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第1話 井之上勇気の受難
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勇気は、そのだだっ広いスイートルームの隅の椅子に腰掛け、どうしてこんな事になったのか、考えを巡らせていた。
事の発端について、勇気は正直に言って記憶に無い。全ての始まりを思い出すことはできないが、今日の出来事なら振り返れる。
いつも通り、新入社員らしく早めに出社した勇気は、会社の自分の部署に向かい、席に着こうとした時、部長に呼び止められた。
初老の部長は優しく穏やかな人だったから、苦手意識は無い。明るく返事をしたが、部長は通夜のように青褪めて「勇気君」と震える声で名を呼んだ。
「一体全体、君は先日の飲み会で、何をやってしまったんだい」
「は? 飲み会、ですか……?」
勇気は首を傾げた。先日の飲み会、といえば、2週間前の金曜の事だろう。異業種交流を目的とした、他社との合同食事会が行われ、新人の勇気も上司と共に参加していたのだ。
ところが、そこに参加したことは覚えているのだが、気が付いたら自宅で朝を迎えていた。その間の記憶がすっかり抜け落ちているのだ。しかし、飲み会には他の先輩社員も居たから、大きな失態を犯したならきっと知っているだろう。だがそんな話も聞かない。
「マキノ商事の社長が、君に用が有ると言っているんだよ」
他の社員に聞こえないように、部長は掠れた小さな声で言う。マキノ商事といえば、その異業種交流会にも参加していた企業の一つだ。外資系で次々に中小企業を買収、傘下に置き、支配していると悪名高い会社だ。
そこの社長に、新入社員が指名されている。流石に勇気もただごとではないと理解して、青褪めた。
「私に用ですか?! 一体何の……」
「それがどうも、社長の御息女が君に一目惚れしたとかどうとか……」
「えぇっ?!」
思わず裏返った声が出た。社長令嬢に一目惚れされるなんて、全く身に覚えがない。
「責任を取ってもらわなければ、我が社がどうなるか……」
意味がわからない。勇気はとりあえず自分の短い黒髪を引っ張った。痛い。悪い夢ではなさそうだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「いや、いや待てない、先方は本気だ、たぶん、だからね勇気君、指示に従って欲しい」
わかるね、我が社の運命がかかってるんだよ。
そう言われたのが、今朝のことだ。
そして、勇気は今、スイートルームに座っている。
マキノ商事の社長の指示はこうだ。今夜、我が子が勇気に逢いに行く。指定したホテルの部屋に向かい、これを受け入れて欲しい。
この指示を勇気の会社の上層部は必死に解釈することになった。つまり、ねんごろになれということだろう。勇気は風呂に入れと言われ、上等なスーツを着せられ、とびきりいい匂いのするブランドものの香水を吹き付けられた。
こんなのは横暴です、と勇気は喚いた。パワハラモラハラにも程が有る。しかし上層部達の、殊更、社長の青褪めた顔を見ると、どうにも行かないとは言えなかった。
「わかってくれとは言わない、我々もどうしようもないんだ、今、我が社を乗っ取られたら、社どころか我々の研究も全てダメになってしまう」
そう、勇気の会社は医療系の会社であり、小規模とはいえ様々な怪我や病気に対してアプローチできるシステムを開発していた。これを買収されて、更にマキノ商事といえばリストラであるとまで言われるほどの経営をされてしまえば、研究も危うくなってしまう。
顧客のために、患者のために。それが社を挙げて最も大切にすること。
「だから、ね?」
――いや、いやいや。だから、ね? じゃないだろ。
そんなこんなで、勇気はスイートルームで一人、頭を抱えている。
一体何が起こってどうなったら、こんな事になる。心当たりといえば、確かに先日の飲み会であり、そこにはマキノ商事の面々も来ていた筈だ。そこで出会ったのだとは思うが、誰か女性に出会った記憶どころか、その日のこと自体がすっぽ抜けているのに、どうしようもない。
何もわからないまま、指定されたホテルの部屋に入ったら、ここだった。この一泊何万するのか考えるのも億劫な部屋に、勇気は一人で座っている。こんな部屋、死んでも入れないと思っていた。
あるいは、その御息女と上手いこといけば、逆玉の輿ってことになるのかもしれない、と考えなくもない。しかし中世か江戸時代ならともかく、令和の時代に人身売買のようなことをされているのだ。負けてはいけない、と勇気は思う。社には悪いが、お断りしよう。
スイートルームは白を基調とした上品な装いで、広々としている。奥にはジャグジー付きのバスルームがあったし、天蓋付きのダブルベッドもあった。ダブルベッドということは二人で使う部屋だろうに、ソファや椅子はこの部屋で何人過ごすつもりなのかというぐらいたくさん置いてある。
のろのろと立ち上がって窓の近くへ向かう。途中に置いてあった鏡に映る自分を見た。
身長170センチ前後の、特段飛び抜けたイケメンというわけでも無い普通の男だと思う。普段は真面目に見えるように伊達眼鏡をしているが、今はしていない。上等のスーツに身を包んで、黒い髪を丁寧に撫でつけられた顔はなんとも不安げだ。若い頃は無茶をしたせいか、肌の色素が少々濃い。しかし、どこぞの社長令嬢に一目惚れされるような要素など、何も無いと思う。
夜もふけて、窓から見える夜景は美しい。こんな景色を見ながら金持ちはワインでも片手にセックスするんだな……とぼんやり思う。そんなことをさせられそうになっているのだ、と気付いて、いや違う、俺は嫌だ、と一人で頭を振っていると。
コンコン、と部屋の入り口がノックされる。遂にこの時が来てしまった。勇気はそれでもドアを見つめるだけで動けなかったが、もう一度ノックされて、勇気はよろよろとドアに向かう。
ああ、どんな美女が来たってお断りだ、こんな、脅迫のような形で一目惚れの相手を手に入れようとする奴なんて、ろくな奴じゃない。そうだろ、勇気。
そう考えながら、勇気は扉をそっと開いて。
「ユウキ」
目の前に立っていた、身長180センチは越えているだろう金髪の超イケメンを見て、とりあえず扉を閉めた。
事の発端について、勇気は正直に言って記憶に無い。全ての始まりを思い出すことはできないが、今日の出来事なら振り返れる。
いつも通り、新入社員らしく早めに出社した勇気は、会社の自分の部署に向かい、席に着こうとした時、部長に呼び止められた。
初老の部長は優しく穏やかな人だったから、苦手意識は無い。明るく返事をしたが、部長は通夜のように青褪めて「勇気君」と震える声で名を呼んだ。
「一体全体、君は先日の飲み会で、何をやってしまったんだい」
「は? 飲み会、ですか……?」
勇気は首を傾げた。先日の飲み会、といえば、2週間前の金曜の事だろう。異業種交流を目的とした、他社との合同食事会が行われ、新人の勇気も上司と共に参加していたのだ。
ところが、そこに参加したことは覚えているのだが、気が付いたら自宅で朝を迎えていた。その間の記憶がすっかり抜け落ちているのだ。しかし、飲み会には他の先輩社員も居たから、大きな失態を犯したならきっと知っているだろう。だがそんな話も聞かない。
「マキノ商事の社長が、君に用が有ると言っているんだよ」
他の社員に聞こえないように、部長は掠れた小さな声で言う。マキノ商事といえば、その異業種交流会にも参加していた企業の一つだ。外資系で次々に中小企業を買収、傘下に置き、支配していると悪名高い会社だ。
そこの社長に、新入社員が指名されている。流石に勇気もただごとではないと理解して、青褪めた。
「私に用ですか?! 一体何の……」
「それがどうも、社長の御息女が君に一目惚れしたとかどうとか……」
「えぇっ?!」
思わず裏返った声が出た。社長令嬢に一目惚れされるなんて、全く身に覚えがない。
「責任を取ってもらわなければ、我が社がどうなるか……」
意味がわからない。勇気はとりあえず自分の短い黒髪を引っ張った。痛い。悪い夢ではなさそうだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「いや、いや待てない、先方は本気だ、たぶん、だからね勇気君、指示に従って欲しい」
わかるね、我が社の運命がかかってるんだよ。
そう言われたのが、今朝のことだ。
そして、勇気は今、スイートルームに座っている。
マキノ商事の社長の指示はこうだ。今夜、我が子が勇気に逢いに行く。指定したホテルの部屋に向かい、これを受け入れて欲しい。
この指示を勇気の会社の上層部は必死に解釈することになった。つまり、ねんごろになれということだろう。勇気は風呂に入れと言われ、上等なスーツを着せられ、とびきりいい匂いのするブランドものの香水を吹き付けられた。
こんなのは横暴です、と勇気は喚いた。パワハラモラハラにも程が有る。しかし上層部達の、殊更、社長の青褪めた顔を見ると、どうにも行かないとは言えなかった。
「わかってくれとは言わない、我々もどうしようもないんだ、今、我が社を乗っ取られたら、社どころか我々の研究も全てダメになってしまう」
そう、勇気の会社は医療系の会社であり、小規模とはいえ様々な怪我や病気に対してアプローチできるシステムを開発していた。これを買収されて、更にマキノ商事といえばリストラであるとまで言われるほどの経営をされてしまえば、研究も危うくなってしまう。
顧客のために、患者のために。それが社を挙げて最も大切にすること。
「だから、ね?」
――いや、いやいや。だから、ね? じゃないだろ。
そんなこんなで、勇気はスイートルームで一人、頭を抱えている。
一体何が起こってどうなったら、こんな事になる。心当たりといえば、確かに先日の飲み会であり、そこにはマキノ商事の面々も来ていた筈だ。そこで出会ったのだとは思うが、誰か女性に出会った記憶どころか、その日のこと自体がすっぽ抜けているのに、どうしようもない。
何もわからないまま、指定されたホテルの部屋に入ったら、ここだった。この一泊何万するのか考えるのも億劫な部屋に、勇気は一人で座っている。こんな部屋、死んでも入れないと思っていた。
あるいは、その御息女と上手いこといけば、逆玉の輿ってことになるのかもしれない、と考えなくもない。しかし中世か江戸時代ならともかく、令和の時代に人身売買のようなことをされているのだ。負けてはいけない、と勇気は思う。社には悪いが、お断りしよう。
スイートルームは白を基調とした上品な装いで、広々としている。奥にはジャグジー付きのバスルームがあったし、天蓋付きのダブルベッドもあった。ダブルベッドということは二人で使う部屋だろうに、ソファや椅子はこの部屋で何人過ごすつもりなのかというぐらいたくさん置いてある。
のろのろと立ち上がって窓の近くへ向かう。途中に置いてあった鏡に映る自分を見た。
身長170センチ前後の、特段飛び抜けたイケメンというわけでも無い普通の男だと思う。普段は真面目に見えるように伊達眼鏡をしているが、今はしていない。上等のスーツに身を包んで、黒い髪を丁寧に撫でつけられた顔はなんとも不安げだ。若い頃は無茶をしたせいか、肌の色素が少々濃い。しかし、どこぞの社長令嬢に一目惚れされるような要素など、何も無いと思う。
夜もふけて、窓から見える夜景は美しい。こんな景色を見ながら金持ちはワインでも片手にセックスするんだな……とぼんやり思う。そんなことをさせられそうになっているのだ、と気付いて、いや違う、俺は嫌だ、と一人で頭を振っていると。
コンコン、と部屋の入り口がノックされる。遂にこの時が来てしまった。勇気はそれでもドアを見つめるだけで動けなかったが、もう一度ノックされて、勇気はよろよろとドアに向かう。
ああ、どんな美女が来たってお断りだ、こんな、脅迫のような形で一目惚れの相手を手に入れようとする奴なんて、ろくな奴じゃない。そうだろ、勇気。
そう考えながら、勇気は扉をそっと開いて。
「ユウキ」
目の前に立っていた、身長180センチは越えているだろう金髪の超イケメンを見て、とりあえず扉を閉めた。
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