となりの露峰薫さん

なずとず

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「大丈夫ですか? 薫さん……」

「うん、平気……ああ、明日も休みで良かった……」

 薫は苦笑しながら、ベッドに沈んでいる。あの後、和真は薫を休ませてから、シャワーを浴びさせた。裸を見られることをひどく恥ずかしがっていたけれど、疲れているからかされるがままの薫に、たくさんキスをしたものだ。

 そしてすっかり体も綺麗になったふたりは、再びベッドに潜っている。セックス後の心地良いまどろみ、後はもう、幸せに眠るだけの時間は甘い。

「すいません。薫さんになるべく無理はさせたくなかったんですけど、俺もつい……興奮しちゃって……」

 本当はもっともっと、ゆっくりセックスを楽しむつもりだったのだけれど。薫の痴態を前に、まるで初体験の若者みたいにがっついてしまった気がした。しかし、薫は微笑んで首を振る。

「大丈夫、和真君はとっても丁寧にしてくれたから……」

「薫さん……」

 薫は心からそう思っているように、優しい瞳で見つめている。そのことに和真は安心し、しかし少々不安になる。

 薫はこういう時、自分に気を遣って平気なふりをしたりするかもしれない、と。

 そう考えると、薫に告白された時感じた得体の知れない不安が、背中に覆い被さってくる。暗くて冷たいものに押し潰されてしまいそうだ。

「……薫さん……」

「うん?」

「……薫さん、あの、俺ね……あの、今すごい不安なんですけど、ちょっと、うまく言葉にできるか……」

 薫に助けを求めるように口を開いたものの、一体何が怖くて、何を言って欲しいのかもわからない。次に言うべきことも見えないまま薫を見ると、彼はやはり微笑んでくれる。

「うん、大丈夫。和真君のペースでいいよ。話したいことが有るなら、時間がかかってもいいから、言ってみて。やっぱり言いたくないようなら、それでも大丈夫だからね……」

 薫はどこまでも優しい。優しさとは痛みか打算の産物だ。今更、薫が何かを狙っているとは思えない。だとしたら彼は沢山の痛みを知っているから、こうして待ってくれているのだと思う。

 それが、悲しくて、そしてどこか不安だった。

「……薫さん、その。俺、失礼なこと言うかもしれないです」

「大丈夫だよ。言ってみて」

「……薫さんって、たぶん、嫌なこととか、つらいこととか……自分の中にしまいこんで、言わないようにしちゃうタイプ……だと思うんすよ」

「まあ、それは否定できないね」

「だから……お願いが有るんですけど、俺には……俺に対してだけでもいいから、そういうのやめて欲しいんです。嫌なら嫌って言ってほしいし、我慢してほしくないし……それで……」

 それで。

 思い浮かんだ言葉に、和真は一瞬息を呑む。

 そうか。これが自分の、あの得体の知れない不安の正体なのかもしれない、と。

 こんなことを言って、薫に嫌がられないだろうか。おずおずと薫の表情を窺っても、彼が穏やかに聞いてくれているから。

 和真は、意を決した。

「……何か、嫌なことが有って、理由が有って、俺と一緒にいられなくなったとき……そのわけを、教えて欲しいんです……」 

「……それは、勿論そうするけど……また随分、気の早い話だね……?」

 薫は特に気を悪くした様子もなく、率直にそう呟いているようだった。確かに、やっと付き合い始めたばかりだというのに、もう別れ話の心配をしているのだから、気は早いかもしれない。

 しかしどうやら、自分にはとても重要なことらしい。和真は胸の奥で渦巻く苦しいほどの不安を感じながら、続けた。

「嫌、なんすよ。なんか……自分の知らないところで、理由もわからないまま、嫌われたり、……捨てられたりするのって……」

 そう口にしたことで、和真自身も何の話をしているのか理解する。

 これはきっと。和真の深い寂しさの根底にあるものだ。

「……だって、理由を言ってくれたらこっちだって努力はできるじゃないすか。こうされるの嫌とか、わかれば……俺だって嫌なことしない努力もできるけど……。でもそういうこと、何にも無くて捨てられたら……だって……何が悪いのかわかんないじゃないすか……」

「……和真君……」

 薫が、悲痛な表情を浮かべている。きっと彼も、和真がなんのことを言っているか気付いているのだろう。

「いいんすよ、だって人それぞれ事情も有るだろうし、色々あるうちに嫌いになるなんてこともそりゃ、避けられないと思うんです。でも、そういう説明無しでお別れされると……色々、考えちゃうじゃないすか。……何がよくなかったんだろうとか、……俺が、……俺はいないほうがよかったのか、とか……」

 胸が苦しい。目頭が熱くなる。いけない、薫さんを心配させてしまうから、これ以上この話はしない方がいい。

 和真は咄嗟に笑顔を浮かべて、「だから、お願いします!」と元気に言った。

「薫さんも、俺と一緒にいて嫌なこととか、もし嫌いになったら、その理由を教えて欲しいんです!」

「……」

 薫は少しの間、なにか考えるようにしていたけれど。彼は小さく頷いて、微笑む。

「わかったよ、和真君。きっとそうする。でも私は本当に君のことで嫌な思いなんてしたことはないよ。だから安心して欲しい」

「薫さん……」

「その上でね、和真君」

 薫はじっと、和真の瞳を見つめている。その慈愛に満ちた色は、どこか義母を思い出すものがあった。

「これだけは覚えておいて欲しいんだ。確かに、これから長い付き合いのうちには嫌なことや喧嘩も有るかもしれないし、その末に、私たちが一緒にいられなくなる日も来るかもしれない。たとえ、そうなったとしても……」

 薫が、和真の手を優しく握って包んでくれる。その温かさが、どうしてか苦しい胸にまで届くように感じられた。

「君という人が、この世界に唯一の、素晴らしい子であることは変わらない。君の価値は、全く傷付かない。君は生きていてくれるだけで尊くて……誰かにとって、そして君自身にとっても大切な愛しい人だということに、なんら変わりはないからね」

「…………」

「人間なんだもの、嫌な部分も、ダメな部分もいっぱい有るんだと思う。でもそれと同じぐらい素敵な部分だって必ず有るよ。だからもしこの先私が、万が一君のことを遠ざける日が来たとしても、それは君の全てを否定することじゃない。きっとお互いに譲れないことのすれ違いや衝突が有るだけだ。そういうことは、「普通」の人間なら持っているし、することだと思う」

「……そう、ですね……」

「だから……そうだね。君がこのことで不安に思うのも、理由を教えて欲しいと願うのも、広い意味で言えば「普通」のことなんだよ。きっとね。……だから、……だからね、和真君」

 薫の手が、ぎゅっと和真の手を握る。大切なものを、離さないように。

「君の考えていることも、思いも、何もかも大切なものだから。それを大事にして、いいからね。そして忘れないで。何が有ろうと、誰が何と言おうと、君は世界にひとりの大切な君で、その価値は決して揺るがない。……少なくとも私は、そう信じているよ」

 薫が優しい、けれどしっかりした声で語る。それに対して、何と返事をするべきだろう。和真はそんな風に考えた。

 とても、向き合って。大事なことを言ってもらえた気がする。

 そう、思っていると。

「……あ、あれ?」

 頬を伝うものに気付いて、和真は慌ててそれを拭う。手の甲が濡れ、それでようやく、自分が涙を零したことを理解した。

「あ、あれ、なんで、俺……っ」

 傷が有ると知れば、痛むように。泣いていることを自覚した瞬間、喉が、胸が苦しくなる。次から次へと溢れ出る涙を拭いながら、「すいません」と口にした。

「ど、どうしてだろ、お、俺、大丈夫ですから、だから心配しないで……すぐ泣き止みますから!」

 震える声でそう伝えていると、ふいに薫の手が延ばされる。「え」と漏らしたその体を、身体が優しく抱き寄せてくれた。

 まるで、母の胸に顔を埋めるように。和真はその温かな場所に包まれて、困惑した。

「か、薫さん、」

「いいんだよ」

「え」

「泣きたいときは泣いても。無理して泣き止まなくても。元気なふりをしなくても。君の気持ちを大事にしてあげて。君がどんな姿であっても、私は君のことが好きだから。ね?」

「…………っ」

 和真はその時、頭の中ではっきりと感じた。

 許された、と。

 そして、和真は子供のように声を上げ、薫の胸に縋りついて慟哭した。





 怖かった。

 ずっと怖かったのだ。

 本当の両親が、どうして自分を捨てたのか。

 もし、何か深い事情が有ったなら。理解もできる。諦めもつく。同情もできるし、本当の両親とも家族になれるかもしれない。

 けれど、もし。

 ただ、自分が「いらないもの」だったら。

 それを知ってしまったら。自分が本当に無意味で、無価値なモノになってしまう気がして。

 そして、どちらに転んでも。育ててくれた両親の、心からの愛情を裏切ってしまうような気がして。

 どうしても知りたいのに、どうしても、知れなかった。

 怖かった。

 知らなければ、今のままでいられると思った。

 それなのに。

 夜はひどく寒くて、震えるほどの孤独が背中から心を掻きむしるようで。

 寂しくて、寂しくて。とてもひとりではいられなかった。

 育ての両親に、これほど愛されているのに。満たされない自分が憎くて、苦しくて。

 夜な夜な、知らない男と身を繋げる自分が、申し訳無くて。

 和真は、実家にさえ戻れなくなってしまった――。




「お、俺、俺、ホントは、ほんとは、」

 薫にぎゅっと抱き着いて。その胸で、喉の奥から声を絞り出す。

 苦しくて、痛くて、辛いけれど。今、言葉にしなければ、一生話せないような気がして。

「ホントは、……知りたいんです、俺を生んだ……、俺を捨てていった、ひとたちの、こと……っ」

「…………」

 薫は何も言わずに、ただ優しく、和真の頭を、身体を撫でてくれる。その温もりがまた、優しすぎて苦しい。こうされたかった。ずっとずっと、こうしてほしかった。誰かに、――きっと、本当の、親に。

「できることなら、理由を教えて欲しかった、どうして俺を、育てられなかったのか……俺にダメなところがあるなら、教えて欲しかった! ……でも、知るのが怖いんです、俺がいらなかったんだったら、俺が、生まれちゃダメだったんなら……っ」

「……なら……?」

「……ッ、俺に、何の価値も無い、生きてる、意味も無い気がして……ッ、どうして! 生んだ! って、……問い詰めて、しまいそうで……!」

 言葉を詰まらせながら、和真は全てを打ち明けていく。それは酷く苦しくて、身を裂くように痛くて。薫が抱き留めてくれていなかったら、暴れ出していたかもしれない。

 長い長い時間、和真さえわからないまま心の奥にしまい込んでいた気持ちは。酷く激しくて、黒く濁っているようでもあり、また限りなく透明でもある。

「だから、だから、ずっと、俺、俺、隠して、……っ、でも、やっぱり無理で、つらくて、忘れようとしても、忘れらんなくて」

「うん」

「誰かと、仲良くしたって、その人も俺を捨てるんじゃないかって、思っちゃって。人を好きになるのも怖かった。好きになられるのも怖かった。だから、身体ばっかり、……でもなんも解決しなくて、どんどん寂しくなって、俺、俺……」

「うん、うん……」

 ゆっくりと背中を撫でられて。次第に気持ちが鎮まってくる。まるで引き潮で普段は海中に隠れている場所が見えてくるように、自分のぐちゃぐちゃの心が、そして考えが明らかになっていく。

 あの日。

 リンに振られて、廊下で泣いている、見ず知らずの自分を。

 無条件で部屋に入れて。慰め、励まし、受け入れてくれた薫。

 そんな彼だから、どこかで信じたのだ。

 この人なら、自分を受け入れて、捨てないでいてくれるかもしれない――。

「……っ、薫さん、薫さん……!」

「うん、大丈夫。ここにいるよ」

「うう、ぅ、う~~~~!」

 和真は、その声に。その優しさに安心しながら。

 しばらくの間、泣き続けた。まるで、これまでの全てを洗い流すように。




 ようやっと。ようやっと、許されたような気がした。


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