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理詰めに向いていない
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昔から書くこと、喋ることが好きだったが、自分の行動の説明がつかない部分が多く、「なぜこんなことしたの!」と聞かれては「分かりません」と答えていた。調子に乗りやすいというか、流されやすいというか。
人は訳の分からない行動を嫌う。今だって私は不審者みたいにウロウロしているが、「生き物が好きです」と答えれば、おそらく「なーんだ、虫を探していたのね」とホッとする人もいることだろう。決して、放火しようだの盗みを働こうだの、子どもを連れ去ろうだの盗撮しようだの思っているわけではない。
人の家の方向を覗いているときは大抵、「珍しい植物植えてはるなぁ」とか「あそこにでかい虫がいるんだけど、人んちだしなぁ、残念……」とか思っているだけである。
いつ何を聞かれても、行動や考えを手短に答えるための「理由」が必要。
以前は失敗に関して、「分からないならなぜ聞かなかったの!」とよく怒られたが、「何が分からないのか分からない状態」だった。
何かを聞かれるときも、聞くときも、「相手は何に納得していないのか、どこが腑に落ちていないのか」考えながら「手短に」言葉を発する必要がある。
昔は「急に話しかけられてビックリして言葉が出ない」なんてことも多かったが、人間界にいるのなら、「急に話しかけられること」くらいは常に想定済みでないといけない。でないと常に「ビックリした」「え、何? どういうこと?」と状況判断に時間がかかる。
「肉食動物にいつ襲われるか分からないから、常にまわりを警戒している小動物」みたいに、まわりの状況を何となくでも感じておかないといけない。そうすると、「さっきのアレ、◯◯だったらしいよ」と、「あれ」「それ」「この間の……」といった抽象的な言葉でも、何となく「あれのことだな」と瞬時に文脈を判断できる。完全には分からなかったとしても「あれか、これか、それのことだろう」と見当をいくつかに絞って話を聞けるし、それでもハッキリしなかったら「この間言っていた◯◯のことですか?」とか、「◯◯のルールが変更になりますもんね」とか、「範囲を絞って」聞くことができる。
こうやって相手の話に見当をつけて聞かないと、マジで何をおっしゃっているのか分からない。これはもう近年やっと、自分のコミュニケーション能力が上達してきたと言える。野球には野球、オセロにはオセロのルールがあるように、会話にも法則性があるのだ。
ただ、独り言を言いまくっていてこちらに話しかけているのかどうか分からない人、早口な人、声が小さい人、質問しても答えが不明瞭な人など、「聞き取れない」系の人との会話はやや難しい。
自分自身はもうなるべく、言葉で説明がつく人でいよう。小学生の頃、言葉で説明ができなくて「急に暴れる人」がいたが、そういう、「説明できないことを怒りで表す」態度は双方エネルギーを使うし、もう大人なのだから、説明できる自分でいなきゃ。
という訳で、今は文章で自分の気持ちを「ああかも」「こうかも」と説明する練習をすると共に、整理している。
が、自分の気持ちや行動パターンすら把握できておらず、だいぶ間違っている気がする。「私は曲がったことが大嫌いだ」と言いながら、嘘をついたり人の揚げ足を取ったりする、みたいな。
「こう言われて何だかモヤモヤした。多分、自分のトラウマを彷彿とさせる状況だから嫌な気がしたんだな」などと結論付けてみるが、本当にそうなのかどうなのか、「いや、あの時点では別のこと思っていたぞ」とか、考えるほど辻褄の合わなくなってくる部分も多い。
途中で話がすり替わってくる、元の意図や感情を忘れることが多い。ネガティブなもので、「今日は楽しかった」と書きたい、感動を伝えたいときでさえ、「以前は何度やっても上手くいかなかった上に、嫌なこと言われたから……」などと、いつの間にかネガティブループにすり替わっている。「自分の苦手なものに対し、冷静に分析し、理解を示す」ような文章を書きたかったときでも、いつの間にか怒っている。感情のコントロールはまだできていないようだ。大人気ないなぁ。
「分かりやすく説明してくれる人」の話はありがたい。例えたり、ジョークを挟んだり、楽しい気分にしてくれる。私も、誰かを楽しい気分にまではさせられなくても、「共感してスッキリ」してもらうようなものは書きたいところだけど……。まだまだ、自分の意見の整合性が取れない。
今まで長年、文章を書くことは好きでも、どこか「読む人」にまで気が回っていないというか、独りよがりだったもので。未だに難しい。でも「説明がつく」人間でなきゃ。「なんでこんなことしたの!」と聞かれたときに、「ああそれ、◯◯が壊れているみたいだったので、一旦そのまま置いておいて、後で様子を見てみようと思って」などと、瞬時に的確に説明できる人間でなきゃ。
リアルにおいて私の一人語りなど、誰も聞いてくれない。私としては一生懸命喋っているつもりでも、「誰もアンタのことになんか興味ないよ。無駄な時間使わせないでくれる?」というのが他人の反応。
ネットでだってほとんどの人はこちらに興味ないだろう。私も何らかの理由や共感がないと人の文章を読めない。
こうやって少しずつ「コミュニケーション」への歩み寄りをし、社会や人間の心を推察してきた結果、ちょっとは分かるようになった。
仕事のできる人はコミュニケーション下手が多そうだ。高圧的だったり、「伝えてもいない」ことを相手ができなかったら「なぜあんなことができない、分からない?」と怒ったり。こちらとは違う意味で「何が分からないのか分からない」人が多いようなのだ。「そりゃ、あんな言い方したら相手が怖がるだろう」「もっと子どもに教えるように丁寧に教えてあげなきゃ、そんなの勝手に察して理解できるはずないじゃん」と思うことが多い。
何だろう、昭和世代のとある人が「仕事は教わるもんじゃない、見て覚えるものだ。私はそれができたし、できないヤツはダメなヤツだった」みたいなこと言っていたから、令和でもそういう考えの人が一定数いるんだろうか。こちらからしたらただの感情的な教え下手にしか見えないし、「丁寧に教えてあげれば分かるだろうに、なんで教えないままイライラ怒っているんだ?」と思うのだが。
世界を見渡せどまともな人などいそうにない。みんな人間だ。感情的に怒ったり、戦争の歴史ばかり重ねてきたり。どこの誰がまともなもんか。私だって都合の悪い事実は隠して被害者ぶってるだけだ。
子どもの頃は多分、人の話を聞いたり状況を把握したりすることより、どこかに虫がいないかとか、自分の興味のあることに集中していたんだろう。だから人間界のコミュニケーションが分からなかった。それで良ければ良かったんだけれど、そういうわけにもいかなかった。
人間界に集中してもご褒美はそんなになし。ちょっとストレスが増えたような。
そのときそのとき興味のあることだけで、楽しく幸せに生きていけたら良いのになぁ。
人間界はもっと、幸せになれるはずだ。
人は訳の分からない行動を嫌う。今だって私は不審者みたいにウロウロしているが、「生き物が好きです」と答えれば、おそらく「なーんだ、虫を探していたのね」とホッとする人もいることだろう。決して、放火しようだの盗みを働こうだの、子どもを連れ去ろうだの盗撮しようだの思っているわけではない。
人の家の方向を覗いているときは大抵、「珍しい植物植えてはるなぁ」とか「あそこにでかい虫がいるんだけど、人んちだしなぁ、残念……」とか思っているだけである。
いつ何を聞かれても、行動や考えを手短に答えるための「理由」が必要。
以前は失敗に関して、「分からないならなぜ聞かなかったの!」とよく怒られたが、「何が分からないのか分からない状態」だった。
何かを聞かれるときも、聞くときも、「相手は何に納得していないのか、どこが腑に落ちていないのか」考えながら「手短に」言葉を発する必要がある。
昔は「急に話しかけられてビックリして言葉が出ない」なんてことも多かったが、人間界にいるのなら、「急に話しかけられること」くらいは常に想定済みでないといけない。でないと常に「ビックリした」「え、何? どういうこと?」と状況判断に時間がかかる。
「肉食動物にいつ襲われるか分からないから、常にまわりを警戒している小動物」みたいに、まわりの状況を何となくでも感じておかないといけない。そうすると、「さっきのアレ、◯◯だったらしいよ」と、「あれ」「それ」「この間の……」といった抽象的な言葉でも、何となく「あれのことだな」と瞬時に文脈を判断できる。完全には分からなかったとしても「あれか、これか、それのことだろう」と見当をいくつかに絞って話を聞けるし、それでもハッキリしなかったら「この間言っていた◯◯のことですか?」とか、「◯◯のルールが変更になりますもんね」とか、「範囲を絞って」聞くことができる。
こうやって相手の話に見当をつけて聞かないと、マジで何をおっしゃっているのか分からない。これはもう近年やっと、自分のコミュニケーション能力が上達してきたと言える。野球には野球、オセロにはオセロのルールがあるように、会話にも法則性があるのだ。
ただ、独り言を言いまくっていてこちらに話しかけているのかどうか分からない人、早口な人、声が小さい人、質問しても答えが不明瞭な人など、「聞き取れない」系の人との会話はやや難しい。
自分自身はもうなるべく、言葉で説明がつく人でいよう。小学生の頃、言葉で説明ができなくて「急に暴れる人」がいたが、そういう、「説明できないことを怒りで表す」態度は双方エネルギーを使うし、もう大人なのだから、説明できる自分でいなきゃ。
という訳で、今は文章で自分の気持ちを「ああかも」「こうかも」と説明する練習をすると共に、整理している。
が、自分の気持ちや行動パターンすら把握できておらず、だいぶ間違っている気がする。「私は曲がったことが大嫌いだ」と言いながら、嘘をついたり人の揚げ足を取ったりする、みたいな。
「こう言われて何だかモヤモヤした。多分、自分のトラウマを彷彿とさせる状況だから嫌な気がしたんだな」などと結論付けてみるが、本当にそうなのかどうなのか、「いや、あの時点では別のこと思っていたぞ」とか、考えるほど辻褄の合わなくなってくる部分も多い。
途中で話がすり替わってくる、元の意図や感情を忘れることが多い。ネガティブなもので、「今日は楽しかった」と書きたい、感動を伝えたいときでさえ、「以前は何度やっても上手くいかなかった上に、嫌なこと言われたから……」などと、いつの間にかネガティブループにすり替わっている。「自分の苦手なものに対し、冷静に分析し、理解を示す」ような文章を書きたかったときでも、いつの間にか怒っている。感情のコントロールはまだできていないようだ。大人気ないなぁ。
「分かりやすく説明してくれる人」の話はありがたい。例えたり、ジョークを挟んだり、楽しい気分にしてくれる。私も、誰かを楽しい気分にまではさせられなくても、「共感してスッキリ」してもらうようなものは書きたいところだけど……。まだまだ、自分の意見の整合性が取れない。
今まで長年、文章を書くことは好きでも、どこか「読む人」にまで気が回っていないというか、独りよがりだったもので。未だに難しい。でも「説明がつく」人間でなきゃ。「なんでこんなことしたの!」と聞かれたときに、「ああそれ、◯◯が壊れているみたいだったので、一旦そのまま置いておいて、後で様子を見てみようと思って」などと、瞬時に的確に説明できる人間でなきゃ。
リアルにおいて私の一人語りなど、誰も聞いてくれない。私としては一生懸命喋っているつもりでも、「誰もアンタのことになんか興味ないよ。無駄な時間使わせないでくれる?」というのが他人の反応。
ネットでだってほとんどの人はこちらに興味ないだろう。私も何らかの理由や共感がないと人の文章を読めない。
こうやって少しずつ「コミュニケーション」への歩み寄りをし、社会や人間の心を推察してきた結果、ちょっとは分かるようになった。
仕事のできる人はコミュニケーション下手が多そうだ。高圧的だったり、「伝えてもいない」ことを相手ができなかったら「なぜあんなことができない、分からない?」と怒ったり。こちらとは違う意味で「何が分からないのか分からない」人が多いようなのだ。「そりゃ、あんな言い方したら相手が怖がるだろう」「もっと子どもに教えるように丁寧に教えてあげなきゃ、そんなの勝手に察して理解できるはずないじゃん」と思うことが多い。
何だろう、昭和世代のとある人が「仕事は教わるもんじゃない、見て覚えるものだ。私はそれができたし、できないヤツはダメなヤツだった」みたいなこと言っていたから、令和でもそういう考えの人が一定数いるんだろうか。こちらからしたらただの感情的な教え下手にしか見えないし、「丁寧に教えてあげれば分かるだろうに、なんで教えないままイライラ怒っているんだ?」と思うのだが。
世界を見渡せどまともな人などいそうにない。みんな人間だ。感情的に怒ったり、戦争の歴史ばかり重ねてきたり。どこの誰がまともなもんか。私だって都合の悪い事実は隠して被害者ぶってるだけだ。
子どもの頃は多分、人の話を聞いたり状況を把握したりすることより、どこかに虫がいないかとか、自分の興味のあることに集中していたんだろう。だから人間界のコミュニケーションが分からなかった。それで良ければ良かったんだけれど、そういうわけにもいかなかった。
人間界に集中してもご褒美はそんなになし。ちょっとストレスが増えたような。
そのときそのとき興味のあることだけで、楽しく幸せに生きていけたら良いのになぁ。
人間界はもっと、幸せになれるはずだ。
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【うだつの上がらないエッセイ集】
生き物の話や夢の日記、思い出や星占いの話など、思いついたことを色々詰め込んだ連載です。
【良くも悪くも、星の回転は止まらない】
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