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SNS依存症タイプ
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SNS依存症かもしれない。が、SNSをやめる理由があれば簡単にやめそうな気もする。私にとってSNSは、「結果の出ていない仕事」みたいなもののはずなのだ。
みんな忙しい。お客様に見える人も大抵お店屋さんだ。みんな好みがある。私のお店の前でそう簡単に足を止めてはくれないし、足を止めてくれたとしても、最前列のイチオシ棚にのみ反応して帰る人が多い。店仕舞してしまった方が楽だろうか。
そんなとき、足を止めて構ってくれる人が現れると、嬉しくて嬉しくて、変に期待をしてしまう。
分かってる。「お客様が商品を見てくれている」、ただそれだけだ。それだけのことが、滅多にないから舞い上がってしまう。
*
宮沢賢治の特集番組で「銀河鉄道の夜」の一部を見た。
銀河鉄道の夜を、昔読み、中学生くらいの頃にも読み返したが……。人間の心理がよく分かっていない私には難解で、登場人物への共感はあまりできなかった。ただ「幻想的で非日常感がある」、それだけを味わっていた。
別に銀河鉄道の夜に限ったことではなく、恋愛マンガを見ても「私には気持ちが分からんなぁ」となるし、映画の登場人物たちの言動の意味も、ほぼ分からない。自分のぼやけたフィルターを通して世界観を楽しんでいるだけで、「私だったらそんな行動はしない」ということだらけなのだが。
蠍の話を改めてテレビで見て、急にゾクッときた。よだかの星の雰囲気もあるような。引き込まれそうな引力があるような。
*
銀河鉄道の夜をまた読み返したいと思ったが、読んでいない。以前プラネタリウムで「星の王子さま」の番組を見て、星の王子さまも読み返したいと思ったが、読んでいない。
以前より私は、人間に近づいているかもしれない。以前より人の心理が分かる可能性がある。読み返したときは、何か分かるだろうか。分かる必要があるだろうか。
とある作品の、恋愛感情のような、友愛のような、家族愛のような、「愛情の芽生え」を感じるシーンに号泣した。
人は親子愛だの兄弟愛だの、愛を分類し名付けるが、元々人類愛に感情の区別などないのかもしれない。
人間になることで失うものもある。一度「オトナ」になってしまうと、もう戻れないかもしれない。
良くも悪くも……。幸か不幸か……。私はどうも無意識に、人間になろうとしてしまっていた。それで少し、人間になってしまった。人間の気持ちが「分からない」不安に耐えきれなかったのだ。
*
私のお店を訪れる人々は、他の店の人たちだ。私は基本的に、この人たちの最前列のイチオシ棚しか見ない。
私は自分のイチオシ棚の奥まで見に来てほしい。たとえば短編小説「悪魔」「からくりの鼻唄」「月色の夏」……順番に短編小説を読んでいくと、なにか一連の流れや、時代、作品の魂みたいなものを感じてくれるかもしれない。
もしかしたら、この子が生まれ変わってあの子になったのかもしれない、とか。次生まれるときこの子は、新たな感情を理解できるようになっているかもしれない、とか。
キャラクターたちに一緒に寄り添ってほしい。愛でてほしい。
けれど私ほど作品に思い入れを持って見てくれる人はいないだろう。そう思うと徐々に投げやりになってきて、最近では自分の書くキャラクターの心理もよく分からなくなった。
私の真心を作品に乗せても人には喜ばれないようだし、別に真心でなくてもそれなりに需要を満たしていて面白ければ、アクセスも増え、楽しんでもらえるだろう。
作者にも誰にも愛されず記憶に残らない作品があるとしたら、キャラクターが可哀想だけど。
*
私はみんなのイチオシ棚しか見ない。いや、イチオシ棚にさえ目を通せない。
すべての店を奥底まで覗いている時間がない。そして、「この人ばかり見に行き、あの人のところには行かない」……などという動きをしたら、感じが悪そうだ。なら「浅く広く」がいい。
でも私は本来、深く狭くだと思う。好きになった作品を手元に置き、何度でも開く。新しいものを見続けることに、他の人ほど関心がないのかもしれない。流行りのものを多く追おうとも、話題を合わせたいとも思わないし(そもそも喋る相手がいないからか)、やや閉塞的に、好きなものにくっついていたい。ずっとお気に入りのページを眺めていたいような。
作者を追おうとはあまりしない。「狸あるいは虫しか描かない」など、専門性や一貫した雰囲気、テーマのようなものがある場合、作者そのものに興味を持つ可能性もあるけど。基本的に作者を追いはしない。
宮沢賢治や宮崎駿監督など、追いかけることで何かを得られそうな人ならば、追いかけたくなる可能性はあるかもしれない。作者の精神性に惹かれるような。
宮沢賢治や宮崎駿監督を追い、関連作品を見漁り、「この人はこうかもしれない」などと語ったところで、彼らと目が合うことはない。だからこそ、好き放題追える。
それがSNSではそうではない。話しかければ答えてくれる位置に相手がいる……だから作品に集中できないのか。
広く浅く見ていたら、物覚えの悪い私は、作者の精神性どころではない。誰が何を書いていたか、あの話は誰がしていたんだったか、混同する始末だ。「どこかで誰かがこんなことを言っていたような」程度にしか覚えていない。誰のことも、ハッキリ記憶していないかもしれない。
しかし、私の一見不揃いで数少ない作品の中にも、共通した作風というか、作者の魂みたいなものがあるかもしれない。たとえどこかから盗んできたような素材をツギハギにしていたとしても、どこか……。
そして私の作品がそうであるように、他の作者様の作品も……。ただ多くの人の最新話をかじって回るだけでは、私はあまり読み取れない。
一つの建物に5分しかいなければ、記憶にも残らない。あっちを見、こっちを見、くるくる回っていれば発見がある。何かに気づける気がする。彷彿とさせる……リンクする……今までにその人が語ったこと、作ったもののすべてと。作品としての一つの完成度を愛したいが、それは「始まり」から「終わり」までで完全に閉じられているわけではなく、作者のすべて、作者に影響を与えたすべてと繋がっているのだ。
だから私は、目まぐるしくSNSなどを追っているだけでは、ほぼ何も得られないかもしれない。
作品を神格化させるのは、集中して追ったファンたちだろう。魅力を見つけ、発信する。作者は作品で語りきり、追うものがそれを察し、拾い、磨く。
忙しい。疲れた。自分のを書きたい。読み返したい。
作品にコメントをもらうと嬉しくて、自作品を読み返したりする。ここまで何度もこの作品を開いたのは私だけだろう。私以上に思い入れを持つ人はいないだろう。仕方がない。
*
以前は「キャラクター」に感情移入しようとした。感情移入はできなくても、主人公をプレイヤーのように見るか、お気に入りのキャラクターを面白がっていた。
今は作者の意図が気になる。
なぜそんなことを言う? なぜ一点の曇りを残して終わる? なぜここを片付けない?
第一印象があまり良くなかった作品でも、2回、3回とリピートすると、何か魅力を感じ始める。「こうだからこうだったのか」と。何も答えは得られない、返ってこないとしても、客として何かを得られればいい。そうしているうちに好きになる。
作者の意図を汲もうとはしても、作者のことは別に知ろうと思わない。作品が現実のようになり、作者の方が薄れ、架空の存在のようになる。それで良かった。見る側としては。
それが、作者と繋がりを持ってしまうと、関係性が発生する。
縁もゆかりもなければ良いのだ。接点など何もない。生きた時代さえ違う。それで良いのに、繋がることのできる作者からは息遣いを感じる。結果が出ないことに少し疲れた様子に共感したり、エネルギーに圧倒されたり、リアルタイムでコメントが届いたり。そうすると感情的になり過ぎてしまう。好きになってしまう。
好きってのは、「すべて大好き」だけではないと思う。何のわだかまりもなくすべて大好きなんて、この地球上であり得るのだろうか。
親に愛されたい。妹の方が私よりしっかりしている。後輩さんがすごい。まわりのクリエイターのみんながすごい。クラスメートが楽しそうに喋り合っているのを眺めるのが好きだ。誰かが誰かの話をしている。温かいことだと思う。
けれど何か、なぜだか、切ない気持ちになる。
私に友達ができたとして、友達は私の作品を愛してくれるか? というと、その可能性は低いと思う。私は絵も文章も写真も下手で、世界にはもっと素晴らしい、完成度の高いものがいっぱいあるから。
私の作品を見てもらうことが望みでも、友達は私の作品を見ないかもしれない。私と話したがるだけかもしれない。
*
整理のついていない感情を、ぐいぐい引っ張る。湖底のゴミに引っかかった釣り針。それと私を繋ぐ、釣り糸。
作品への思いと、作者への思い。それらは綺麗に折り合いがつくものではないのか。何やら糸がゴチャゴチャと絡まり始める。
「私を見てほしい」と「作品を見てほしい」
「作品を楽しみたい」と「作者が気になる」
同じ方向性のようで、やや違う……いや、だいぶ別物かもしれない。どこか噛み合わず、矛盾する。だからこうもこんがらがるのだ。
*
本能から逃れられなかった。汚らわしいと、一時は憎んだそれ。今でも私の恐怖の根元であるもの。しかし私はその種から発生し、肺や心臓を持ち、脳に意識の大部分があるらしい。
腹が減ること、トイレに行きたいこと、発情してしまうこと、すべて私の意思ではないはずなのだが、そうなると、私の意思などどこにもないのではないかと思えてくる。
「両想いでハッピーです」と言われても、「だから何だ」となる。両想いなどという世界を私は知らない。
片思いの芽生え。自分でも把握不可能な、得体の知れない感情の揺れ。それを本人もよく分かっていない。そんな切ない片思いの物語が、少し分かるようになった。これだってこの間まで私にとって「だから何だ」の範囲だったのに。
こんなにも遠いのに、それでも私にとって近すぎたのだ。人間が。
*
理解しようとすることは可能。理解すれば夢は覚めるはず。ところが夢が覚めるのを嫌がってか、正しく理解しようとしない。頑なにファンタジーの世界を信じて、浮ついたことを言い、現実を理解しようとしないように。
作品を「理解」などしなくても、なんとなく好きでいられるのだから、作品を愛せばいいのだ。
作品を愛されれば金が入る。生きてゆける。そんなことのために愛する作品を差し出すのか? と問われれば、それも答えに詰まるような。
すべて矛盾。すべて謎。人の心など奥深くて、追えば疲れる。把握可能な自分の作品の世界にでも埋もれて、めり込んでいきたい。そうでもないとどうにも心狂わされる……それも、現実などではなく幻想に。
腹が減る、心臓が動く、血が流れる、そして交尾。こんなこと誰が決めたんだ?
私は知らない。関与していない。が、作品の世界も無縁ではなく、獣臭がする。この獣臭を好んで人は作品を求めるのか。
私は元々、作品上の獣臭が好きではなかった。動物園の臭いは好きだけど。なぜ作品でまで、恋だの愛だの汚い話をしなければならないのか。息抜きなのに息が詰まりそうだと、嫌悪していた。
が、今は別の意味で、いずれにせよ息が詰まる。
作品を好きになるべきであって、作者を好きになってはならないのだ。
作品を見られたいと望むべきであって、私を見てほしいと履き違えてはならないのだ。
*
絡んでゆく。ほどけない。今はどうしようもない。
時が経てば肉体も朽ち果てて、自然に枯れるだろう。移ろいゆくこの思いが、ただの肉体から発される本能、それ以外は個体差であり、それを自分と呼ぶのか、自分と呼ぶに値しないのか、もはや分からない。
みんな忙しい。お客様に見える人も大抵お店屋さんだ。みんな好みがある。私のお店の前でそう簡単に足を止めてはくれないし、足を止めてくれたとしても、最前列のイチオシ棚にのみ反応して帰る人が多い。店仕舞してしまった方が楽だろうか。
そんなとき、足を止めて構ってくれる人が現れると、嬉しくて嬉しくて、変に期待をしてしまう。
分かってる。「お客様が商品を見てくれている」、ただそれだけだ。それだけのことが、滅多にないから舞い上がってしまう。
*
宮沢賢治の特集番組で「銀河鉄道の夜」の一部を見た。
銀河鉄道の夜を、昔読み、中学生くらいの頃にも読み返したが……。人間の心理がよく分かっていない私には難解で、登場人物への共感はあまりできなかった。ただ「幻想的で非日常感がある」、それだけを味わっていた。
別に銀河鉄道の夜に限ったことではなく、恋愛マンガを見ても「私には気持ちが分からんなぁ」となるし、映画の登場人物たちの言動の意味も、ほぼ分からない。自分のぼやけたフィルターを通して世界観を楽しんでいるだけで、「私だったらそんな行動はしない」ということだらけなのだが。
蠍の話を改めてテレビで見て、急にゾクッときた。よだかの星の雰囲気もあるような。引き込まれそうな引力があるような。
*
銀河鉄道の夜をまた読み返したいと思ったが、読んでいない。以前プラネタリウムで「星の王子さま」の番組を見て、星の王子さまも読み返したいと思ったが、読んでいない。
以前より私は、人間に近づいているかもしれない。以前より人の心理が分かる可能性がある。読み返したときは、何か分かるだろうか。分かる必要があるだろうか。
とある作品の、恋愛感情のような、友愛のような、家族愛のような、「愛情の芽生え」を感じるシーンに号泣した。
人は親子愛だの兄弟愛だの、愛を分類し名付けるが、元々人類愛に感情の区別などないのかもしれない。
人間になることで失うものもある。一度「オトナ」になってしまうと、もう戻れないかもしれない。
良くも悪くも……。幸か不幸か……。私はどうも無意識に、人間になろうとしてしまっていた。それで少し、人間になってしまった。人間の気持ちが「分からない」不安に耐えきれなかったのだ。
*
私のお店を訪れる人々は、他の店の人たちだ。私は基本的に、この人たちの最前列のイチオシ棚しか見ない。
私は自分のイチオシ棚の奥まで見に来てほしい。たとえば短編小説「悪魔」「からくりの鼻唄」「月色の夏」……順番に短編小説を読んでいくと、なにか一連の流れや、時代、作品の魂みたいなものを感じてくれるかもしれない。
もしかしたら、この子が生まれ変わってあの子になったのかもしれない、とか。次生まれるときこの子は、新たな感情を理解できるようになっているかもしれない、とか。
キャラクターたちに一緒に寄り添ってほしい。愛でてほしい。
けれど私ほど作品に思い入れを持って見てくれる人はいないだろう。そう思うと徐々に投げやりになってきて、最近では自分の書くキャラクターの心理もよく分からなくなった。
私の真心を作品に乗せても人には喜ばれないようだし、別に真心でなくてもそれなりに需要を満たしていて面白ければ、アクセスも増え、楽しんでもらえるだろう。
作者にも誰にも愛されず記憶に残らない作品があるとしたら、キャラクターが可哀想だけど。
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私はみんなのイチオシ棚しか見ない。いや、イチオシ棚にさえ目を通せない。
すべての店を奥底まで覗いている時間がない。そして、「この人ばかり見に行き、あの人のところには行かない」……などという動きをしたら、感じが悪そうだ。なら「浅く広く」がいい。
でも私は本来、深く狭くだと思う。好きになった作品を手元に置き、何度でも開く。新しいものを見続けることに、他の人ほど関心がないのかもしれない。流行りのものを多く追おうとも、話題を合わせたいとも思わないし(そもそも喋る相手がいないからか)、やや閉塞的に、好きなものにくっついていたい。ずっとお気に入りのページを眺めていたいような。
作者を追おうとはあまりしない。「狸あるいは虫しか描かない」など、専門性や一貫した雰囲気、テーマのようなものがある場合、作者そのものに興味を持つ可能性もあるけど。基本的に作者を追いはしない。
宮沢賢治や宮崎駿監督など、追いかけることで何かを得られそうな人ならば、追いかけたくなる可能性はあるかもしれない。作者の精神性に惹かれるような。
宮沢賢治や宮崎駿監督を追い、関連作品を見漁り、「この人はこうかもしれない」などと語ったところで、彼らと目が合うことはない。だからこそ、好き放題追える。
それがSNSではそうではない。話しかければ答えてくれる位置に相手がいる……だから作品に集中できないのか。
広く浅く見ていたら、物覚えの悪い私は、作者の精神性どころではない。誰が何を書いていたか、あの話は誰がしていたんだったか、混同する始末だ。「どこかで誰かがこんなことを言っていたような」程度にしか覚えていない。誰のことも、ハッキリ記憶していないかもしれない。
しかし、私の一見不揃いで数少ない作品の中にも、共通した作風というか、作者の魂みたいなものがあるかもしれない。たとえどこかから盗んできたような素材をツギハギにしていたとしても、どこか……。
そして私の作品がそうであるように、他の作者様の作品も……。ただ多くの人の最新話をかじって回るだけでは、私はあまり読み取れない。
一つの建物に5分しかいなければ、記憶にも残らない。あっちを見、こっちを見、くるくる回っていれば発見がある。何かに気づける気がする。彷彿とさせる……リンクする……今までにその人が語ったこと、作ったもののすべてと。作品としての一つの完成度を愛したいが、それは「始まり」から「終わり」までで完全に閉じられているわけではなく、作者のすべて、作者に影響を与えたすべてと繋がっているのだ。
だから私は、目まぐるしくSNSなどを追っているだけでは、ほぼ何も得られないかもしれない。
作品を神格化させるのは、集中して追ったファンたちだろう。魅力を見つけ、発信する。作者は作品で語りきり、追うものがそれを察し、拾い、磨く。
忙しい。疲れた。自分のを書きたい。読み返したい。
作品にコメントをもらうと嬉しくて、自作品を読み返したりする。ここまで何度もこの作品を開いたのは私だけだろう。私以上に思い入れを持つ人はいないだろう。仕方がない。
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以前は「キャラクター」に感情移入しようとした。感情移入はできなくても、主人公をプレイヤーのように見るか、お気に入りのキャラクターを面白がっていた。
今は作者の意図が気になる。
なぜそんなことを言う? なぜ一点の曇りを残して終わる? なぜここを片付けない?
第一印象があまり良くなかった作品でも、2回、3回とリピートすると、何か魅力を感じ始める。「こうだからこうだったのか」と。何も答えは得られない、返ってこないとしても、客として何かを得られればいい。そうしているうちに好きになる。
作者の意図を汲もうとはしても、作者のことは別に知ろうと思わない。作品が現実のようになり、作者の方が薄れ、架空の存在のようになる。それで良かった。見る側としては。
それが、作者と繋がりを持ってしまうと、関係性が発生する。
縁もゆかりもなければ良いのだ。接点など何もない。生きた時代さえ違う。それで良いのに、繋がることのできる作者からは息遣いを感じる。結果が出ないことに少し疲れた様子に共感したり、エネルギーに圧倒されたり、リアルタイムでコメントが届いたり。そうすると感情的になり過ぎてしまう。好きになってしまう。
好きってのは、「すべて大好き」だけではないと思う。何のわだかまりもなくすべて大好きなんて、この地球上であり得るのだろうか。
親に愛されたい。妹の方が私よりしっかりしている。後輩さんがすごい。まわりのクリエイターのみんながすごい。クラスメートが楽しそうに喋り合っているのを眺めるのが好きだ。誰かが誰かの話をしている。温かいことだと思う。
けれど何か、なぜだか、切ない気持ちになる。
私に友達ができたとして、友達は私の作品を愛してくれるか? というと、その可能性は低いと思う。私は絵も文章も写真も下手で、世界にはもっと素晴らしい、完成度の高いものがいっぱいあるから。
私の作品を見てもらうことが望みでも、友達は私の作品を見ないかもしれない。私と話したがるだけかもしれない。
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整理のついていない感情を、ぐいぐい引っ張る。湖底のゴミに引っかかった釣り針。それと私を繋ぐ、釣り糸。
作品への思いと、作者への思い。それらは綺麗に折り合いがつくものではないのか。何やら糸がゴチャゴチャと絡まり始める。
「私を見てほしい」と「作品を見てほしい」
「作品を楽しみたい」と「作者が気になる」
同じ方向性のようで、やや違う……いや、だいぶ別物かもしれない。どこか噛み合わず、矛盾する。だからこうもこんがらがるのだ。
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本能から逃れられなかった。汚らわしいと、一時は憎んだそれ。今でも私の恐怖の根元であるもの。しかし私はその種から発生し、肺や心臓を持ち、脳に意識の大部分があるらしい。
腹が減ること、トイレに行きたいこと、発情してしまうこと、すべて私の意思ではないはずなのだが、そうなると、私の意思などどこにもないのではないかと思えてくる。
「両想いでハッピーです」と言われても、「だから何だ」となる。両想いなどという世界を私は知らない。
片思いの芽生え。自分でも把握不可能な、得体の知れない感情の揺れ。それを本人もよく分かっていない。そんな切ない片思いの物語が、少し分かるようになった。これだってこの間まで私にとって「だから何だ」の範囲だったのに。
こんなにも遠いのに、それでも私にとって近すぎたのだ。人間が。
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理解しようとすることは可能。理解すれば夢は覚めるはず。ところが夢が覚めるのを嫌がってか、正しく理解しようとしない。頑なにファンタジーの世界を信じて、浮ついたことを言い、現実を理解しようとしないように。
作品を「理解」などしなくても、なんとなく好きでいられるのだから、作品を愛せばいいのだ。
作品を愛されれば金が入る。生きてゆける。そんなことのために愛する作品を差し出すのか? と問われれば、それも答えに詰まるような。
すべて矛盾。すべて謎。人の心など奥深くて、追えば疲れる。把握可能な自分の作品の世界にでも埋もれて、めり込んでいきたい。そうでもないとどうにも心狂わされる……それも、現実などではなく幻想に。
腹が減る、心臓が動く、血が流れる、そして交尾。こんなこと誰が決めたんだ?
私は知らない。関与していない。が、作品の世界も無縁ではなく、獣臭がする。この獣臭を好んで人は作品を求めるのか。
私は元々、作品上の獣臭が好きではなかった。動物園の臭いは好きだけど。なぜ作品でまで、恋だの愛だの汚い話をしなければならないのか。息抜きなのに息が詰まりそうだと、嫌悪していた。
が、今は別の意味で、いずれにせよ息が詰まる。
作品を好きになるべきであって、作者を好きになってはならないのだ。
作品を見られたいと望むべきであって、私を見てほしいと履き違えてはならないのだ。
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絡んでゆく。ほどけない。今はどうしようもない。
時が経てば肉体も朽ち果てて、自然に枯れるだろう。移ろいゆくこの思いが、ただの肉体から発される本能、それ以外は個体差であり、それを自分と呼ぶのか、自分と呼ぶに値しないのか、もはや分からない。
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何かズレたことを言っていたらすみません。
いつもお読みいただきありがとうございます😆