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「同じ話しかしない」のは「寂しい」からだ
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ネタ切れというか、最近同じような話を繰り返してばかりで困っている(※わざと2~3回同じ話を繰り返している場合もある)。
「どこかで聞いたような話」は別に良いのだ。それを自分はまだ一度も話していないならば、私のところで初めて聞く人もいるかもしれない。
「チューリップの話しかしない」などという限定された話題であっても、チューリップにめちゃくちゃ詳しい、あるいは熱心に調べるなどして、原種だの文化だの、チューリップが人気になった時代背景だの、育て方だの「世界一高価な品種」だの、ありとあらゆる角度から語れるならば、それは面白いだろう。
となると問題なのは「同じ話」が多いことより話の浅さ。
私の詩なんかでも、使っている言葉は違うとしても、「なんか同じような出だし」で「なんか同じような葛藤」を経て「なんか毎度同じような結論」にたどり着く構成が多いと、既視感が増してくる。自分としては「違う話」を書いているつもりでも。
*
「昔々あるところに」という出だしは、共感しやすくていい。どこの誰でも共感できる。という話をどこかで聞いた。
おそらくこういう話もある種の「有名な」話題だろう。「チューリップ」といった名詞じゃなくても、「私は石橋を叩きすぎて割ってしまうタイプだ」とか、ことわざっぽくよく使う、時々耳にする類の言い回しがある。アニメでよく使われる表現とか、「あるある」エピソードなんかも、共感しやすい……汎用性というのだろうか。
*
「具体的」「専門的」「マイナー」な話などは、伝わるかどうか分からない。ある程度抽象的であり、ある程度有名なワードだと伝わりやすそう。
たとえば「さっき食べたチョコ美味しかった~」とか。「それが何だよ」と返される可能性はあるが、チョコを知らない人はほぼいないだろうし、概ね共感されやすいだろう。チョコが嫌いな人も、自分の好きな食べ物に置き換えて読んでくれるかもしれない。
「仕事帰りに店に立ち寄って飲む一杯が最高」と言われたら、私は仕事帰りに自販機で買って飲むジュースを思い浮かべる。言った人はお酒の話をしているのかもしれないが、なんとなく共感できる幅広い表現は良い。似たようなことに置き換えられる、ありふれた言葉が良いのだ。
まぁありふれている分、聞く人によっては聞き飽きており「つまらない話」と取られるかもしれないが。
*
なんで人って、有名なものの話しかしないんだろう? と思ったことがある。私たちの目の前には色んな虫がいるし、色んな植物が生えているのに、まるでそれが目に入らないかのように、「桜」の話だけをしていたり。
ハシビロコウやカピバラ、アルパカだって、流行る前はマイナーな普通の動物だっただろう。見向きもされない日も多かっただろう。それが今や誰にでも知られ、「あっ、カピバラだ!」と指差されるはず。一方マーラなんかは、「マーラが……」と言っても聞き返されるのではないか? あんまり聞いたことないし。
「人気」というのは本当に、「好き」であり「理解」なのか?
よく知らなくても、「有名人」だとか、何かのキャラ、目立つ人がいたら反応してしまうように。ただの反応が5割くらいを占めていたりして。
*
よく考えたら私も、どこか「有名な」話をしがちなのだ。それは「共感されやすい」と知っているからだ。
「向日葵が綺麗だったよ」と言えば、多くの人は何らかの反応を返しやすい。が、「ヤマトシリアゲの夏型を見かけたよ」と言って、何人が共感してくれるだろう。
写真つきで投稿すれば、「なるほど、これがヤマトシリアゲの夏型か」と思ってもらえるから良いだろうが、会話だと……。
あ、雑談ならスマホ画面で画像を見せながら話せば良いのか。でも見せた途端、悲鳴上げる人もいるだろうな。
ということで何やかんやめんどくさいし、一発で伝わないと、感情のタイムラグが起こりそうな気がする。ギャグなんかは特に勢いが大事だろうし、勢いが削がれてしまうと致命的なのでは。
ということで普段の話でも、無意識に「一発で共感してもらいやすい」話題を選び、共感してもらいにくいであろう思いは胸にしまっているのではないか。説明するのがめんどくさいから。
*
しかし私の今の悩みは「同じような話しかできない」ところ……。
大体、語れることを語り尽くしたんだろう。しょうがない。例えば毎回「色」について語っていくとして、「今日は赤」「青」「緑」「紫」と思いつく色を語り尽くしていったら、そのうち言うことは尽きるだろう。
しかし本当に話題自体が尽きたはずはない。
町に出ると、まだ知らない店、入ったことのない建物がいっぱいだ。
もちろん、知らない虫や雑草もいっぱい。ならば、自分が一度も話題に出したことがないものは、無限にある。
安全領域から出ればいい。無意識に「話せること」を決めてしまっているから、それ以外出てこないのだ。まだまだ世界には色んな生き物がいるし、私はその話をしていないじゃないか。
……でも何にも詳しくないしな。「見つけた生き物を調べる」ことはできても、「新しい何か」を付随させた話をするのは難しい。
私には、「このバッタを調べてみたらツチイナゴでした。可愛いですね」くらいしか言えない。毎回「バッタです。可愛いですね」「ちょうちょです。可愛いですね」なんて言っているようでは、情報がないし情緒もない。「どっかで見た知識を載せるだけ」でもオリジナリティがないし。
それなら図鑑や、誰かの生き物エッセイの方が、質の高い話が載っているだろう。無料で見られるブログでも、生き物への熱意が伝わってくるものが多い。
*
どこかの情報の丸写しや繰り返し、真似でなく、私らしく書けることとは?
どうも私はリアルを知り信じるんじゃなく、自分で作りたいらしいし。「研究」をするつもりはあまりなく、弱肉強食を崇拝したくもないらしい。私だけの発想でできること、とは……。
たとえば「ミズカマキリ」について思い出して書いてみると……。
「祖母の家に行くとき、私はいつも虫取りを楽しみにしていた。アニメ映画に出てきそうな、立派な日本家屋。祖母が出してくれるスイカの香り、仏壇からの線香の香り。目の前は田畑、そしてまわりには広大そうな森。ここには昔懐かしい、虫との共存がある。夜になると家の中に入ってくるバッタやカブトムシ。生き物との出会いの中でも私がいつも楽しみにしていたのは、ミズカマキリに会うことだ。祖母の家の近くにある池にミズカマキリが大量にいるのだ……」
話が長くなる。話が長いというのは欠点であると同時に長所でもあるかもしれない。自分の体験が加わることによって、話に物語のような雰囲気が出始める可能性があるのだ。単に目に入った事実を言うだけでなく、「思い出す」ことによって、今では減りつつある日常の光景だとか、読み手の記憶を引き出す可能性もある。
「ミズカマキリがいました。可愛いですね」だけじゃなく、ミズカマキリへの思い入れを語る。ミズカマキリのイメージ、まわりの空気、色んなものを含ませる。そうすることで、ミズカマキリを見たことない人でも、アリジゴクを掘り出して遊んだとか、カブトムシを探したとか、色んな思い出と結びつけてくれるかもしれない。
ミズカマキリに詳しくなくても、こうして少し語れるわけだ。やはり思い入れのあることについて語るのがいいな。思い入れさえあれば、チューリップについてだって、延々と語れるだろう。思い入れのない光景だと、ぼんやり憧れたところで語れない。「知らない」「体験したことがない」ことであっても、思い入れがあれば、創作の一部として使うなど、語れることはあるんじゃないだろうか。
*
「意見を言う」というのも私の文章でよくあることだが、どうも否定的になりがちだ。
「私は雨が好きだ。なのにみんな晴れが好きだとばかり言う。雨の日、『早くやむといいですね』と言ってくる。『いいえ』と言うわけにもいかず、悶々とする」
こういう具合に、「雨が好き」と語っていたつもりが、いつの間にやらネガティブになっている。これだと多数派である「晴れが好きな人」を敵に回すだけだし、「そういう考えもあるんだなぁ」とありがたい受け取り方をしてもらえるとは限らず、もったいない。しかし文句はこのくらいにして、体勢を立て直して続けていけば、まぁまぁ読み進められる文章に仕上がるかもしれない。
「私はなぜ雨が好きなのか。それは、雨の日はいつもとは違う生き物に出会いやすいからだ。サワガニが道を横切ったり。イモリがいたこともあった。カタツムリも好きだ。他にも、普段は目に付かない場所にいる生き物が、目に付く場所に現れるような気がするのだ。ムカデの食事をまじまじと眺めたあの日も、小雨の降る日だった」
このように続ければ、最初の愚痴は聞き流して共感してくれるかも。
って、「雨が好き」も「ムカデが見られる」も「喜び」として共感しにくいのでは……。ま、心を込めて語っても共感してもらえないんじゃしょうがない。そこはお手上げだ。
*
そういえば私は昔、話に共感してもらえなかったことが多い覚えがある。なかなか感覚を分かち合えず、寂しかった。
だからかもしれない。同じ話、聞き慣れた話を繰り返す方が、なんだか無難で共感してもらえると思っているのだ。
以前話して許してもらえたことは、許してもらえる範囲であると思っている。新たな感覚について語ると、許してもらえるかどうか分からない。今までずっと話が合っていた人でも、こちらがヘビの話を持ち出したら逃げるかもしれない。
でも「嫌われたくないから言いたいことを言えない」というゾーンじゃ、無難な言葉を繰り返すしかない。それじゃ表現者には向いていないのかも。「言いたいことを言えずに好かれるより、言いたいことを言って嫌われる方が良い」と思い切りたい。
「どこかで聞いたような話」は別に良いのだ。それを自分はまだ一度も話していないならば、私のところで初めて聞く人もいるかもしれない。
「チューリップの話しかしない」などという限定された話題であっても、チューリップにめちゃくちゃ詳しい、あるいは熱心に調べるなどして、原種だの文化だの、チューリップが人気になった時代背景だの、育て方だの「世界一高価な品種」だの、ありとあらゆる角度から語れるならば、それは面白いだろう。
となると問題なのは「同じ話」が多いことより話の浅さ。
私の詩なんかでも、使っている言葉は違うとしても、「なんか同じような出だし」で「なんか同じような葛藤」を経て「なんか毎度同じような結論」にたどり着く構成が多いと、既視感が増してくる。自分としては「違う話」を書いているつもりでも。
*
「昔々あるところに」という出だしは、共感しやすくていい。どこの誰でも共感できる。という話をどこかで聞いた。
おそらくこういう話もある種の「有名な」話題だろう。「チューリップ」といった名詞じゃなくても、「私は石橋を叩きすぎて割ってしまうタイプだ」とか、ことわざっぽくよく使う、時々耳にする類の言い回しがある。アニメでよく使われる表現とか、「あるある」エピソードなんかも、共感しやすい……汎用性というのだろうか。
*
「具体的」「専門的」「マイナー」な話などは、伝わるかどうか分からない。ある程度抽象的であり、ある程度有名なワードだと伝わりやすそう。
たとえば「さっき食べたチョコ美味しかった~」とか。「それが何だよ」と返される可能性はあるが、チョコを知らない人はほぼいないだろうし、概ね共感されやすいだろう。チョコが嫌いな人も、自分の好きな食べ物に置き換えて読んでくれるかもしれない。
「仕事帰りに店に立ち寄って飲む一杯が最高」と言われたら、私は仕事帰りに自販機で買って飲むジュースを思い浮かべる。言った人はお酒の話をしているのかもしれないが、なんとなく共感できる幅広い表現は良い。似たようなことに置き換えられる、ありふれた言葉が良いのだ。
まぁありふれている分、聞く人によっては聞き飽きており「つまらない話」と取られるかもしれないが。
*
なんで人って、有名なものの話しかしないんだろう? と思ったことがある。私たちの目の前には色んな虫がいるし、色んな植物が生えているのに、まるでそれが目に入らないかのように、「桜」の話だけをしていたり。
ハシビロコウやカピバラ、アルパカだって、流行る前はマイナーな普通の動物だっただろう。見向きもされない日も多かっただろう。それが今や誰にでも知られ、「あっ、カピバラだ!」と指差されるはず。一方マーラなんかは、「マーラが……」と言っても聞き返されるのではないか? あんまり聞いたことないし。
「人気」というのは本当に、「好き」であり「理解」なのか?
よく知らなくても、「有名人」だとか、何かのキャラ、目立つ人がいたら反応してしまうように。ただの反応が5割くらいを占めていたりして。
*
よく考えたら私も、どこか「有名な」話をしがちなのだ。それは「共感されやすい」と知っているからだ。
「向日葵が綺麗だったよ」と言えば、多くの人は何らかの反応を返しやすい。が、「ヤマトシリアゲの夏型を見かけたよ」と言って、何人が共感してくれるだろう。
写真つきで投稿すれば、「なるほど、これがヤマトシリアゲの夏型か」と思ってもらえるから良いだろうが、会話だと……。
あ、雑談ならスマホ画面で画像を見せながら話せば良いのか。でも見せた途端、悲鳴上げる人もいるだろうな。
ということで何やかんやめんどくさいし、一発で伝わないと、感情のタイムラグが起こりそうな気がする。ギャグなんかは特に勢いが大事だろうし、勢いが削がれてしまうと致命的なのでは。
ということで普段の話でも、無意識に「一発で共感してもらいやすい」話題を選び、共感してもらいにくいであろう思いは胸にしまっているのではないか。説明するのがめんどくさいから。
*
しかし私の今の悩みは「同じような話しかできない」ところ……。
大体、語れることを語り尽くしたんだろう。しょうがない。例えば毎回「色」について語っていくとして、「今日は赤」「青」「緑」「紫」と思いつく色を語り尽くしていったら、そのうち言うことは尽きるだろう。
しかし本当に話題自体が尽きたはずはない。
町に出ると、まだ知らない店、入ったことのない建物がいっぱいだ。
もちろん、知らない虫や雑草もいっぱい。ならば、自分が一度も話題に出したことがないものは、無限にある。
安全領域から出ればいい。無意識に「話せること」を決めてしまっているから、それ以外出てこないのだ。まだまだ世界には色んな生き物がいるし、私はその話をしていないじゃないか。
……でも何にも詳しくないしな。「見つけた生き物を調べる」ことはできても、「新しい何か」を付随させた話をするのは難しい。
私には、「このバッタを調べてみたらツチイナゴでした。可愛いですね」くらいしか言えない。毎回「バッタです。可愛いですね」「ちょうちょです。可愛いですね」なんて言っているようでは、情報がないし情緒もない。「どっかで見た知識を載せるだけ」でもオリジナリティがないし。
それなら図鑑や、誰かの生き物エッセイの方が、質の高い話が載っているだろう。無料で見られるブログでも、生き物への熱意が伝わってくるものが多い。
*
どこかの情報の丸写しや繰り返し、真似でなく、私らしく書けることとは?
どうも私はリアルを知り信じるんじゃなく、自分で作りたいらしいし。「研究」をするつもりはあまりなく、弱肉強食を崇拝したくもないらしい。私だけの発想でできること、とは……。
たとえば「ミズカマキリ」について思い出して書いてみると……。
「祖母の家に行くとき、私はいつも虫取りを楽しみにしていた。アニメ映画に出てきそうな、立派な日本家屋。祖母が出してくれるスイカの香り、仏壇からの線香の香り。目の前は田畑、そしてまわりには広大そうな森。ここには昔懐かしい、虫との共存がある。夜になると家の中に入ってくるバッタやカブトムシ。生き物との出会いの中でも私がいつも楽しみにしていたのは、ミズカマキリに会うことだ。祖母の家の近くにある池にミズカマキリが大量にいるのだ……」
話が長くなる。話が長いというのは欠点であると同時に長所でもあるかもしれない。自分の体験が加わることによって、話に物語のような雰囲気が出始める可能性があるのだ。単に目に入った事実を言うだけでなく、「思い出す」ことによって、今では減りつつある日常の光景だとか、読み手の記憶を引き出す可能性もある。
「ミズカマキリがいました。可愛いですね」だけじゃなく、ミズカマキリへの思い入れを語る。ミズカマキリのイメージ、まわりの空気、色んなものを含ませる。そうすることで、ミズカマキリを見たことない人でも、アリジゴクを掘り出して遊んだとか、カブトムシを探したとか、色んな思い出と結びつけてくれるかもしれない。
ミズカマキリに詳しくなくても、こうして少し語れるわけだ。やはり思い入れのあることについて語るのがいいな。思い入れさえあれば、チューリップについてだって、延々と語れるだろう。思い入れのない光景だと、ぼんやり憧れたところで語れない。「知らない」「体験したことがない」ことであっても、思い入れがあれば、創作の一部として使うなど、語れることはあるんじゃないだろうか。
*
「意見を言う」というのも私の文章でよくあることだが、どうも否定的になりがちだ。
「私は雨が好きだ。なのにみんな晴れが好きだとばかり言う。雨の日、『早くやむといいですね』と言ってくる。『いいえ』と言うわけにもいかず、悶々とする」
こういう具合に、「雨が好き」と語っていたつもりが、いつの間にやらネガティブになっている。これだと多数派である「晴れが好きな人」を敵に回すだけだし、「そういう考えもあるんだなぁ」とありがたい受け取り方をしてもらえるとは限らず、もったいない。しかし文句はこのくらいにして、体勢を立て直して続けていけば、まぁまぁ読み進められる文章に仕上がるかもしれない。
「私はなぜ雨が好きなのか。それは、雨の日はいつもとは違う生き物に出会いやすいからだ。サワガニが道を横切ったり。イモリがいたこともあった。カタツムリも好きだ。他にも、普段は目に付かない場所にいる生き物が、目に付く場所に現れるような気がするのだ。ムカデの食事をまじまじと眺めたあの日も、小雨の降る日だった」
このように続ければ、最初の愚痴は聞き流して共感してくれるかも。
って、「雨が好き」も「ムカデが見られる」も「喜び」として共感しにくいのでは……。ま、心を込めて語っても共感してもらえないんじゃしょうがない。そこはお手上げだ。
*
そういえば私は昔、話に共感してもらえなかったことが多い覚えがある。なかなか感覚を分かち合えず、寂しかった。
だからかもしれない。同じ話、聞き慣れた話を繰り返す方が、なんだか無難で共感してもらえると思っているのだ。
以前話して許してもらえたことは、許してもらえる範囲であると思っている。新たな感覚について語ると、許してもらえるかどうか分からない。今までずっと話が合っていた人でも、こちらがヘビの話を持ち出したら逃げるかもしれない。
でも「嫌われたくないから言いたいことを言えない」というゾーンじゃ、無難な言葉を繰り返すしかない。それじゃ表現者には向いていないのかも。「言いたいことを言えずに好かれるより、言いたいことを言って嫌われる方が良い」と思い切りたい。
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【うだつの上がらないエッセイ集】
生き物の話や夢の日記、思い出や星占いの話など、思いついたことを色々詰め込んだ連載です。
【良くも悪くも、星の回転は止まらない】
詩集です。すぐ読める短いものが多いです。20編で完結しました。
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