悲嘆の森に住まうもの

なずとず

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第10話 2年前のこと

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 それは今から2年ほど前の、とある雨の日のことだった。

 まだ18歳だったユウは、暗い森の中を一人彷徨っていた。出立してから随分時間が経ったように思うが、鬱蒼とした森は何処までも同じように深く続いていて抜けられる気がしない。かといって、もう方角も時間もわからないものだから、元来た街に戻ろうにも戻れない。風や雨が草木を揺らす音さえ不気味で、まだ年若いユウは少々怯えながら、それでも歩み続けるしかなかった。




 そうまでしてユウがこの森に入ったのにはいくつかの理由が有る。一つには、ここを抜けることができた人間が殆どいないからだ。山脈の間に位置するその森は、迂回すれば数週間かかるような街を繋いでいるはずだが、ここを越えられる者がいない。森は深く人を惑わし、奥まで入ることを許さないのだという。

 その点、ユウはこれまで森で迷った事が無い。どうしたことか、適当に歩いていても目的の場所に辿り着ける不思議な能力を子供の頃から持っていた。他にも持っているものはいくつかある。

 例えばこの辺境の地では少々珍しい白い肌に赤い瞳、それに煌めく薄い色の髪は、人の目を引いた。しかも顔立ちは美少年の類だ。おかげで随分ひどい目にあったから、ユウはこれを誇りに思ったことはなく、あえて自分で体や顔に傷をつけ、自身の商品価値を落としたほどだった。

 もう一つ、ユウが子供の頃から持っているものが有る。シンプルな真鍮でできたペンダントだ。最早記憶にもうっすらとしか残っていないが、父親に預けられたもので、なんでも家宝のように代々受け継がれていたとかなんとか。ペンダントにはなにやら読めない字で何かが書いてあるだけで、どんなご利益が有るのかもわからない。しかし、今は亡き家族との唯一の繋がりであるそれを、ユウは肌身離さず持ち歩いていた。

 森の中で、果たして本当に迷っていないのか、目的地に辿り着けるのか不安になると、ついこのペンダントを握ってしまう。そうすると、不思議と気持ちが落ち着いて、真っ直ぐ歩き出すことができるのだ。そしてこれまでのところ、無事に目的地に到着できている。だから、ユウはこの旅に自信を持っていた。

 しかし、こうも暗い森は初めてだ。人が入らない迷いの森は、空まで木々の葉で覆われて陽も差し込まず、いつもの旅よりもずっと不安になる。だからユウはそのペンダントをずっと片方の手で握りしめながら、ひたすらに歩みを進めていた。






 どれほどの時間歩き続けただろう。雨でぬかるんだ森を歩くのは、若く体力の有るユウでも流石に疲れて、何処かで休もうと思い始めた頃だ。ふいに木々が途切れて、僅かながら明るい場所が目に入った。もしや森の出口か、とユウは喜んでそちらに向かう。

 そこには大樹に寄り添うように古びた小屋が佇んでいた。傍に小川が流れていて、壁には蔦が、天井には苔がむしている。人が住んでいるようには思えなかったが、雨をしのぐにはちょうどいい。一休みさせてもらおう、とユウは足早に小屋へと向かう。

「こんにちは! 誰かいますか!」

 小屋の入り口で声を出す。扉も叩いてみたが、反応は無い。やはり無人か、あるいは猟師の休憩所か何かだろうか。人の入れない森だと聞いていたから、そこに誰かが住んでいるとはあまり考えなかったし、もし住んでいるとしたら森を抜けられたのだとユウは思っていた。

 返事は無かったが、ユウはしばらく声を上げ続けた。万が一にも不法侵入をしてはいけないと思ったのだ。とりあえず小屋の周りをぐるりと周って見る。樹齢何百年なのかもわからないような大樹の傍に建てられた小屋はとても古そうで、手入れもあまりされているようには見えない。しかし、裏手に薪置き場が有って、斧も置かれている。それは錆ついていなかったし、乾燥していない薪も見受けられた。現在もこの小屋に出入りしている人間がいるということだ。

 と、ガササ、という何かが蠢く音がして、ユウは驚いて振り返った。何か生き物の気配のように感じたが、何もいない。雨風で折れたのか、ぬかるんだ地面の上に無数の木の枝葉が転がっているだけだ。気味が悪い、とユウは不安になって、また思わずペンダントを握った。

 小屋の表に戻って、もう一度だけ声をかける。

「あの、すいません、少しだけ雨宿りさせてもらっていいですか」

 答えなどはないつもりで、そう言ったのだ。軒先の一角で休ませてもらおうと思って。だのに、その小屋の扉がゆっくりと開いたものだから、ユウは思わず後ずさりして逃げそうになった。

 小屋の中は夜闇のように暗く、中は全く見えない。なのに扉が開いたのだから気味が悪くて仕方ない。反射的に街で聞いた色々な噂話を思い出す。森に棲む化け物や夜に現れる幽霊、その他諸々の怖い話だ。18歳にもなった今ではそれに怖がることはあまりなかったが、今こういう状況で思い出すのは大変まずい。このペンダントだってユウを迷子にしない程度で守ってはくれないだろう。思わず腰に差していた小ぶりなナイフの柄に手をやっていると、本当にゆっくりとした動きで、小屋から何者かが姿を現した。

 ソレは暗い古びた絨毯のようなくすんだ布を纏い、フードまで被っていたものだから、顏も見えなかった。だから、ユウはそれが本当に亡霊かなにかのように見えた。ひ、と思わず悲鳴を上げそうになっていると、亡霊にしては柔らかな声が、小さく聞こえた。

「……ヴィント……?」

   声の主が小屋から出ながら、かぶっていたフードを脱ぐ。外に出たことでようやっと彼の姿が見えた。褐色の肌に、大樹の幹のように黒い、しかし僅かに茶色がかった長い髪を、結びもせず乱れたままにしていて、まるで寝起きといった風だ。とろんとした紫の瞳はしかし驚きをもってユウを見つめている。彼は美術品のように美しい容姿だが、何しろ被っている古びた絨毯のように小汚い布や、乱れきった髪が乞食あるいは安い娼婦のようにも見せた。

「あ、……あの」

 ユウはその不思議な男を見ながら、それでも声をかけてしまった以上は、当初の目的を果たそうとするしかなかった。

「すいません、その、……起こしてしまって、あの、……雨宿り、させてもらえませんか、少しの時間でいいので……」

 こんな森の中に暮らしているのだ、きっとマトモな人間ではない、とユウは思ったから、本当に少ししたら出るつもりでそう言った。彼はやはりぼんやりした顔でユウの顔を見つめている。ややして「どうぞ」と小屋の中へと招かれたので、恐る恐る彼について中へと入ることにした。

 土で汚れきったブーツをとりあえず脱ぎ、どうしたものかと思ったが、彼も裸足で歩いているのが見えたのでユウも倣うことにした。そうこうしているうちに、「これを」とタオルを渡された。使い古したものなのかゴワついていて心地はよくなかったが、無いよりはずっとましだ。ありがとう、と素直に受け取って髪を拭く。土砂降りではなくてよかった。

 髪を拭きながら、部屋を見る。古い小屋だが中は生活している為かそれほど荒れてはいない。しかしとにかく物が多い。机の上はなにやら器具や瓶、乾燥した草木で埋まっているし、床には木の実が散らばっていたり、台所と思わしき場所も暗くてよくわからないが、何かがいっぱいに置かれている。とにかく暗い。見ると僅かな光を放る鉱石が小屋の中に点々と置かれていて、それで少しばかり中が見える程度だ。

 ここが怪しげな魔女や殺人鬼の住処だと言われてもなんの疑いもない。ユウは早くここを出たいと思った。

「貴方」

「ひゃっ」

 思いがけず近い位置から声をかけられて、ユウは思わず悲鳴を上げた。いつの間にか彼がそばに立っていて、ユウの顏をまじまじと見つめている。品定めでもされているのか、と恐ろしくなったが、「あの」と声を出している間に、話を続けられる。

「湯浴みをするといいでしょう。濡れたままでは風邪を引いてしまいます」

「いや、でも、本当に少ししたら、」

「今からここを出ても、夜までに街には着けませんよ。夜の森は獣やそうでないものも出てきますから、今夜はここで過ごしたほうが安全です」

 ここで一晩過ごす? ユウは冗談じゃないと思った。こんな薄気味悪い場所で寝られるわけがない。まして、この不気味な男のそばでなんて。

 そう思ったのが筒抜けになっていたのか、彼は「ふふ」と柔らかく微笑んで言った。

「貴方をとって食べたりなんてしませんよ、エルフは食事はあまり摂らなくていいですからね」

 そう言われてユウは彼の顔を見返す。髪に隠れて見えないが、もしかしてあの耳の長いエルフ族なのだろうか。ならこれだけ美しくて、意味がわからないのも説明がつくかもしれない。彼らは人間より美しく、長く生き、優雅で、そして意味不明なところがあると聞く。現に、何のフォローにもならないことを言って安心させようとしているではないか。

 ユウはこの小屋で目の前のエルフの餌食になるか、夜の森で獣の餌食になるか、どちらがいいかを選択するしかなく、まだ安全なのはここかもしれないという結論を出すより、他に無かった。


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