勇一郎なんて昼間からお酒を飲んで大声出してばっかりよ」



「父さんは座ってばっかり?」



「そうそう。昔からそうね。それに、勇気はいつもお手伝いしてくれる優しい子だったわ」



 母は笑って、「洗ってくれる?」とシンクの端に寄った。母が洗剤で汚れを落とした皿を受け取って、お湯ですすいでいく。子供の頃からよくしていたような気がする。専業主婦の母には、勇気の他に味方はいないように思っていた、のかもしれない。



 いつも寂しげだと思っていた母は、今も微笑みを絶やさない。勇気が大学と就職の為に家を出ても、それは変わらなかった。



「……母さん、一つ聞いてもいいかな」



「なあに?」



「……どうして、父さんと結婚したの?」



 声を小さくして尋ねる。どっちみち、うるさいテレビと兄の笑い声で、リビングには届かないだろうが。母は一瞬きょとんとした後で、笑った。



「あらやだ、会社で何かあったの? いい人でもできた?」



「違うよ、前から気になってただけ」



 物心ついた時には一緒にいた二人が、いかにして出会い、どうして夫婦となって、今も暮らしているのか。勇気はそれを知る機会がなかったし、知ろうともしなかったのだ。



 それが何故なのか。今の勇気には、一つの憶測がある。



「……寂しくなかった? 昔から父さん、家にいなかったじゃん」



「うーん、そうね。まあ、寂しくなかった、って言ったら嘘になるけど」



 母は苦笑いをしながら、皿を洗っていく。それを流れるように受け取って、勇気が濯いでいく。



「でも、お父さんは誠実で一生懸命な人だから。不器用なのよ、あれもこれもぜーんぶやるって無理なの。だから、お父さんは会社で頑張るって決めたのね。私達にお金で苦労させないって、それを第一に考えたの。……まあ確かに、そばにいて欲しい時もあったけど……」



 でもねえ。母は何かを思い出すように、天井を見上げる。



「お父さんはそうやって、私達のことを思って精一杯やってる。家に帰っても弱音も愚痴も何にも言わないで、……本当に不器用で真面目な人なの。きっと辛いことも、やりたいことも、思うこともあるでしょうにね。お父さんも歯を食いしばって生きてるんだと思ったら、……私もお父さんのこと、守ろうって思ったのよ」



「……守る?」



「そう。お父さんは、私達を守ってくれる。だからお父さんの事は私が守ってあげなきゃってね。人は支え合うものって言うでしょう? 何もかもがお互い様なのよ、私もお父さんを支えて守るって決めたの。……古い考え方かもしれないけどね。他にもやり方はあったかもしれないけど……ふふ、私達はそういう関係だったし、別にそれでいいと思ったのね」



 だから、確かに不満とか、無かったとは言わないけど。でも私達は、うまくいってたと思ってるわ。



 母の洗う皿が、最後の一枚になった。それを受け取って、勇気がすすいでいる間、母はじっと見つめていた。



「でも、それが貴方達の幸せとは、限らないものね」



 勇一郎にも勇気にも、寂しい思いをさせたかもしれないわ。



 勇気は、何も答えなかった。





















 正月休みは暇を持て余す。餅つきをするでもなく、おせちを作るでもない勇気の家は、正月休みはひたすらにゆっくりと過ごす時間だ。



 兄はテレビをつけたままソファでぐうぐう寝始めて、父は兄に気をつかうでもなくその隣でテレビを見ている。バラエティ番組を見ているようだが、笑ったところを見たことがないから、楽しんでいるのかもわからない。



 寡黙で何を考えているかわからない父。ただ、何を考えているかわからないのはお互い様かもしれない。勇気も内向的で、家族にも何を考えているかあまり言わなかったように思う。勇一郎と勇気は全然似てないわね、と母がよく言っていた。兄は思ったことを思ったままに言うタイプで、ストレス無いだろうなと子供の頃から思っていたものだ。



 お風呂に入ってさっぱりしてらっしゃいな。母に促されて、風呂に入る。一人暮らしではシャワーで済ますことが多いから、湯船に浸かってゆっくりするのは久しぶりだ。ワンルームの狭いバスタブとは違って、のびのびと湯に浸かれるのは気持ちがいい。全身が温まって、心が、体がほぐれていくような気がする。ふう、と息を吐きだして、またぼんやりと天井を見上げながら湯気に満ちた白い世界を眺めていると、色んなことを考えてしまった。



 もしかしたら。



 もしかしたら、母さんは父さんと暮らして、幸せだったのかもしれない。



 それは、勇気にとって全ての前提が覆されるようなことだ。



 思えば。



 自分が寂しい思いをしていたのかもしれない。母が、寂しい顔をしていたから。自分ではどうにもならないことを、子供心に悩んだのかもしれない。そして、無力な当時の勇気はこう思うしかなかったのだ。



 父さんが、そばにいないせいだ。



 それが責任転嫁であることは、勇気自身にもわかっていた。家に帰らない父が全て悪いことにしてしまえば、随分話は楽になるのだ。母に寂しい思いをさせているのは、自分のせいではないと思えるのだから。それでも、何処かでそうして嘘をついているとわかっていたのかもしれない。だからこそ、勇気は家族が苦手だったのかも。



 そう考えると、色んなことが繋がってくる。悲しいぐらいに。



 そもそも。勇気は本当に『彼女』のことが好きだったのだろうか。今は名前も覚えていない、金髪の彼女のことを。勇気は最後まで、彼女がどういう境遇で、どう考えているのか、どういう人間なのか知ろうとはしなかった。それは、そばにいたというのか? 彼女を守ろうとしたと言えるのか?



 父と同じであってはいけないと思い込んで。それでも方法もわからなくて、違うと思いたかっただけではないのか。そうだということを自覚するのが怖くて、ずっとずっと、考えないようにしていただけではないのか。



 現に、勇気はあの日、突然帰国するまでエリスのことを何も知ろうとはしなかったのだから。



「……あ~……」



 勇気は溜息を吐いて、目を閉じる。



 俺は中学生の頃から、何にも変わってなかったんだな。



 エリスや透夜に偉そうなことを言っておいて。何も頑張れてないし、自覚していないのは自分のほうだ。



「……俺、ほんとどうしようもねぇな……」



 透夜に言われるまでもない。平凡な、どうしようもなく何の取り柄もない、ただの子供なのだ。全て父親のせいにして、現実から逃げていただけの。その実、自分のやりたいことなど見つからずに、人の役に立ちたいなんておこがましい理由で、なんとなく仕事を選んだだけの。



「……あ~……」



 一人で考えていると、憂鬱な気持ちは止まらない。しかし、この場にはエリスも、いつも陽気な要も、冷静な時もある透夜も、誰もいない。勇気は一人だ。



「俺、やっぱり……エルにふさわしくはないな……」



 ぽつり、とこぼした言葉が、風呂場で反響して、何度も胸に届くようだった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

転生令息は冒険者を目指す!?

葛城 惶
BL
ある時、日本に大規模災害が発生した。  救助活動中に取り残された少女を助けた自衛官、天海隆司は直後に土砂の崩落に巻き込まれ、意識を失う。  再び目を開けた時、彼は全く知らない世界に転生していた。  異世界で美貌の貴族令息に転生した脳筋の元自衛官は憧れの冒険者になれるのか?!  とってもお馬鹿なコメディです(;^_^A

緋の翅

鯨井イルカ
BL
 ごく普通の会社員平川静一には『緊縛』という倒錯的な趣味があった。  元恋人にコレクションを全て捨てられた静一は、ある日黒い肌襦袢を身に纏った男性が緋色の縄に縛られていく配信のアーカイブを見つける。一目で心を奪われて他の動画を探したが、残っていたのはその一件だけだった。  それでも諦めきれず検索が日課になった日々のなか、勤め先で黒縁眼鏡をかけた美貌の男性社員、高山円と出会った。 ※更新はおそらく隔週くらいの頻度になる予定です。

そういった理由で彼は問題児になりました

まめ
BL
非王道生徒会をリコールされた元生徒会長が、それでも楽しく学校生活を過ごす話。

優しくしなさいと言われたのでそうしただけです。

だいふくじん
BL
1年間平凡に過ごしていたのに2年目からの学園生活がとても濃くなってしまった。 可もなく不可もなく、だが特技や才能がある訳じゃない。 だからこそ人には優しくいようと接してたら、ついでに流されやすくもなっていた。 これは俺が悪いのか...? 悪いようだからそろそろ刺されるかもしれない。 金持ちのお坊ちゃん達が集まる全寮制の男子校で平凡顔男子がモテ始めるお話。

(…二度と浮気なんてさせない)

らぷた
BL
「もういい、浮気してやる!!」 愛されてる自信がない受けと、秘密を抱えた攻めのお話。 美形クール攻め×天然受け。 隙間時間にどうぞ!

眠るライオン起こすことなかれ

鶴機 亀輔
BL
アンチ王道たちが痛い目(?)に合います。 ケンカ両成敗! 平凡風紀副委員長×天然生徒会補佐 前提の天然総受け

王様のナミダ

白雨あめ
BL
全寮制男子高校、箱夢学園。 そこで風紀副委員長を努める桜庭篠は、ある夜久しぶりの夢をみた。 端正に整った顔を歪め、大粒の涙を流す綺麗な男。俺様生徒会長が泣いていたのだ。 驚くまもなく、学園に転入してくる王道転校生。彼のはた迷惑な行動から、俺様会長と風紀副委員長の距離は近づいていく。 ※会長受けです。 駄文でも大丈夫と言ってくれる方、楽しんでいただけたら嬉しいです。

【完結】私立秀麗学園高校ホスト科⭐︎

亜沙美多郎
BL
本編完結!番外編も無事完結しました♡ 「私立秀麗学園高校ホスト科」とは、通常の必須科目に加え、顔面偏差値やスタイルまでもが受験合格の要因となる。芸能界を目指す(もしくは既に芸能活動をしている)人が多く在籍している男子校。 そんな煌びやかな高校に、中学生まで虐められっ子だった僕が何故か合格! 更にいきなり生徒会に入るわ、両思いになるわ……一体何が起こってるんでしょう……。 これまでとは真逆の生活を送る事に戸惑いながらも、好きな人の為、自分の為に強くなろうと奮闘する毎日。 友達や恋人に守られながらも、無自覚に周りをキュンキュンさせる二階堂椿に周りもどんどん魅力されていき…… 椿の恋と友情の1年間を追ったストーリーです。 .₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇.ෆ˟̑*̑˚̑*̑˟̑ෆ.₊̣̇ ※R-18バージョンはムーンライトノベルズさんに投稿しています。アルファポリスは全年齢対象となっております。 ※お気に入り登録、しおり、ありがとうございます!投稿の励みになります。 楽しんで頂けると幸いです(^^) 今後ともどうぞ宜しくお願いします♪ ※誤字脱字、見つけ次第コッソリ直しております。すみません(T ^ T)

処理中です...