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第一話 ユンユンとトウマ
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トウマこと、時実燈真のこれまでは、少々不憫なものだったかもしれない。
それなりの家庭に生まれ落ちた彼の何が不憫だったかと言うと、その容姿だ。決して悪いわけではないのだけれど、彼は人生で一度たりとも運動部に所属したことが無いのに、妙に骨格が良くてなにかと誤解を受けた。おまけによくみれば優しいのだがぱっと見では眼光鋭い三白眼であり、髪も暗い灰色がかっていることから、真っ当な人間ではなさそうに思われた。勿論こちらも誤解であり、トウマは幼い頃より読書を好み猫を愛する文系男子。非行に走るどころか反抗期もほとんど来なかった、非常に大人しい善人だ。
ただ彼が、やはりその外見故に損をしてきたのは間違いない。子供の頃から実年齢よりかなり年を取って見られたし、買うべきものが見つからず店員に「すいません」と声をかけると身構えられる。母親について銀行に行ったら、何を勘違いしたか支店長が飛び出してきたこともある。おまけに大好きな猫にまで威嚇され逃げられ、これまでついぞ、猫を撫でる事さえできていなかったのだ。
そんな世間の冷たさに反して、トウマは心優しい男に育った。大型の動物ほど余裕の有る優しい性格になる……というのが、本質かどうかはわからない。ただ、彼は少ない理解者を大切に、静かに毎日を過ごしていたのだ。
とある土砂降りの雨の夜。一匹のずぶ濡れで震える子猫を、見つける日までは。
「ただいま、ユンユン」
知り合いには「まるでパンダみたいな名前」とからかわれたその名を呼び、トウマはリビングへ入ると荷物を置いた。春が迫り冬の寒さは和らいできたものの、彼はマフラーを解き、コートをハンガーにかけてブラシをかける作業をしなくてはいけなかった。外出先からリモートで暖房を入れた部屋は既に暖かいが、それでもまだ快適とは言い難いのだろう。ユンユンと名付けた猫は姿を見せなかった。
きっと部屋の隅に置いてある、デスク型コタツの中で丸くなっているのだろう。トウマはそう思ってひとまず買って来た食材を冷蔵庫にしまった。以前はデリバリーや通販に頼っていたのだけれど、少しぐらい外で運動をしなければ健康に悪いと家族に言われたので仕方なく買い出しに向かったのだ。トウマにしてみれば、この寒いのに外へ出る方がよほど健康に悪そうな気がしたが。
片付けを終え、温かい部屋着にも着替えると、飲み物を用意してコタツへと向かった。そっと布団を開いて覗き見ると、案の定、その暗がりにユンユンはいた。
足をしまい込む、いわゆる「香箱座り」をしてウトウトしている姿は猫そのものだ。ただその模様はまるで白猫が黒いヘルメットを被っているような奇妙なもので、お世辞にも一見愛くるしい猫には見えなかった。しかしよくよく観察すれば、宇宙のような深い青の瞳が美しく、猫としてとても整った顔立ちで、愛らしいというより妖艶な表情をしている。よく手入れをした毛並みはふわふわと柔らかく、彼はのんびりとコタツの温もりを堪能していた。
「ユンユン、ただいま。ちょっと失礼するけど許してくれ」
蹴ったりしないようにそっと足を入れて、椅子に腰かけると布団を元に戻す。ユンユンはそうしてコタツに侵入者が現れることを許してくれた。さてさて、とノートパソコンを起動する。書きかけの原稿を仕上げていかなければ。
カタカタとキーボードを叩き始めると、足元で温かい存在がのそりと動き始めた気配がした。ややして、椅子の上に乗り上げてきたソレは、とても大きな猫だった。いや、猫と言っていいのだろうか。それはもはや中型犬サイズの猫型生物と言っても過言ではほどの巨体だ。しかしトウマは実物の猫を飼うのが初めてで、ユンユンを普通の猫だと思って疑わなかった。
「ユンユン、困る、画面が見えない、あう」
ゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄られると、画面は見えないし、椅子は軋む。温かくふわふわした身体にすり寄られると、しかしとても幸福感を覚えて、トウマは「いい子いい子」とキーボードから手を離して、その背を撫でずにはいられないのだった。
ユンユンと出会ったのはとある土砂降りの雨の夜だった。
真冬のわりに雪ではなく雨が降ったから、余計に凍えるようだった。マフラーに厚手のコートでも誤魔化せない寒さに震えながら帰路を急いでいる時、道路を走り抜ける車の音を間を縫って、微かな声を聞いた。トウマが立ち止まって足元を見ると、生垣の付け根のくぼみにようやく収まって、あまり効果の無さそうな雨宿りをしている子猫を見つけた。
つぶらな青い瞳と目が合う。気付けばトウマはその子猫を抱きかかえたまま帰宅していた。
できる限りの暖房器具を稼働させ、温かいお湯で身体を洗ってやり、よくタオルで拭いた。毛布で包むと子猫の震えはようやく止まり、安心した頃にそのオス猫は「ナーン」と愛らしい声で鳴いた。
どこか懐かしいような、実に母性本能をくすぐられる声。トウマはその子猫を育てることを決意した。撫でると嬉しそうにすり寄って来るその命を、大切に守ろうと思ったのだ。
名前は、ユンユンだ。
何かにそう教えられたかのように、そう思った。
「ユンユン。お前の名前はユンユンだ。俺は今日から一緒に暮らすトウマ」
そう挨拶をして。わかるはずもない子猫が小首を傾げるのをぎゅっと抱きしめた。
実は、それがたった一ヶ月前のことである。
猫が好きだったが、威嚇され続けたために接する機会が無かったトウマ。猫を飼うこと自体も諦めて、彼はよく知らなかったのだ。一般的な猫がどのような生態なのか。
だから、手のひらに乗るような子猫が、僅か一か月で体重10キロもする巨体になったことにもあまり違和感を覚えなかった。強いて言えば、成長期なんだなあと思ったぐらいである。
そう、トウマは少々素直すぎるところがあった。
現在、トウマとユンユンは仲良く穏やかに暮らしている。
ユンユンは黒いヘルメットを被ったような見た目と、大きなブチが特徴的でお世辞にも可愛い猫とは言い難い。それでもとても甘えん坊で賢く、手もそれほどかからない彼を、トウマは心から愛していた。幼い頃から猫が好きで好きでたまらなかったのに、これまで一匹も撫でる事さえできていなかったのだから仕方ないだろう。
ユンユンはとても不思議で賢い猫だった。風呂は湯舟にゆったり浸かって満喫していたし、部屋を汚したり散らかしたり、その辺で爪を研いだりもしなかった。夜な夜な暴れもしない。ただトウマにとても甘えた。10キロの巨体が腹に乗り上げてくるのは中々衝撃的で、トウマは毎回うめき声を上げていたおかげで多少腹筋が付いた気がした。
とはいえ、トウマの毎日は満ち足りていた。大好きな猫を好きなだけ撫で、寝る時は一緒に布団に入って。起床時間には優しく鼻先でつつかれて起こしてくるのをあやした。たまに仕事を邪魔してきたりはしたものの、「ダメだ」と言えば大人しく布団やカーペットの上に丸まったり、椅子の上で大人しくしていたものだ。
トウマの生活はそうした風に穏やかに過ぎていた。ただ、妙なことも有るには有った。タンスの奥のほうに、あまり買った覚えの無い服が入っていたりしたのだ。一瞬首を傾げたけれど、まあ出不精で服をあまり着替えないから買ったことも忘れたのだろうとあまり気にしなかった。他にも、下駄箱に買った覚えの無い靴が、引き出しにアクセサリーやサングラスが、よくよく考えてみれば、ユンユンは猫用トイレをあまり使っていないようだったり――。
とにかく、気が付きそうな要素は沢山有った。有ったのだけれど、トウマはその全てを、「まあ、そんなことも有るだろう」とあまり気にかけなかった。
そう、彼はその厳つい見た目に反して少々、ポンコツだった。
それは晴れ渡っているのに月の見えない、酷く暗い夜のことだった。都会は街頭や店の看板の灯りに満たされ、道路は走り抜ける車に照らし出される。文明の無い頃であれば、きっと周りも見えないほどだろうなぁ、とトウマはベランダからぼんやり空を見上げて想像した。ただそれも一瞬のことで、すぐに取り込み忘れていた洗濯物を籠に押し込むと、部屋の中に戻る。窓とカーテンを閉めれば、トウマの世界は明るく温かいワンルームに包まれた。
洗濯ものを畳んでいる間も、それをタンスにしまっている時も、ユンユンはベッドの上で丸くなり、気持ちよさそうに眠っていた。猫とは、そこにいるだけで愛おしく、癒しを与え、幸福を振りまく偉大な存在だ。トウマはそんなことを考えながら、パジャマに着替えるとユンユンの眠るベッドに潜り、自分も睡眠をとることにした。
なぁん、と甘えた声を出して、ユンユンがすり寄って来る。それを優しく撫でて、トウマは目を閉じた。
いつも通り。それはそれは、いつも通りの夜だった。
「…………ん……?」
夜中、ふいに何かの気配を感じて目を覚ます。仰向けになったままボンヤリ目を開くと、うっすら影が自分に覆い被さっているのが見えた。
常夜灯に照らされるそれは、明らかに人間の姿だ。しかも、かなり大きい。トウマはヒュッと息を呑んで固まってしまった。心霊現象、金縛り、地縛霊、祟りに呪い、その他諸々のホラー用語。思考が駆け抜ける中、トウマは次第に目が慣れて気が付いた。白いおかっぱのような髪を揺らすそれが、真っ裸であることを。
――普通、幽霊って素っ裸か?
トウマはそう考えて、目の前のソレが怪奇な現象ではなく怪奇な人間なのではないかと思い至った。瞬間、トウマはいつも自分のそばで眠っているハズのユンユンを探した。トウマが最初に取った行動は、飼い猫を守ろうとするものだったのだ。ところが、ベッドの上にその姿が無い。
「――⁉ ユンユン⁉」
トウマは布団を跳ね上げて、目の前の人物の視界を塞いだ。その間にベッドから転げ出て、暗い室内を見回す。ユンユンの身体は白い部分が多い。それに猫の瞳は暗くても光って見える。なんとかユンユンを探して部屋から逃げ出さなければ、ああでもどうしたら、通報もしないと、けれどユンユンを外に連れ出して、そのまま何かの拍子に脱走されたりしたら――。
その時、トウマの横からその人物が飛びかかって来た。床に押し倒され、トウマは思わずギュッと目を閉じる。暴力を振われると思ったけれど、生まれてこの方平穏に、そして温厚に暮らしてきた彼は、暴漢に立ち向かう手段も考えも持ち合わせていなかったのだ。せめて猫に危害が及ばなければ、と考えながら身を守っていると、ソレは低い声で囁いた。
「ご主人サマ」
「ひっ……?」
男の声だ。トウマは彼が何もしてこないことを不思議に思って、目を開く。僅かな灯りに浮かび上がった彼は、白いおかっぱのような髪をしているが、よくよく見れば後頭部のほうは黒い色に染まっているようだ。切れ長で睫の長い眼は、青く僅かに光っている。妖艶に微笑むその表情は、恐らく美形の類なのだろうと思う。ただ、その身体はトウマよりもずっと大きい上に全裸。
「怖がらないで、ご主人サマ」
「ご、ご主人、さま……?」
トウマは察しかけていた。しかしそんなことが有ったりするだろうか。グルグルと思考が回って混乱している彼の頬を、その男は優しく手のひらで包む。
「ユンユンなら、ここにいるアルよ」
「な、なに、」
「ワタクシが、アナタの、ユンユン」
驚かせてしまったアル、ゴメンネ。何故か中国人訛りのような言葉遣いで、その男は言った。
「……はあ⁉」
トウマは、これまでの人生で恐らく一番の声量で叫んだ。
それなりの家庭に生まれ落ちた彼の何が不憫だったかと言うと、その容姿だ。決して悪いわけではないのだけれど、彼は人生で一度たりとも運動部に所属したことが無いのに、妙に骨格が良くてなにかと誤解を受けた。おまけによくみれば優しいのだがぱっと見では眼光鋭い三白眼であり、髪も暗い灰色がかっていることから、真っ当な人間ではなさそうに思われた。勿論こちらも誤解であり、トウマは幼い頃より読書を好み猫を愛する文系男子。非行に走るどころか反抗期もほとんど来なかった、非常に大人しい善人だ。
ただ彼が、やはりその外見故に損をしてきたのは間違いない。子供の頃から実年齢よりかなり年を取って見られたし、買うべきものが見つからず店員に「すいません」と声をかけると身構えられる。母親について銀行に行ったら、何を勘違いしたか支店長が飛び出してきたこともある。おまけに大好きな猫にまで威嚇され逃げられ、これまでついぞ、猫を撫でる事さえできていなかったのだ。
そんな世間の冷たさに反して、トウマは心優しい男に育った。大型の動物ほど余裕の有る優しい性格になる……というのが、本質かどうかはわからない。ただ、彼は少ない理解者を大切に、静かに毎日を過ごしていたのだ。
とある土砂降りの雨の夜。一匹のずぶ濡れで震える子猫を、見つける日までは。
「ただいま、ユンユン」
知り合いには「まるでパンダみたいな名前」とからかわれたその名を呼び、トウマはリビングへ入ると荷物を置いた。春が迫り冬の寒さは和らいできたものの、彼はマフラーを解き、コートをハンガーにかけてブラシをかける作業をしなくてはいけなかった。外出先からリモートで暖房を入れた部屋は既に暖かいが、それでもまだ快適とは言い難いのだろう。ユンユンと名付けた猫は姿を見せなかった。
きっと部屋の隅に置いてある、デスク型コタツの中で丸くなっているのだろう。トウマはそう思ってひとまず買って来た食材を冷蔵庫にしまった。以前はデリバリーや通販に頼っていたのだけれど、少しぐらい外で運動をしなければ健康に悪いと家族に言われたので仕方なく買い出しに向かったのだ。トウマにしてみれば、この寒いのに外へ出る方がよほど健康に悪そうな気がしたが。
片付けを終え、温かい部屋着にも着替えると、飲み物を用意してコタツへと向かった。そっと布団を開いて覗き見ると、案の定、その暗がりにユンユンはいた。
足をしまい込む、いわゆる「香箱座り」をしてウトウトしている姿は猫そのものだ。ただその模様はまるで白猫が黒いヘルメットを被っているような奇妙なもので、お世辞にも一見愛くるしい猫には見えなかった。しかしよくよく観察すれば、宇宙のような深い青の瞳が美しく、猫としてとても整った顔立ちで、愛らしいというより妖艶な表情をしている。よく手入れをした毛並みはふわふわと柔らかく、彼はのんびりとコタツの温もりを堪能していた。
「ユンユン、ただいま。ちょっと失礼するけど許してくれ」
蹴ったりしないようにそっと足を入れて、椅子に腰かけると布団を元に戻す。ユンユンはそうしてコタツに侵入者が現れることを許してくれた。さてさて、とノートパソコンを起動する。書きかけの原稿を仕上げていかなければ。
カタカタとキーボードを叩き始めると、足元で温かい存在がのそりと動き始めた気配がした。ややして、椅子の上に乗り上げてきたソレは、とても大きな猫だった。いや、猫と言っていいのだろうか。それはもはや中型犬サイズの猫型生物と言っても過言ではほどの巨体だ。しかしトウマは実物の猫を飼うのが初めてで、ユンユンを普通の猫だと思って疑わなかった。
「ユンユン、困る、画面が見えない、あう」
ゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄られると、画面は見えないし、椅子は軋む。温かくふわふわした身体にすり寄られると、しかしとても幸福感を覚えて、トウマは「いい子いい子」とキーボードから手を離して、その背を撫でずにはいられないのだった。
ユンユンと出会ったのはとある土砂降りの雨の夜だった。
真冬のわりに雪ではなく雨が降ったから、余計に凍えるようだった。マフラーに厚手のコートでも誤魔化せない寒さに震えながら帰路を急いでいる時、道路を走り抜ける車の音を間を縫って、微かな声を聞いた。トウマが立ち止まって足元を見ると、生垣の付け根のくぼみにようやく収まって、あまり効果の無さそうな雨宿りをしている子猫を見つけた。
つぶらな青い瞳と目が合う。気付けばトウマはその子猫を抱きかかえたまま帰宅していた。
できる限りの暖房器具を稼働させ、温かいお湯で身体を洗ってやり、よくタオルで拭いた。毛布で包むと子猫の震えはようやく止まり、安心した頃にそのオス猫は「ナーン」と愛らしい声で鳴いた。
どこか懐かしいような、実に母性本能をくすぐられる声。トウマはその子猫を育てることを決意した。撫でると嬉しそうにすり寄って来るその命を、大切に守ろうと思ったのだ。
名前は、ユンユンだ。
何かにそう教えられたかのように、そう思った。
「ユンユン。お前の名前はユンユンだ。俺は今日から一緒に暮らすトウマ」
そう挨拶をして。わかるはずもない子猫が小首を傾げるのをぎゅっと抱きしめた。
実は、それがたった一ヶ月前のことである。
猫が好きだったが、威嚇され続けたために接する機会が無かったトウマ。猫を飼うこと自体も諦めて、彼はよく知らなかったのだ。一般的な猫がどのような生態なのか。
だから、手のひらに乗るような子猫が、僅か一か月で体重10キロもする巨体になったことにもあまり違和感を覚えなかった。強いて言えば、成長期なんだなあと思ったぐらいである。
そう、トウマは少々素直すぎるところがあった。
現在、トウマとユンユンは仲良く穏やかに暮らしている。
ユンユンは黒いヘルメットを被ったような見た目と、大きなブチが特徴的でお世辞にも可愛い猫とは言い難い。それでもとても甘えん坊で賢く、手もそれほどかからない彼を、トウマは心から愛していた。幼い頃から猫が好きで好きでたまらなかったのに、これまで一匹も撫でる事さえできていなかったのだから仕方ないだろう。
ユンユンはとても不思議で賢い猫だった。風呂は湯舟にゆったり浸かって満喫していたし、部屋を汚したり散らかしたり、その辺で爪を研いだりもしなかった。夜な夜な暴れもしない。ただトウマにとても甘えた。10キロの巨体が腹に乗り上げてくるのは中々衝撃的で、トウマは毎回うめき声を上げていたおかげで多少腹筋が付いた気がした。
とはいえ、トウマの毎日は満ち足りていた。大好きな猫を好きなだけ撫で、寝る時は一緒に布団に入って。起床時間には優しく鼻先でつつかれて起こしてくるのをあやした。たまに仕事を邪魔してきたりはしたものの、「ダメだ」と言えば大人しく布団やカーペットの上に丸まったり、椅子の上で大人しくしていたものだ。
トウマの生活はそうした風に穏やかに過ぎていた。ただ、妙なことも有るには有った。タンスの奥のほうに、あまり買った覚えの無い服が入っていたりしたのだ。一瞬首を傾げたけれど、まあ出不精で服をあまり着替えないから買ったことも忘れたのだろうとあまり気にしなかった。他にも、下駄箱に買った覚えの無い靴が、引き出しにアクセサリーやサングラスが、よくよく考えてみれば、ユンユンは猫用トイレをあまり使っていないようだったり――。
とにかく、気が付きそうな要素は沢山有った。有ったのだけれど、トウマはその全てを、「まあ、そんなことも有るだろう」とあまり気にかけなかった。
そう、彼はその厳つい見た目に反して少々、ポンコツだった。
それは晴れ渡っているのに月の見えない、酷く暗い夜のことだった。都会は街頭や店の看板の灯りに満たされ、道路は走り抜ける車に照らし出される。文明の無い頃であれば、きっと周りも見えないほどだろうなぁ、とトウマはベランダからぼんやり空を見上げて想像した。ただそれも一瞬のことで、すぐに取り込み忘れていた洗濯物を籠に押し込むと、部屋の中に戻る。窓とカーテンを閉めれば、トウマの世界は明るく温かいワンルームに包まれた。
洗濯ものを畳んでいる間も、それをタンスにしまっている時も、ユンユンはベッドの上で丸くなり、気持ちよさそうに眠っていた。猫とは、そこにいるだけで愛おしく、癒しを与え、幸福を振りまく偉大な存在だ。トウマはそんなことを考えながら、パジャマに着替えるとユンユンの眠るベッドに潜り、自分も睡眠をとることにした。
なぁん、と甘えた声を出して、ユンユンがすり寄って来る。それを優しく撫でて、トウマは目を閉じた。
いつも通り。それはそれは、いつも通りの夜だった。
「…………ん……?」
夜中、ふいに何かの気配を感じて目を覚ます。仰向けになったままボンヤリ目を開くと、うっすら影が自分に覆い被さっているのが見えた。
常夜灯に照らされるそれは、明らかに人間の姿だ。しかも、かなり大きい。トウマはヒュッと息を呑んで固まってしまった。心霊現象、金縛り、地縛霊、祟りに呪い、その他諸々のホラー用語。思考が駆け抜ける中、トウマは次第に目が慣れて気が付いた。白いおかっぱのような髪を揺らすそれが、真っ裸であることを。
――普通、幽霊って素っ裸か?
トウマはそう考えて、目の前のソレが怪奇な現象ではなく怪奇な人間なのではないかと思い至った。瞬間、トウマはいつも自分のそばで眠っているハズのユンユンを探した。トウマが最初に取った行動は、飼い猫を守ろうとするものだったのだ。ところが、ベッドの上にその姿が無い。
「――⁉ ユンユン⁉」
トウマは布団を跳ね上げて、目の前の人物の視界を塞いだ。その間にベッドから転げ出て、暗い室内を見回す。ユンユンの身体は白い部分が多い。それに猫の瞳は暗くても光って見える。なんとかユンユンを探して部屋から逃げ出さなければ、ああでもどうしたら、通報もしないと、けれどユンユンを外に連れ出して、そのまま何かの拍子に脱走されたりしたら――。
その時、トウマの横からその人物が飛びかかって来た。床に押し倒され、トウマは思わずギュッと目を閉じる。暴力を振われると思ったけれど、生まれてこの方平穏に、そして温厚に暮らしてきた彼は、暴漢に立ち向かう手段も考えも持ち合わせていなかったのだ。せめて猫に危害が及ばなければ、と考えながら身を守っていると、ソレは低い声で囁いた。
「ご主人サマ」
「ひっ……?」
男の声だ。トウマは彼が何もしてこないことを不思議に思って、目を開く。僅かな灯りに浮かび上がった彼は、白いおかっぱのような髪をしているが、よくよく見れば後頭部のほうは黒い色に染まっているようだ。切れ長で睫の長い眼は、青く僅かに光っている。妖艶に微笑むその表情は、恐らく美形の類なのだろうと思う。ただ、その身体はトウマよりもずっと大きい上に全裸。
「怖がらないで、ご主人サマ」
「ご、ご主人、さま……?」
トウマは察しかけていた。しかしそんなことが有ったりするだろうか。グルグルと思考が回って混乱している彼の頬を、その男は優しく手のひらで包む。
「ユンユンなら、ここにいるアルよ」
「な、なに、」
「ワタクシが、アナタの、ユンユン」
驚かせてしまったアル、ゴメンネ。何故か中国人訛りのような言葉遣いで、その男は言った。
「……はあ⁉」
トウマは、これまでの人生で恐らく一番の声量で叫んだ。
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